第四章 真実の指摘は人を不機嫌にさせる ~その三~
重信が強力なリターナーだということは葉月も認めている。純粋な強さをくらべた時、自分と重信のどちらが上かはまだよく判らないけど、葉月が重信に対していだいている苛立ちや反感は、重信が持つ強さへの羨望や嫉妬といった、単純なものに根差しているわけじゃない。
重信が葉月を苛立たせるのは、葉月がどうやっても踏み出せずにいた領域へと、重信が平然と歩を進めるのを目の当たりにしたからだった。つまり――葉月は人を殺せないのに、重信は平然と人を殺せるという事実が、葉月を苛立たせた。
もちろん、葉月たちの住むこの世界での正常な倫理観に照らせば、人を殺せない葉月が恥じ入らなければならない理由なんか何ひとつない。ただ、リターナーとして戦う上では、エローダーを殺さずに倒すことはほぼ不可能だったし、何より、エローダーを倒すことは、人類全体を守るためにはむしろ称賛されるべき行為だった。
そう理解していながら、倫理観の足枷を断ち切って禁忌の領域に踏み込めずにいる葉月とくらべて――彼自身の感情がどうあれ――重信はリターナーとしてやるべきことをやっている。重信が事故に遭う前からリターナーをやっている葉月からすれば、あとから来た新人にあっさり抜き去られ、置いていかれたようなものだった。
それでいて、重信は葉月を馬鹿にするわけでもない。でも、それは決して重信のやさしさや思いやりなんかじゃなく、単に彼が葉月を歯牙にもかけていないということでしかなかった。
それが判るからこそ、葉月は重信が嫌いだった。自分を馬鹿にしない重信の言動のいちいちが、逆に何よりもはっきりと自分を馬鹿にしているように思えて仕方がない。そして、最後の一線を踏み越えられない自分が、いずれは霧華の役に立てなくなるんじゃないかという漠然とした不安が、余計に葉月を焦らせていた。
「…………」
化粧も落とさず、葉月は下着姿でベッドにもぐり込んだ。
戦場に立つ兵士が敵を殺せないのは美徳じゃない。それはむしろ仲間を危険にさらすことにもなりかねないだろう。躊躇なくエローダーたちを斬り捨てていく重信をなじったのは、そんな重信のほうが異常なのだと思い込むことによって、覚悟の足りない自分を直視したくない葉月の弱さゆえであった。
これ以上そんなことを考えたくなくて、葉月がぎゅっと目をつぶって強引に寝てしまおうとした時、今度は音声通話の着信があった。
☆
「クロコリアスがさ」
いつも常連客しかやってこない場末のバーのカウンターで、佐藤は水を飲んでいる。ミネラルウォーターでも炭酸水でもない、蛇口をひねれば出てくるふつうの水道水だった。佐藤にはアルコールよりこちらのほうが口に合っているようだし、何より、佐藤はここへ飲みにきているわけではない。
「クロコリアスのやつがさ」
氷も入っていない常温の水を満たしたジョッキを置き、佐藤は繰り返した。
「――例の新入りに異様に執着してるらしくてよー」
「そうか」
隣のスツールに腰を下ろしていた田中は、タブレットをいじりながらトマトジュースをすすった。田中はいつも、佐藤のいうことを話半分で聞いている。
「田中くん、少しは佐藤くんの話も聞いてあげなよ」
そっけない田中にそういったのは、田中をはさんで佐藤の反対側に座っていた鈴木だった。
「何か大事な話なんじゃないの、佐藤くんのそれ」
かくいう鈴木も、佐藤のほうなど見もせず、目の前のピスタチオの山と向き合っていた。大量のピスタチオの殻をひとつずつ剝いては、それを口に運ぶこともせず、別の皿へと移すという作業を、さっきから飽きもせずに延々と続けている。
鈴木はピスタチオでも落花生でもギンナンでも、まず最初にこうしてすべての殻を剥き終えてから、一気に頬張って食べるのが好きなようだった。以前、佐藤がそんな鈴木の食べ方を揶揄して、彼が殻を剥いた落花生を横からかっさらって食べようとしたことがあったが、ふだん温厚な鈴木が唐突に激昂して、店の中が滅茶苦茶になりかけたことがあった。以来、佐藤も多少は鈴木に遠慮している気がする。
田中は銀縁眼鏡を押し上げ、溜息交じりに佐藤を見やった。
「……で、何だって?」
「だからよ、クロコリアスが」
「会ったのか、最近?」
「ん? ああ、まあな」
