第四章 真実の指摘は人を不機嫌にさせる ~その五~

「こうやって食べた直後にいうのも何なんだが、もし次に作ってくれる機会があれば、この三倍くらいは食べたいな。同時に三皿で頼む」

「え!? そっ、それはさすがに食べすぎじゃない?」

「この前もいったが、今のおれには、体力を回復させるためのたくさんの栄養が必要だからな。グラタン三皿くらいなら問題ない」

「そうかなあ……」

 疑惑のまなざしで重信を一瞥した美咲は、空になった皿やフォークを素早く洗った。

「――そういえば田宮くん、時間はいいのか?」

「何が?」

「すぐお隣とはいえ、もう夜の一一時近い。あまり遅くなるとおばさんが心配するんじゃないのか?」

「あー……うん」

 濡れた手を拭きながら、美咲は時計の文字盤を見やって曖昧にうなずいた。

「……どうした? 何かあるのか?」

「いや、その……おかあさんいないんだよね、今週末。おとうさんのとこに行ってて」

 最近になって美咲の父は単身赴任になったという。ふだんは地方ではたらいていて、ときどき家に戻ってくるらしい。そのため美咲の母は、月に二度ほど夫の赴任先へおもむき、マンションの掃除や洗濯を手伝ったりしているということだった。

「まあ、きみももう子供ではないし、こうして料理もできるから、ひと晩やふた晩、親がいなくてもどうということはないだろうが――」

 美咲の母が不在なのは判った。だが、親が不在だからといって、美咲が自宅に戻らない理由にはならない。もっとも、美咲がこの場に居座ろうとする理由については、重信にも何となく想像はつく。

 ただ、それに対してどう行動するのが正解なのか、よく判らない。

「何も考えずにエローダーをブチのめしているほうがよほど簡単だが、これはこれで楽しい……のか?」

「何かいった、のぶくん?」

「いや、何でもない」

 小さなミルクパンに牛乳と紅茶の茶葉を放り込み、ヒーターにかけていると、ソファに座っていた美咲が腰を浮かせた。

「あれ? 何? わたしがやろうか?」

「いや、いい。自分の好みの濃さというものがあるからな。――ミルクティーを作ろうと思うんだが、きみも飲むか?」

「うん、ありがと」

 そう答えてふたたびソファの上で膝をかかえた美咲は、どこかほっとしているように見えた。おそらく、家に帰る帰らないという話題が遠のいたからだろう。

「――そういえば田宮くん、英語の宿題は終わったか?」

「え? あ、うん」

「それは頼もしいな」

「……もしかしてのぶくんはやってないの?」

「きょうのおれに宿題をやっている暇があったと思うか?」

「そこ、いばるところじゃなくない?」

「いばってない」

「あしたの授業前でよかったら写させてあげようか?」

「まったくもってきみは頼もしいな」

 ふつふつと沸騰し始めた牛乳に大量の砂糖を投入する。冷たいミルクティーは特に好きではないが、こういう煮出して作るミルクティーは、昔からよく母がよく作ってくれていた。これもまた自分の好物なのだということを、重信は美咲のグラタンとセットで思い出した。

「――それにしても、高校での英語教育が実生活で役に立つ時が来るのかどうか、はなはだ疑問だな。むしろもっと本格的なレベルの英語ならやる価値がありそうなんだが」

「そんなこというけどさ、実際にもっとハイレベルな授業になったらイヤでしょ、のぶくん?」

「無論だ。というか、子供の頃から、学校の授業が好きだった時期などまったくないからな、おれは」

 でき上がったミルクティーをマグカップにそそぎ、ひとつを美咲に手渡して、重信は彼女の隣に腰を下ろした。

「ありがと。……でものぶくん、歴史は好きだったんじゃない?」

「別に好きというわけでもない」

 確かにほかの科目とくらべれば、歴史――というより日本史は成績がいい部類に入るが、それは別段、歴史が好きだから熱心に勉強していたというわけではなく、時代劇が好きな長野の祖父の影響で、学ばずとも戦国時代や江戸時代に詳しかったというだけの話である。

「おじいさんの影響受けまくりだね、のぶくん」

 ソファの上で膝をかかえるように座った美咲は、マグカップを両手で持って静かにミルクティーをすすった。その視線が、どことなくとろんとしてきている。ここ最近、美咲は林崎家で朝食を作るために、ふだんより早起きしているはずだったから、そのせいでまた眠気が襲ってきたのかもしれない。

