第二章 侵食される世界 ~その六~

 取り回しのいい軽自動車を戸隠邸へ向けて走らせながら、すみれはうなずいた。

「……とにかく、彼を仲間にすればいろいろと判ってくることもあるわね」

「もしお嬢さまがザッキーを口説き落とせなかったら、葉月ちゃんに色仕掛けでもさせたらどうですかねー」

「え? ムリじゃない?」

「即答はひど~い」

「別に葉月ちゃんに魅力がないって意味じゃないけど……とにかく、葉月ちゃんにそんなことさせたいなら自分で頼んだら? わたしはノータッチで」

「ならそうします。もしわたしが葉月ちゃんにしばかれたら、すみれさん、治療お願いしますね」

「え!? ちょ、ちょっと?」

 ぎょっとして助手席のほうを見ると、純はスマホを取り出し、本当に葉月に連絡を入れているようだった。

 理由は判らないが、葉月は最初から重信を嫌っている。その葉月に重信を籠絡しろと提案するのは自殺行為にひとしい。純粋な戦闘力だけでいうなら、葉月は“機構”に所属しているリターナーたちの中でも五本の指に入るのである。

 すみれは眉をひそめ、視線を正面に戻した。

「……どうなっても知らないわよ?」

 そのすみれの呟きが終わるか終わらないかのうちに、純は唇をとがらせた。

「ブロックされたー……」

「ブロックだけですんだのならラッキーじゃない? いくらわたしでも、黒焦げになった人間の治療はできないと思うし」

 すみれが霧華に近いところで重宝がられているのは、さまざまな実務能力の高さもさることながら、ほかのリターナーの代謝を加速させるスキル――“小夜啼鳥ナハチガル”を持っているからだった。判りやすくいえば、リターナーが負った傷の治りを早くする回復役である。もっとも、このスキルはすみれ自身の怪我には効果を発揮できないし、すみれもそれ以外に攻撃用のスキルを持っていないことから、エローダーとの戦いの場に駆り出されることはまずない。

 スマホをストラップで首からぶら下げ、純は心底残念そうにぼやいた。

「実際に葉月ちゃんの電撃を食らってみるのもいい経験かと思ったんだけど……まあいいです。お嬢さまに期待しますから」

「それがいいわ。たぶん、何だかんだで、あの子はわたしたちに協力してくれるはずだと思うし」

「また根拠のない直感ですかー?」

「純さんは高校時代に恋愛とかしたことある?」

「……それ、今の話題と何か関係ありますー?」

「かもね」

 これまで“機構”が接触したリターナーたちの中にも、エローダーとの戦いを拒否して“機構”に加わらなかった者はいる。エローダーに目をつけられないよう、自身が持つ“スキル”をひた隠しにしてひっそりと暮らしていくことを選んだ彼らは、おおむね孤独な人間が多かった。

 逆に、霧華の考えに賛同して“機構”に加わったリターナーたちは、家族や友人、恋人、あるいは組織、さらにいうならこの国、この世界をエローダーから守るという強い意志を持つ者が多い。中には“機構”からもたらされる金銭的な見返りを目当てに戦う者もいるが、そんな彼らとて、享楽的な生活を可能とする現代の経済社会を守るために戦っているともいえる。

 両親の死にさえ関心が薄く、この世界へのこだわりもあまり感じられない林崎重信が、組織に加わらずに静かに生きていく前者の道を選ぶか、あるいは何かを守るために率先して戦う後者の道を選ぶか、おそらくそれは今後の“機構”のあり方にも大きくかかわる問題だろう。

 ただ、この世界で守っていきたいと思えるものが、彼にはまだ少なくともひとつは残っている。

 よくも悪くも恋多き少女時代をすごしてきたすみれにはそう信じることができたが、子供の頃から人間を数値の集合体として捉える生き方をしてきた純には、それはいまひとつぴんとこない話だったかもしれない。


          ☆


 結局、けさはトーストとベーコンエッグ中心の朝食にした。

 その準備の最中も、食後の片づけの時も、美咲はさりげなく林崎家のあちこちに視線を飛ばしていた。重信が退院してきてからはまだ二階に上がったことはないけど、少なくともダイニングキッチンやトイレ、洗面所あたりは、どこも綺麗に掃除が行き届いているように見える。

