第三章 辻斬り ~その一~
重い身体を引きずって一歩一歩前に進むたびに、ぐちゃぐちゃと濡れた足音がする。
「くそ……っ!」
さいわいというべきか、痛みは感じない。ただ今は寒くて眠いだけだった。強く押さえた脇腹から血が流れていくにつれ、体温が失われていく気がする。いずれにしろ、このままでは長くない。この出血で意識を維持していられるのがもはや奇跡といっていいだろう。
辻はあたりを確認し、太い木の幹に寄りかかった。
「……ふう」
尻餅をつくようにその場にへたり込み、考えを整理する。
始まりは唐突だった。深夜、自宅から離れた峠の道で気分よく愛車を走らせていたところに、不意にその男が現れたのである。ヘッドライトの光の輪の中に立ち尽くすシルエットを見た瞬間、辻はブレーキを踏むと同時にハンドルを切った。
そして、愛車がガードレールで鼻面をこすりながらようやく停まった直後、辻が感じたのは、人を轢き殺さなくてよかったという安堵感ではなく、自分は罠にかかったのだという怒りと焦りだった。奇跡的にひびが入っていなかった愛車のフロントウィンドウのすぐ向こうに、さっき見たスーツ姿の男がしゃがみ込んでいて、呆然としている辻に指先を向けていたからである。
「あの、野郎……!」
男は明らかにエローダーだった。すぐにそれを察して運転席から飛び出していなかったら、脇腹の傷は胸の真ん中に開いていたかもしれない。
「俺を待ち伏せてやがったのか……? どっちにしろ、俺の愛車をおシャカにしてくれやがった礼は、かならず、してやるぜ――」
辻は着ていたパーカーを脱いで腹にきつく巻きつけて縛った。これで出血が止まるとは思えないが、何もしないよりはましだろう。
「礼はいらない」
「!」
頭上から降ってきた低い声に、辻ははっと目を見開くと同時に右手を振り上げた。瞬間、夜の森の闇を押しのけて朱色の炎が走る。
「むしろこちらが礼をいいたいくらいだ。……近頃、おまえのように迂闊なリターナーはなかなかいない」
赤い光に一瞬だけ照らし出されたのはあの男だった。辻がこの森の奥へと逃げ込んでくる前、愛車のボンネットの上にしゃがみ込んでいた時と同じように、太い木の枝の上に危なげなくしゃがみ込み、薄い笑みを浮かべて辻を見下ろしている。
「最近は私たちを警戒してか、なかなか単独で行動してくれないからな。……まして、こんなに仕事のやりやすい、人気のないところにみずからのこのこ来てくれる馬鹿は貴重といっていい」
「てめえ……有り金全部置いてけや!」
体温を失いつつあった身体が怒りで熱くなった。
もともと辻は走り屋上がりで気性が荒く、度胸があって腕っ節にも自信がある。リターナーになったのも、危険をかえりみずに峠を攻めすぎて事故を起こしたのがきっかけだった。
腰を上げると同時にふたたび頭上に向けて熱波を放ち、辻は木から離れた。
「く……!」
この世界に帰還してきた辻は、接触してきた
だからこそ、大金をかけていじった愛車を潰された怒りはすさまじい。
しかし、今はその怒りが空回りしていた。
「……!?」
自分を中心に、半径三メートルの任意の地点に灼熱の炎を生じさせる辻の“スキル”は、判っていても防御が困難な強力な武器だった。辻は視線の届かない壁の向こうにすら炎を生み出すことが可能であり、たとえば大金庫の内部にある金塊を外からどろどろに溶かすことも、マンションの隣室に住む住人を焼き殺すこともできるのである。
だが、すでに使い慣れているはずのその炎で、癪に障るこの男を焼却できない。辻の炎の唯一の欠点ともいうべき三メートルのリーチを見抜いているのか、男が不用意に近づいてくることはなかった。
「この世界の人間も――」
辻の炎を避けて木から木へと身軽に飛び移った男は、サングラスを軽く押し上げて呟いた。
「――大量に出血すれば死ぬという意味では、私の世界の人間と同じだったな、確か? おまえはあとどれくらいで死ぬ?」
「てめえ――」
自分たちが戦っているエローダーという敵が、どうやら異世界からの侵略者だという話は辻も聞いたことがある。この世界の人間の肉体を乗っ取っている以上、見た目では区別できないが、その中にひそんでいる本性は別世界の怪物のようなものだと、辻はそう解釈して戦ってきた。そう思い込むことが、相手を殺すという行為を正当化するためのエクスキューズだった。
しかし辻は今夜、エローダーにはそんな建前など必要ないのだということを初めて理解した。考えてみれば、エローダーとここまでまともに会話したのも初めての経験だったし、それで察したところもあるのだろう。見た目こそ自分と同じ人間でも、そこにいるエローダーは明らかに人間ではない。何らかのスキルを持っている点では自分と同じでも、ものの考え方、行動原理が自分たちとはまったく違うのだと、辻は卒然と悟ったのである。
「……!」
もう一度樹上の男に攻撃を仕掛けようとした時、辻の膝が力を失った。ひどいめまいのために平衡感覚が失われ、手をついてしまう。
「ここで死んだら、おまえはどうなるんだ? またどこかの異世界に飛ばされるのか?」
辻の目の前へと男が下りてきた。
「……もしそうだったとしても、もうおまえはこの世界には戻ってこられないだろうな。戻るべき“器”がなくなるわけだから」
「ぐ、む……!」
辻は男を睨みつけ、その全身を炎で包み込んでやろうとした。だがその寸前、辻の身体が軽い衝撃とともに浮き上がった。
「お――」
何かが辻の身体を貫通していた。
「まだしゃべれるはずだが」
男の声が遠い。息が詰まり、のどの奥から熱いものが込み上げてくるのが判った。
「……最近、おまえたちに仲間が増えただろう? まだ若い男だ。学生だと思う。そいつについて、おまえが知っていることを話せ」
「…………」
ぼたぼたと血を吐き、辻は呆然と地面を見つめている。いったいいつそんなものが生えてきたのか――地面から鋭い円錐状の棘が伸び、辻のみぞおちをつらぬいていた。
「おい? まだ死んでいないだろう?」
「がっ……」
無造作に近づいてきたスーツの男が辻の肩を乱暴に揺さぶる。その拍子に、辻の身体がさらに深く棘にめり込んだ。
視界が急速に闇に閉ざされていく中、辻は自分の死を覚悟した。こんな場所でこれほどの深手を負っていては、今すぐ病院にかつぎ込まれたとしても助かるまい。
辻は自分が死ぬこと自体はあまり恐れていない。もともと一歩間違えば命を落とすような趣味に人生を全振りしていた男である。そういう覚悟があったからこそ、リターナーとしても戦い続けてこられた。
ただ、ここでひとり死んでいくのはがまんがならない。少なくとも、すぐそこにいる敵だけは道連れにしなければ気がすまなかった。
「でめ……えっ――」
辻は血を吐きながら顔を上げ、男に向かって右腕を振り上げようとしたが、地面からもう一本伸びてきた棘が辻の右肘を直撃し、そこから先がちぎれ飛んだ。
「……しゃべる気はない、か」
ぼとりと地に落ちた辻の右手を一瞥し、男は忌々しげに吐き捨てた。
「…………」
動脈からまたあらたに大出血し、辻の意識は完全に消え去った。
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