第四章 真実の指摘は人を不機嫌にさせる ~その二~


          ☆


 意味もなくシャーペンをかちかちとノックしながら、純は葉月を吐き出して静かに閉じていく両開きのドアを見つめていた。

「はづっち、気は強いけど口が追いつかないというか……そういうところが可愛いといえば可愛いんですけどね~」

「そうね。……だけどザキくん、さっきのはちょっと意地悪すぎない? 何か気に入らないことでもあったの?」

「グラタンがですね」

「グラタン?」

「ここへ来るために出かけようとしていたところへ、焼き立てのマカロニグラタンが届いたんです」

 低く鳴り続ける自分の腹を撫で、重信は呟いた。

「――リターナーになる前の日常は、今のおれにとっては何百年も前のことで、だからおれは、グラタンが自分の大好物だってことも完全に忘れてたんです。でも、おいしそうに焼けたグラタンの匂いを嗅いだ瞬間、おれは唐突にそのことを思い出して、ついでにグラタンにまつわる両親との思い出なんかが、走馬灯というんですか、一気にばーっとよみがえってきたわけです」

「そういえば……ねえ純さん、人の記憶と嗅覚の間には特別な関係性があるんだっけ?」

「いや、それはそうなんだけどね、そもそもそれが何なんですかー? グラタンの話と、ザッキーがはづっちに意地悪だって話がどうつながるんですかー?」

「判りませんか? 学者なのに?」

 終始怪訝そうな純を一瞥した重信は、自分で口にした言葉が何となくおかしくて、ついつい笑ってしまった。要するに、重信には今夜ここへ来る用事があったために、美咲が持ってきてくれたでき立てのグラタンを食べそこねていて、それがいつにない苛立ちの原因となっていたのだが、これ以上それについて説明するのも馬鹿馬鹿しいし気恥ずかしい。

「……まあ、学者なら何でも判るってわけじゃないですよね、確かに」

「え? 何? ちょっと、気になるじゃん! どういうこと~?」

「それより、本人がいなくなったからついでに聞いていいですか?」

「何を?」

「風丘さんて、もしかして人を殺したことないんじゃないですか?」

「――――」

 重信以外の全員が、その言葉に口を閉ざしてたがいに顔を見合わせた。

「こっちに戻ってきてからはもちろん、飛ばされた先の異世界でも、人を殺したことがないんじゃないですか、彼女? 人を傷つけることに対してやけに潔癖というか……何かとおれに突っかかってくるのは、そのへんに原因があるのかと思ったんですが」

「……異世界での人生経験が豊富になると、おのずと洞察力も深くなっちゃう系?」

「どうですかね? 人の顔色を読むのは得意になったと思います。それも生き延びるために必要なことだったので」

「ザキくんの推察通りよ」

 霧華が口を開いた。

「――葉月は飛ばされた先の世界でとても強力なスキルを身につけた。でも、実際にそれで誰かを殺したことはない。敵を殺せなくて、逆に自分がすぐに殺されて戻ってきた。最初の聞き取りで本人はそういっていたわ」

「博愛の人、ですか」

 それぞれのリターナーがどうだったのかは重信も知らない。しかし重信の場合は、最初に飛ばされた異世界で生き延びるために、二一世紀生まれの日本人としての倫理観や博愛主義はいったんすべて捨て去った。それも、あえてそうしようと決意して捨てたわけではない。戦いが中心の日々を生きているうちに勝手に摩耗し、消滅していた。自分にそうしたものがもはや残っていないと重信が自覚したのは、相対的に平和きわまりないこの世界に戻ってきてからのことである。

 だが、霧華の話通りなら、葉月が人道主義的な甘いことばかり口にするのも理解できなくはない。よくも悪くも今の彼女には、まだふつうの現代人としての非常に発達した倫理観がすり減ることなく残っている。

「……それこそ小説や映画やゲームの中で描かれるような、理性より腕力が優先される中世ファンタジー的な異世界で長く生きてくると、他人を思いやるような倫理観はどうやっても退化せざるをえない。でなければあっという間に命を落としますから」