「……どうも落ち着かない様子だな、田宮くん。何かあったのか?」

「えっ?」

 そわそわした視線の動きに気づかれたのか、リュックの底に弁当箱をしまい込んでいた重信がそう尋ねる。きょうの弁当は美咲の母がふたりぶん作ってくれた。さすがに葉月も、早起きしてふたりぶんの弁当を用意し、その上で林崎家にきて朝食を作るほどの余裕はない。

「いや、その……けっこうちゃんと掃除してるなーって」

「意外だったか?」

「……うん」

 以前の重信は整理整頓が苦手なタイプだった。だから美咲は、重信のひとり暮らしではこの家を管理できないというゆうべの母の言葉にぎくっとなったんだけど、今のところはそれも杞憂になりそうな気配がある。

「まあ、おれがやるしかないからな」

「あ、あのさ」

 重信といっしょに家を出た美咲は、駅への道すがら、慎重に言葉を選んで尋ねた。

「その、ね……のぶくんは、引っ越しとか考えたことある?」

「引っ越し? 唐突に何の話だ?」

「だから、のぶくん、ひとり暮らしになっちゃったでしょ? で、のぶくんちって、もともと子供たくさん欲しいっていってたおじさんが、最初から部屋を多めに設計して建てたじゃない?」

「ああ……いわれてみればそんな話もあったな」

 今にして振り返ってみれば、それは重信の父が、親戚が少ない息子が将来淋しくならないようにと、そんなことを思って口にしていた言葉だったのかもしれない。しかし結局、重信には弟も妹もできなかった。

「でも、あのおうちにのぶくんがひとりで住み続けるのは、家の管理とか掃除とか、広すぎてかえって不便なんじゃないかって、おかあさんがいってて」

「そうか」

「のぶくんは引っ越しとか考えてなかったの?」

「考えたことはなかったな」

 美咲の胸中の焦燥感をよそに、重信はあくび交じりに答えた。

「というか、面倒だろう? おれはまだ親の遺品整理にも手をつけていないんだぞ? その上、家財道具の処分だの物件捜しだのまでやれとわれても、あまりに面倒すぎて考えるのも嫌になる」

「そっか、そうかもね……」

 生まれた時から今の家に住んでいる美咲には、引っ越しがどれほど面倒なのかよく判らない。おそらくそれが実感できるのは、実家から遠く離れた大学に進学する時か、でなければ就職してひとり暮らしを始める時だろう。

「――だいたい、両親に先立たれたおかげで、あの家の住宅ローンの残りはチャラになるという話だからな。ずっと住み続けられる持ち家があるのに、わざわざ金をかけて引っ越しする理由があるのか?」

「えーと……家が広いとひとりで掃除するのが面倒とか?」

「確かに面倒だが、おれはそれなりにやっている」

「じゃあ、ひとり暮らしのわりには光熱費の基本料金が高くつく……とか?」

「幸か不幸か、保険金と遺産で金には困っていない」

 重信は目を細め、不意に美咲の頭をがしっと上から押さえつけた。

「……ひょっとするときみはあれか、おれに引っ越したほうがいいとアドバイスしているわけか、田宮くん?」

「ち、ちが……」

「まあ、おばさんの意見も理解できなくはない。良識ある大人のごくごく真っ当な意見だ。おれの将来のことを考えてくれたんだろう」

「……うん」

「ただ、おれは引っ越しなんかはまったく考えていない」

「それじゃ、長野に引っ越したりもしない?」

「長野? ……ああ、じいさんのところか。そっちはもっと考えていなかったな」

「そうなんだ……」

「じいさんはもう長いこと長野の田舎で暮らしているからな。そこにいきなりおれが引っ越していくのも何だし、かといってじいさんをこっちに引き取って同居というのも難しいだろう。老い先短い老人の生活環境をおれの都合で激変させるのも酷だ」

 ひとまず重信に引っ越しや長野の祖父との同居の意志が皆無だということが判って、美咲はちょっとほっとした。

 ただ、同時に美咲は、死んだ両親や祖父に対する重信の態度がどこか冷たいというか、やたら関心が薄いことを再確認してしまって、どんな顔をしていいか判らなかった。

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