第三章 辻斬り ~その五~


          ☆


 かつては職員室でもタバコを吸い放題だった時代があったという。それが本当なら、石動いするぎ恵一けいいちのようなヘビースモーカーには天国のような話である。

「昔はタバコももっとずっと安かったっていうしな……愛煙家には肩身がせまい世の中だぜ、まったく」

 コンビニを出た石動は、袋の中から買ったばかりのタバコを取り出し、さっそく一本くわえて火をつけた。

 真上がファミレスになっているせいか、ここのコンビニには広い駐車場が併設されていた。日没前の今はまださほどではないが、深夜になると、トラックやタクシーのドライバーたちが、缶コーヒーを片手にここで一服している姿をよく目にする。

「あら、石動センセ」

 石動が夕空に向かって溜息と煙をいっしょに吐き出していると、同じマンションの住人が声をかけてきた。石動の隣の部屋を借りている立花たちばなとかいう女だった。

「――きょうはもうお仕事終わり? 学生さんより帰宅が早い教師ってどうなんです?」

「俺は別に部活動の顧問もやってませんし、会議さえなけりゃあ学校に居残る意味もないですよ。……まあ、残業代がつくなら終電まで粘りますけどねえ」

「それでよくクビにならないわねえ」

「教師なんてもんは、不祥事さえ起こさなければ案外テキトーにやってもクビになんかならないんですよ」

「それ、自分でいっちゃっていいわけ?」

 買い物帰りとおぼしい立花は、あからさまにやる気のない石動を見てあっけらかんと笑った。どこか生活に疲れたような陰がまとわりついているものの、ありかなしかでいうなら石動的にはありの部類に入る。一〇年前ならさぞや男たちにもてただろうし、服装とメイクさえ整えれば今でも男が放っておかないだろう。

 石動は短くなったタバコを缶コーヒーの空き缶にねじ込んだ。

「少し早いですけど、そのへんで一杯どうです?」

 ひとり暮らしの彼女に恋人なり何なりがいるのかどうか、石動は知らない。知らないが、それで遠慮するつもりもなかった。声をかけるだけかけて、断るかどうかは相手次第である。

「どうせならもっと早く誘ってくれればいいのに」

 立花は風に流れた髪を耳に引っ掛け、気が抜けたようにふっと笑った。

「――実はわたし、あした引っ越しなの」

「あした? そりゃまた急な――」

「そう、急に決まったの。仕事の関係で。だからきょうは家に帰っていろいろとやらないと」

「ってことは、別にカレシと同棲とか結婚とかいうわけじゃないんですね?」

「それはそうだけど……何なの、センセ?」

「だったらほら、落ち着いてからでもいいかなって……」

「そうね。またどこかで遭うことがあったら、ね?」

「はいはい。そんじゃまあお元気で」

 ひらひらと手を振って去っていく女を見送り、二本目のタバコに火をつけようとしていた石動は、自分に向けられる冷たいまなざしに気づいて顔を上げた。

「――お。どうした、風丘?」

「どうしたって……先生こそどうしたんです?」

「いやぁ、俺、この近所に住んでるんだよ。そこそこ学校に近いし、寝坊しても遅刻せずにすむしな」

「そんなこと聞いてません」

 風丘葉月は女の後姿を一瞥し、重苦しい溜息をもらした。

「……学校最寄りのコンビニで教師がタバコ片手にナンパとか、冗談抜きにクビになっても知りませんよ?」

「別にナンパなんかしてないって。同じマンションのお隣さんに、今度ごはんでもどうですかってさ、社交辞令だよ」

「で、あわよくばと思ったら見事にフラれた、と――」

「別にフラれたわけじゃない。こういう時は縁がなかったっていうんだ」

 どうもこの女子生徒は自分を軽んじているというか、嫌っている節がある。葉月はギャルのような恰好をしているくせに中身は意外に真面目で、そんな彼女から見ると、石動は怠惰で不真面目な、教育者にあるまじき人間のように見えるのだろう。石動にもその自覚はあったが、ただ、教育者としての矜持や目標がないのも事実だったから、あえて強く反論したことはない。

