第三章 辻斬り ~その二~


          ☆


 左腕に貼っていた大きめの絆創膏を剥がしてコンビニのゴミ箱に放り込み、重信しげのぶは左手を握ったり開いたりを繰り返した。

「やっと治ったか」

 葉月はづきの鞭を受けてただれた皮膚は、完全に真新しいものと入れ替わっていた。病院で目覚めた時にはあれほど細かった手足も、今はかつての太さを取り戻している。個人的にはもう少し筋力が欲しいところだったが、それも重信が持ついくつかのスキルを組み合わせることでカバーできる些細な問題だった。

 コンビニで買った揚げ物をもそもそ食べつつ、重信は人気のない夜道を家に向かって歩き出した。ふだんならのんびり歩いても一〇分もかからない道のりだが、今夜はあえて回り道をして、川沿いのルートを選んで帰宅している。

田宮たみやくんが見たら卒倒しかねないな」

 一か月の入院生活で落ちた筋肉と体力をすみやかに取り戻すためには、単純にいえばふだん以上のカロリー摂取が必要になる。このところの重信の食事量がやたらと多かったのもそのためだった。だから今もこうして骨なしのフライドチキンをもぐもぐやっているし、さらにいうならぶら下げている袋の中身もすべてチキンやコロッケといったハイカロリーなホットスナックだった。

「これだけ食べて太らないというのは、それはそれで世の女性の恨みつらみを買いそうなものだが」

 三個目のチキンを片づけ、続けて牛肉コロッケに取りかかろうとしていた重信は、その時、かすかにちらつく街灯の光の輪の下ですれ違ったジョギング中の女を唐突に蹴り飛ばした。

「――なかなかの蹴り応えだ。おれより重そうだな」

 袋から取り出しかけたコロッケをもとに戻した重信は、派手に吹っ飛んでガードレールに激突し、さらにそれを乗り越えて川のほうへ転がり落ちていった女を追って、悠然と斜面を下っていった。

「…………」

 ガードレールにへこみが生じるほどのいきおいで激突したのであれば、常人ならまず無傷ではいられない。そのまま斜面を転げ落ち、川のほとりに倒れていたとしてもおかしくはないだろう。

 だが、そこに女の姿はなかった。

「……なあ、偶然じゃないんだろ?」

 コンビニの袋をその場に置き、重信は川の上を横切る橋の下へ向かった。街灯の明かりも届かないその闇の中に、何かがいる。

「あんたは最初からおれがいることを察していて、おれがあそこに来るのを待ち構えていた。そして何食わぬ顔ですれ違い、背後から不意討ちをしようとしていた……そうだよな? でないと、おれが意味もなく通行人を蹴飛ばすアタマのおかしい人間ということになりかねない」

 おどけたような重信の問いにも返事はない。代わりに飛んできたのは明確な殺意と低い唸り声だった。

「……それがあんたのスキルということか?」

 一分ほど前に重信が蹴り飛ばしたのは、人目につきにくい時間帯に地味なジャージ姿でジョギングをしている四〇すぎほどの中年女だった。だが、闇の中で低い位置から重信を睨めつけていたのは――着ているものこそさっきと同じ臙脂色のジャージだったが――明らかにもう人ではない。両手が地面に触れるほどの前傾姿勢で身構えた、エメラルド色の双眸を持つ半獣人だった。肌が露出していた部分にはごわごわした黒い体毛がびっしりと生え、鼻面は長く突き出し、爪も牙も鋭く伸びている。

「……ま、おれもそういう変身系の隠し芸を見るのは初めてじゃない。それに狩りをするのもな」

 相手と張り合うように腰を落とし、重信は“朔風赤光”の構えを取った。

 重信がもっとも恃みとしているこのスキルは、単純にいえば居合術の一種である。ただし、重信が振るうのは実体をともなった刀ではなく、重信の思念が生み出す赤い輝きだった。

