第四章 真実の指摘は人を不機嫌にさせる ~その四~

「んなこたァねーけどよ。ただオレは――」

 そういいかけたところで佐藤の声が途切れた。同時に鈴木も咀嚼をやめ、グラスを磨くマスターの手も止まっている。田中も含めた全員の視線が、この半地下の店の唯一の出入り口に向けられていた。

「……看板を下げ忘れていたな」

 マスターがぽつりと呟くと、ドアベルの音とともに、やや湿り気を含んだ六月の夜気が流れ込んできた。

「……ふぅ」

 軽くふらつきながら現れた男は、どこかくたびれたサラリーマンという風体で、すでにかなり飲んできているようだった。

「あー……一杯だけ、いいっすよねえ……?」

 酔客は呂律の怪しい口調でそう告げたが、最寄り駅までの距離と今の時刻を考えれば、一杯飲んだだけで終電を逃すことになるだろう。

「いえ、きょうはもう……」

「だってほら、まだほかにもお客さんいるじゃないですか~。ほら、四人も~」

 この空気の読めないサラリーマンは、カウンターにいる客の数もまともに数えられないほど酔いが回っている。タブレットを置いた田中は、額に垂れかかった前髪をかき上げ、静かに溜息をついた。

「この店に置いてある上等な酒というのは、泥酔した状態で飲むものではないと思うんだが……」

「まあ、そういうきみたちは、三人揃って酒が嫌いみたいだけどね」

「は、はは……」

 マスターが小さく笑うのを見て、何か勘違いしたのか、サラリーマンはネクタイをゆるめながら空いているテーブル席に座ろうとしていた。

「おいおい、待てよ」

 佐藤はスツールを回転させて立ち上がった。

「ちょっと、佐藤くん――」

「まあいいんじゃないか、マスター? このまま黙って帰して、今後も常連面で通われたら困るだろう? この店はいつも流行らない場末のバーでなくてはな」

「それはひどいな……これでも経営努力はしているんだがねえ」

 苦笑するマスターをよそに、佐藤はサラリーマンに歩み寄ると、無遠慮にそのネクタイを引っ掴んだ。

「んぐ――」

「判らねーとは思うが、実はここは酒を飲むとこじゃねーんだよ」

 にんまりと笑った次の瞬間、佐藤はサラリーマンの口をふさぐようにして、一気にその身体を店の外に押し返していった。

「人目につかないといいけどねえ」

「鈴木くんまで……他人ごとじゃないんだよ、きみにとっても?」

「まあ、あれで佐藤は意外にそつがないから大丈夫だろう」

 田中はタブレットをアタッシュケースの中にしまい込むと、トマトジュースを飲み干してスツールを下りた。

「鈴木、私はもう帰るが、おまえはどうする?」

「あ、ぼくももう帰るよ。終電がなくなっちゃう」

 残っていたピスタチオを口の中に放り込み、ガムシロップで増量したコーヒー牛乳で流し込んだ鈴木が、ばたばたと帰り支度にかかった。

「それじゃマスター、何かあったらまた呼んでくれ」

「ああ」

「じゃあね、マスター」

 田中と鈴木がマスターの店を出ると、ちょうど佐藤が革の長財布を片手に階段を下りてくるところだった。

「……追い剥ぎか、おまえは?」

「別にいーじゃねーか、小遣い代わりにもらったって」

「どうでもいいが、足がつかないように気をつけろよ?」

「てかよー、もう帰んのか、おめーら?」

「遊び人のおまえとちがって、私たちサラリーマンはあしたも仕事があるからな」

「急がないと終電行っちゃうしね」

「ったく……何がサラリーマンだっつーの。馴染んでんじゃねーよ」

「仕方ないだろう? 使命を果たすまでは、この社会にうまく溶け込んで潜伏する必要がある」

「そのことだけどよ」

 財布をジーンズのポケットに押し込み、佐藤は馴れ馴れしげに田中と鈴木の肩に手を回した。

「……実はおめーらに相談があるんだが」

「えー? お金なら貸さないよ?」

「んなことじゃねーって。……例の新顔くんのことだよ。ちょいとクロコリアスさんを驚かせてやりてーと思ってな」

 リング状のピアスがきらめく唇をゆがめ、佐藤は笑った。


          ☆


 せっかく戸隠邸にお邪魔したというのに、あそこで重信が口にしたのはわずかに紅茶が一杯だけで、途中から騒ぎ始めた腹の虫はいまだにやむことを知らない。