「……結局な」

「はい?」

 コンビニに入って買い物をすませてきた葉月に、石動は三本目のタバコを灰に変えつつ声をかけた。

「これも仕事なんだよ。仕事だからやってる。もしほかにもっと俺に合った生き方があって、その道を進めていたら、俺だって教師なんて窮屈な職業は選ばなかった」

「……何です、急に?」

「いや、俺みたいに、もうほとんどほかの道を選ぶ余地のない男と違って、おまえにはまだ選択の余地があるんじゃないかと思ってな」

 苦い煙をいったん肺の中に取り込み、ゆっくりと時間をかけて吐き出していく。しばし無言でそのさまを見ていた葉月は、大袈裟にかぶりを振って嘆息した。

「だから、ぜんっぜん響かないんです。先生がそういうこといったって」

「だろうねえ」

「……それじゃ」

 そっけない別れの挨拶を残し、葉月は駅のほうへ歩いていった。

「あつかいづらいねえ、ああいう若者は」

 苦笑交じりに呟いた石動は、手にしていたコーヒーの缶がすでに吸い殻入れになっていることを忘れ、あやうく口をつけてしまいそうになった。


          ☆


 戸隠邸の広い応接室のソファに腰を下ろし、葉月はじっと黙り込んでいた。

 今夜はこれから数名のリターナーがここに集まる。中には葉月が初めて会うリターナーもいるという話だが、何より、林崎重信が正式に“機構”に加わったという事実のほうが気になっていた。

「――葉月ちゃん、どうしてそんなに怖い顔してるの?」

 テーブルの上に紅茶のカップを置き、すみれが尋ねる。葉月は溜息交じりにかぶりを振り、腕組みをした。

「辻さんがやられたって聞けば、そんな明るい顔はできないです」

「でも、こういったらあれかもしれないけど、葉月ちゃんは辻くんとそんなに仲がよくなかったじゃない?」

 すみれに指摘された通り、葉月はあまり辻とは仲がよくなかった。それは、戦いに対する辻のスタンスが葉月にとって許容しがたいものだったからである。

「……あの人は戦いを楽しむ感じの人でしたから。でも、そういう辻さんを倒せるようなエローダーが現れたってことが問題じゃないですか、この場合?」

「そうね」

 約束の時間が近づくにつれて、応接室には徐々に人の数が増えていた。二〇人ほどはいるだろうか、窓際に立って広い庭を眺めている者、壁に寄りかかっている者、顔見知りと何ごとか会話している者――葉月が見知った顔もあれば、言葉を交わしたこともない、それどころか名前すら知らない顔も少なくない。

 極端な話、“機構”に所属するすべてのリターナーの情報を把握しているのは、霧華と純、それにすみれくらいのものだろう。それは――あんまり考えたくない可能性だけど――エローダーに捕らえられたリターナーの口から、ほかのリターナーの情報が漏洩することを防ぐためでもあった。

「――――」

 ソファの肘掛のところで頬杖をついていた葉月は、またあらたにやってきた男を見て眉間のしわを深くした。

「ちゃんと来てくれたわね」

 軽く手を振るすみれに気づいたのか、林崎重信は軽く頭を下げて一礼し、こちらにやってきた。

「お紅茶でいい?」

「はい」

 愛想はないくせに、目上の人間への礼儀はわきまえている。重信のそういう子供らしからぬ如才のないところも、葉月から見ると鼻についた。

「……思っていたよりも多いですね」

 部屋の中を見回し、重信は呟いた。集まっているリターナーの数が、という意味だろう。それについては葉月も同意見だった。

「具体的には教えてあげられないけど、ほかにもまだ仲間はいるわ。ただ、今夜ここへ呼んだのはこれで全部」

 テーブルに湯気の立つカップを置き、すみれは重信を葉月の隣に座らせた。

「…………」

 余計なことをするすみれにかすかな苛立ちを覚えながら、葉月はさりげなく重信の様子を窺った。

「ひとつ聞いていいですか?」

「何かしら?」

 葉月の視線に気づいているだろうに、重信はそれを意に介した様子もなく、すみれに尋ねた。

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