 もっとも、別に重信は、以前から居合を学んでいたわけではない。時代劇ファンで自身も長く剣道をたしなんできた長野の祖父は、唯一の孫に剣道と居合道を学ばせたがっていたようだが、重信が今こうした構えを取っているのはそれとは無関係だった。ただ単に、これがもっとも効率がいいというだけの理由である。

「ジャージ姿の狼男……いや、狼女か。スタイルとしてはなかなかシュールというか、滑稽というか――」

 狼と人間を半端に足して分数で割ったような、無様な姿となり果てた中年女は、三メートルほど離れたところにいる重信を見据えたまま、特に仕掛けてくるでもなく、ただ低く唸り続けている。異世界から来たこの奇妙な狼女の目には、重信の構えこそが奇妙に映ったのかもしれない。

「後の先がどうとかいう理屈は、あいにくとおれにはさっぱりなんだ」

 こちらの出方を窺っている狼女に、重信は静かにいった。

「……おれはただ、相手より速く動いて斬るくらいしかできない」

 三メートル――どんなに長い居合刀をもちいても、ふつうではまず届かない間合いだったが、重信は迷わなかった。対峙していたわずかな間に、目の前の敵がすでに自分に呑まれているいると看破していたからである。

「――!」

 左腰に添えた右の拳をかすかにひねる動きを見せた刹那、狼女が動いた。狙って動いたというより、おそらくそれは、重信が見せた動きに反応してつい動いてしまったというべきだろう。

 そして、すさまじい速さで狼の牙と爪が眼前に迫った時、すでに彼女は右肩と左の脇腹をつなぐラインでまっぷたつになっていた。前のめりの姿勢で構えていた状態から一転、重信は軽やかに後方へと跳びすさりながら、赤い光の刃を迅雷の速さで一閃させていたのである。

「…………」

 手に宿った赤い光を消し去った重信は、すぐさま周囲に視線を走らせ、スマホを取り出した。

『はい、松代まつしろ法律事務所――』

「おれです」

 よそ行きの声で応じた滝川たきがわすみれに対し、重信は手短に用件を伝えた。

『え……? も、もしかしてまた?』

「それは向こうにいってください。どちらかといえばおれは被害者です」

『あ、そ、そうね……ごめんなさい。それで、あなたは無事なの?』

「問題ありません。無傷です」

『それじゃ、すぐに誰かを応援に行かせるけど、もし第三者に見られそうなら、あとのことはいいからすぐにその場から逃げて。できるわよね?』

「ええ。今夜も目撃者はいないから大丈夫だと思いますが」

『そう……じゃ、またあとでね』

「お手数です」

 スマホをポケットにしまって嘆息した重信は、離れたところに置いてあったコンビニの袋を広げてコロッケを頬張った。さいわい、まだかろうじてホットスナックと主張できる程度にはあたたかい。

 橋の下で冷たくなっていく中年女の死体をぼんやりと眺め、ざふざふとコロッケを食べていた重信は、シャツと拳にわずかに返り血が飛び散っているのに気づいて眉をひそめた。

「……あ」

 チキンに続いて牛肉コロッケもすべて片づけた重信は、死体のそばを離れて川岸にしゃがみ込んだ。

「――驚いたな」

 冷たい川の水で手を洗っていた重信は、ちらりと視線だけを上げ、向こう岸に立つスタジャン姿の少女にいった。

「滝川さんに連絡を入れてまだ三分もたっていないはずだが、それにしては到着が早い。どこかに待機していたのか? いずれにしろ、きみにそこの死体の始末ができるとは思えないが」

「…………」

 重信の問いを黙殺したかざおか葉月は、幅が五メートルもない川を一気に飛び越え、ほとんど身体を両断されて絶命している毛深い女を見下ろした。

「……何人目?」

「何?」

「これで何人目? あんた、これで何人斬った?」

「そうだな……」

 洗った手をシャツの裾でぬぐい、重信は首をかしげた。

「そこのワイルドなおばさんで四人目……いや、こっちに戻ってきた晩に医者崩れを斬ったから、これで五人か」

「五人……もう五人?」

「……どういう意味だ?」

 重信が振り返ると、葉月が険しい表情でこちらを睨んでいた。

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