いかにもぬるそうな水道水をジョッキであおり、佐藤は軽薄そうな金色に脱色された髪をいじった。
「でな、クロコリアスがよ」
「佐藤くん、水ばっかり飲んでてよくおなか壊さないね。ぼくには真似できないな」
「スズキ……てめー、このデブ! いいところで話の腰を折るなよ! ぜんぜん話が進みやしねえだろ!」
「ごめんごめん。で、クロコリアスさんが何なの?」
「だから! あいつが例の新入りのことをあれこれ探ってるって話だよ!」
「……確かにそれは、私たちにとっても無関係な話題ではないな」
「そうだねえ……その新入り、すごいらしいって噂は聞いているよ」
水滴の痕跡が残らないように念入りに磨いたグラスをランプの明かりに透かし、マスターは田中の呟きにうなずいた。
「四人……いや、もう五人だったかな? 一週間ほどでその数というのは、これまでになかったからねえ。クロコリアスくんも、さすがに気になるんじゃないかなあ」
「いや、それがどうも逆なんじゃねーかって」
「……それはどういう意味だ、佐藤?」
「一週間で五人てのもよ、実はクロコリアスがけしかけた結果だって話でよ。……ほかのチームの連中がいってんのを聞いたんだよ、オレ」
「それはつまり……クロコリアスの指示で動いたということか? クロコリアスの指示でそいつを襲った仲間が、わずか一週間で五人も返り討ちに遭ったという意味か?」
「正確なところは知らねーよ。あいつもそれらしいことはオレにはいわなかったし、だいたい、クロコリアスの秘密主義はおめーらも知ってるだろ?」
「確かにそうだね」
皿の上で小山になったピスタチオを手で掴み、無造作に口に放り込んだ鈴木は、コーヒー牛乳でそれを胃の底に流し込んだ。健康診断で糖分を取りすぎと医者に釘を刺されながらも、それでも鈴木は――カフェオレでもなくミルクコーヒーでもなく、どこにでも売っていそうなコーヒー牛乳のがぶ飲みをやめない。
「マスター、コーヒー牛乳おかわり! ガムシロ多めでね!」
「ウチで一番たくさん出るのって、結局この安いコーヒー牛乳なんだよねえ」
「……ただでさえ甘ったるいコーヒー牛乳に、さらにガムシロップを足すのか。そんなだから太るんじゃないのか?」
「ぼくが太ってるのはぼくのせいじゃないよ。これはもともとだよ」
「それはそうかもしれんが……」
「いや、デブの話とかどーでもいーからよ」
佐藤はカウンターの上に大きく身を乗り出し、田中と鈴木を軽く睨みつけた。
「――おめーらはどう思うよ? クロコリアスの野郎、ずいぶんと身勝手じゃねーか、なあ?」
「何がだ?」
「だってよ、自分はそうやってウワサの新顔にちょっかい出してるくせに、オレたちには手を出すなってんだろ? なあ、マスター?」
「まあ……彼からの指示をそのまま解釈すると、そういうことになるかなあ」
「おかしいだろ、それ!? そんな、片っ端から返り討ちになるような連中じゃなく、ハナっからオレたちに任せるべきじゃねーのか、なあ? クロコリアスの野郎、何を考えてんだ?」
「…………」
苛立ちを隠そうともしない佐藤を横目に、田中は綺麗にセットされた髪を撫でつけ、自分なりの考えをめぐらせていた。
「んだよ、おめーは何ともおもわねーのか、タナカ? おい、スズキ! おめーはどうなんだ!?」
「いや、ぼくも別にどうでもいいかな? ぼくは彼と会ったこともないし」
「んだよ、揃いも揃って覇気がねーなー……マスターはどうよ?」
「そうだねえ」
灰色の髭を撫でつけ、マスターは静かにうなずいた。
「……まあ、我々のリーダーはクロコリアスくんだからねえ。彼がそういう以上は、その指示にしたがうべきだと思うよ?」
「マスターまでそっち側かよ……つまらねーな」
「少なくとも、その新入りとかいう少年には気をつける必要があるよねえ」
「はァ? ビビるこたァねーだろ?」
佐藤は水道水を飲み干し、大仰に肩をすくめた。
「――返り討ちに遭った連中はよ、みんな単に弱かっただけだろ? クロコリアスの見る目がねーっていうかよ」
「佐藤くんて、クロコリアスくんに親でも殺されたの? やたら敵視するよねえ?」
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