 夜の一〇時すぎにようやく自宅に戻ってきた重信は、玄関に置かれているローファーを見て眉をひそめた。

「……田宮くん?」

 朝食の準備のために毎朝やってくる彼女がいちいちインターホンを鳴らさなくてもいいように、重信は自宅の合鍵を美咲に渡している。だから、重信が家を出ていたとしても、玄関の鍵をかけて自分の家に帰ることもできたはずなのに、なぜか美咲は林崎家のリビングのソファに座ったまま、こうべを垂れて静かな寝息を立てている。その膝の上に文庫本が置かれているところを見ると、読書の途中で寝落ちしたのかもしれない。

「まったくもって平和な世界だ、ここは」

 ふっと小さく微笑み、重信はダイニングテーブルの上にあったグラタン皿をレンジに入れた。焼き立てでないのは残念だが、今夜は何があってもグラタンを食べなければ気がすまない。

 レンジで全体をあたためたあと、すでに焼き目がついている上からさらに粉チーズをどっさりと追加し、あらためてオーブンで加熱する。

「……のぶくん? おかえりぃ」

 キッチンでかちゃかちゃやっている音に気づいたのか、居眠りをしていた美咲が目もとをこすりながら起き出してきた。

「いってくれればわたしが準備したのに――」

「気持ちよさげに寝ている田宮くんを起こすに忍びなくてね」

「その……法律事務所の人とのお話は?」

「聞いているだけで眠くなりそうな話だったが、まあ、夏休みが終わるまでにはもろもろの手続きも終わりそうだ。凍結されていた親の口座も使えるようになったしな」

 つらつらと口から出まかせを並べ立て、重信は簡単に焼き直したグラタンをオーブンから取り出した。

「田宮くん」

「ん?」

「ひょっとすると、これはきみが作ったんじゃないのか? おばさんが作ったものじゃないだろう?」

 熱い湯気の立つグラタンをはふはふとひと口食べて、重信は美咲に尋ねた。

「え……?」

「ブロッコリーの代わりにアスパラが入っている。おれがブロッコリーが好きじゃないと思ったから抜いたんだろう?」

「……判っちゃった? どこか駄目だったかな?」

「いや。うまいよ」

 正直にいってしまえば、タマネギがまだ少し硬くてしゃりしゃりしているし、アスパラの筋も取っていない。この時点で、美咲の母親が作ったものではないとすぐに判った。だいたい、ふつうの感覚を持つ主婦は、もうじき梅雨に入ろうかというこの時期に、マカロニグラタンなどという冬場のメニューを出したりはしない。

 そういうことを考えれば、グラタンが好物の重信のために、美咲がわざわざこれを用意してくれたものだと考えるのが妥当だろう。ブロッコリー抜きなのも、重信の好みをよく知る美咲ならではという気がする。

 だから重信は細かい粗には触れなかった。それに、うまいかまずいかでいうなら、これは実際にうまいグラタンの部類に入る。

 焦げたチーズの層とマカロニを木製のフォークで口に運び、重信はいった。

「わざわざありがとう、田宮くん」

「えっ?」

「おかしな話に聞こえるかもしれないが、事故のあと、おれは自分の好物が何だったのかも忘れていたんだ。きみが作ってくれなければ、グラタンが大好物だということも思い出せなかったかもしれない」

「のぶくん……それ、大丈夫なの? びょ、病院で検査したほうがいいんじゃ――」

「そういうことじゃない」

 急に顔を青ざめさせた美咲を見て、重信はつい笑ってしまった。

「――そんな当たり前のことも思い出せないくらい、最近のおれにはいろいろと面倒なことが多すぎたんだろう。だが、きみのグラタンを食べている間に、何だか全部どうでもいいというか、気が楽になった」

「そっか……のぶくんのためになったのなら、よかったかな?」

「ああ。それに、好きな時に好きなものを食べられるというのは、それだけで素晴らしい世界だ。そうは思わないか?」

「えーっと……う、うん、そうだよね。世界には毎日の食べ物に困ってる子供たちも多いし」

 たぶん、重信の呟きを、美咲は少し違う意味で受け止めている。リターナーでない美咲に判らないのも無理はない。

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