「ですよねー。だからこそ、この世界に戻ってきたリターナーたちのためにも“機構”は必要なんですよー。自分たちはもともと文明人だったんだー、ってことを思い出させてあげなきゃ、強力な“スキル”を持つリターナーは、その力を使って暴走し始めちゃうかもしれないですし~」

“機構”はエローダーに対抗する組織であると同時に、リターナーたちを監視し、その暴走を未然に防ぐためのものでもある――純の言葉は重信にはそう聞こえた。

「でもさ~、ザッキーもそれが判ってるなら、わざわざ煽るようなこといわなくてもよくなくない~?」

「わざとやってるわけじゃない。これが通常運転なんですよ、おれの場合」

「あ~あ、ホントふてぶてしいこと」

 純はずっといじっていたシャーペンを白衣のポケットに押し込み、ことさら芝居がかった仕種で肩をすくめた。

「……それはそれとしてさ、これはいつもエローダーと戦った新入りのリターナーにしてる質問なんですけどー、ザッキーはエローダーの目的って何だと思う? 彼らのやり口とか、戦いの中で気づいたこととか何かないですか~?」

「そうですね……さっきもいいましたけど、基本、おれたちが飛ばされる異世界というのは、おおむね二一世紀の地球上のどの場所よりも生きづらい過酷な環境です。自分の身を守る手段がなければ長生きはできない。おれだって、最初に精神跳躍シフトした直後の世界では、あれをしようこれをしようなんて考えていられなかった。ただ生き延びるだけで精一杯でしたよ。そういう世界でしたから」

 しかし、この世界はそうではない。特にこの、二一世紀初頭の日本という国は、戦闘行為というものからもっとも縁遠い場所といえるだろう。少なくとも現代日本では、日常的に生存のための戦いを余儀なくされることはありえない。

「――もしエローダーがおれたちと同じようにいきなり転移させられてきた異世界の“一般人”だとすれば、ここで迂闊に暴れ回るよりも、ふつうの人間のふりをしているほうが生き延びやすいとすぐに気づくはずです。しかし現実には、エローダーたちはおれたちをリターナーと認識した上で攻撃してくる。だから、エローダーが何かしらの目的意識をもってこの世界に送り込まれてくる“工作員”だという戸隠さんの考えは、おれは正しいと思います」

「その目的って?」

「そこまで判っていたら、もっとドヤ顔で講釈を垂れてます」

 重信は膝に手を当てて立ち上がった。さほど親しくもない知人たちと額を突き合わせて小難しいことを話し合うのは、今夜はここまでにしたい。

 とにかく今の重信は、完全にグラタン腹になっているのである。


          ☆


 誰も待つ者のいないマンションに戻った風丘葉月は、鍵を閉めるなり、照明もつけずにベッドに寝転がって天井を見つめた。

 枕もとに放り出したスマホには、松代法律事務所からのメッセージが届いていた。ただ、それが緊急の用件でないことは判っている。本当に緊急の用件がある場合、すみれは音声通話で連絡してくるからである。おそらく、先に帰ってしまった葉月をフォローするためのものだろう。

「……おせっかいなんだから」

 葉月は大きく溜息をついて身を起こすと、引きむしるように服を脱いだ。

 自宅で葉月がどんなにだらしない恰好をしていても、それを叱る両親はいない。もともと葉月は地方の大地主の末娘として生まれたけど、上にできのいい兄たちがいたこともあって、あまり親から関心を向けられていなかった。せいぜい兄たちの足を引っ張らなければかまわないという放任主義で、葉月が上京してひとり暮らしをするといい出した時にも特に反対されず、今にいたっている。

 昔はそんな親の態度を腹立たしく思っていたこともあったけど、今はむしろそれが心地よいとさえ感じている。少なくとも“機構”では、葉月は重要なピースのひとつとして必要とされていて、葉月もそのことに満足していた。特に“機構”の要といえる霧華の日中のボディガードを務められるのは、同世代で同性の自分しかいないという自負も持っている。

 ただ、そんな葉月の充足感に水を差す存在として現れたのが、同じ水無瀬学園に通う林崎重信だった。

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