 そんな幼馴染みをさりげなく横目で見ながら、重信は静かに嘆息した。

「……やれやれ」

 気づけば美咲は、ほとんど空のマグカップを持ったまま、なかば重信に寄りかかるようにして眠っていた。若い男とふたりきりというシチュエーションで寝入ってしまうのは、田宮美咲という少女の迂闊さなのか、あるいはいっしょにいるのが幼馴染みの重信だという気安さから来るものなのか。

「うっかりさんだな、田宮くん。もしきみが異世界に飛ばされたら、たぶん今頃は口にもできないようなひどい目に遭っているぞ?」

 少女の手からそっとマグカップを引き抜き、重信は美咲の頭を軽く撫でた。しかし、美咲はいつものように顔を赤くしてうろたえることもなく、規則正しい寝息を立てている。どうやら完全に寝入っているようだった。

「…………」

 重信は美咲の肩に回した手で、何とはなしに少女の髪をいじった。

 他人の吐息やぬくもりを、いっさい緊張することなくこの距離で感じられるというのは、ほかの世界ではおよそ不可能なことだった。重信が渡り歩いてきたのは、それだけ物騒な死と隣り合わせの世界ばかりで、たとえばそれが戦友たちといっしょに酒を酌み交わしている時や、美女と同じベッドにもぐり込もうとする時であっても、つねに緊張感を維持していなければ命を落としかねない。

 そんな日々をずっと繰り返してきただけに、この世界に戻ってきてからの――特に美咲とすごす時間は、重信にとっては驚くほどにおだやかで居心地がよかった。

 明るいブラウンの髪を軽く引っ張ったり、指先に絡めてみたり、あるいはつむじをくすぐってみたり――美咲がなかなか目を覚まさないのをいいことに、間近から少女の表情を観察しながら、そんないたずらを続けていた重信は、ふと眉をひそめて天井を見上げた。

「……冗談だろう?」

 ゆっくりとかぶりを振り、重信は立ち上がった。眠っている美咲を軽々と抱き上げ、そのまま二階の自室へと運ぶと、自分のベッドに横たえてそっと布団をかける。それから重信は、玄関から持ってきたスニーカーを履いてベランダに出ると、冷ややかな夜気を吸い込んで一気に飛び上がった。

「いったいどういうつもりだ?」

「……文句があるならお嬢にいって」

 ぶっきらぼうに応じた葉月は、林崎家の屋根の上に座り込み、やってきた重信と目を合わせようともしない。学園指定のジャージ姿で、何やらスマホをポチポチといじくっている。

 重信は腕組みし、あたりを見回した。駅前からほどよい距離があるこのあたりは、深夜ともなればずいぶんと静かになり、人通りもほとんどなくなる。民家の窓にはすでにカーテンが引かれていて、時をわきまえずに梁上で対峙する高校生たちに気づく者はいないだろう。

「……なぜきみがここにいる?」

「だからお嬢にいいなよ、文句があるなら」

 スマホのバックライトにほのかに照らされた葉月の顔には、不機嫌さがありありと浮かんでいる。

「……あんたがお嬢に条件をつけたんでしょ?」

「つけるにはつけた」

「おかげでこっちはいいとばっちりよ」

「まさか……きみが護衛役?」

「冗談いわないでよ」

 聞えよがしに溜息をつき、葉月は首を振った。

「正式な護衛役が手配できるまでのつなぎよ。……どうしてわたしがあんたのカノジョのボディガードなんかしなきゃならないわけ?」

「まず、田宮くんはおれのカノジョじゃない。お隣さんかつ幼馴染みだ」

「そう? ずいぶん仲がよさげだけど」

 葉月の唇が釣り上がり、皮肉っぽい言葉がこぼれてきた。

「確かに、この世界で一番おれと親しいのは彼女だな。両親が死んだ今となっては」

「……“機構”加入の条件として、その子に護衛をつけさせるっていうのはよっぽどじゃないの?」

「別に断ってくれてもよかったんだ。その時はおれはきみたちの仲間にはならなかっただけの話で」

「そんなにあの子が大事なの? ……田宮さんだっけ? そこまでこだわってるくせにカノジョじゃないわけ?」

「きみにいっても理解できないだろうな」

「は? 何がよ? またわたしを馬鹿にしてるわけ?」

「おれはきみを馬鹿にしたことは……いや、さっきはすまなかったな」

 戸隠邸で葉月を面罵したことを思い出し、重信は小さく笑った。

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