第二章 侵食される世界 ~その五~

「まだ退院したばかりなんだし、せめて食事だけでもちゃんとしたほうがいいと思うけど……やっぱり朝くらいはうちで食べてったらどうかしら? 美咲、あなた重信くんにちゃんといってあげたの?」

「ちゃ、ちゃんといったよ、わたしは? でものぶくん、遠慮してるのか、別にいいって……だからせめてわたしが作りにいってあげようかなっていってるじゃん」

 母に小さな嘘をつき、美咲は唇をとがらせた。本当は、母からの提案なんか重信に伝えてすらいない。もちろん重信の健康のことを思えば、朝食だけでも美咲の家で食べたほうがいいに決まっている。ただ、美咲としては、重信には母ではなく自分が料理したものを食べてもらいたいのである。

 濡れた手を拭きながら、母は懐疑的なまなざしでひとり娘を見やった。

「でもねえ……あなた、料理ができるようになったっていったって、単純な卵焼きすら二回に一回は失敗するでしょう? そんな調子で重信くんにちゃんとした朝食を食べさせてあげられるわけ?」

「そ、それは――続けてればそのうちもっとうまくなるってば! とにかく、わたしがどうにかするから。でないとのぶくん、あっという間に成人病になっちゃう」

「あら、そんなに偏食が多かった、あの子?」

「だって……けさなんか、わたしが行った時にはステーキ焼いて食べてたんだよ? それもこんな大きなのを二枚も!」

「あら、若いわねえ……わたしもおとうさんも、朝からそんな脂っこそうなもの、とてもじゃないけど食べられないわ」

「わたしだって無理だよ」

 妙なところで感心している母に背を向け、美咲は冷蔵庫の前にしゃがみ込んだ。

 あしたの朝は重信に何を作ってやろうか、食材を確認しながら思案していると、お湯を沸かしていた母が、

「……まあ、勉強や食事や役所の手続きのこともそうだけど、重信くん、あのおうちをどうするのか考えてるのかしらね?」

「え、おうちって何のこと?」

「だってお隣のお宅は、どう考えても重信くんひとりで住むには広すぎるでしょう? 学業のかたわら家のお掃除や管理もしていかなきゃならないってことを考えると、あのおうちは賃貸に出して、その家賃収入で単身者用のマンションに移り住むとか、そのほうが現実的じゃない? それこそあと二年足らずで大学生になるんだし、進学先のことも含めてそういうことを考えたほうがいいと思うけど」

「それ、引っ越しするってこと?」

「地方の大学に進学するつもりならそうなるでしょ。……まあ、考えるのも決めるのも重信くんなんだけど、どうもあの子には、そういうことを相談できるご親戚もいないみたいだし」

 急須に熱湯をそそいだ母は、湯呑といっしょにお盆に乗せ、テレビがつけっぱなしになっているリビングのほうへさっさと行ってしまった。

「…………」

 美咲はひとり冷蔵庫のタマゴをじっと見つめた。

 考えてみると、確かに母のいう通りかもしれない。重信が無事に意識を取り戻して退院したことは喜ばしいけど、美咲はその後の生活のことまでは深く考えていなかった。実際、ひとり暮らしの高校生や大学生に戸建ての二階家を管理するのは難しいし、だったら実家を賃貸に出して別に部屋を借りるのが現実的だ。

 それに、あまり考えたくはなかったけど、長野のおじいさんのところに引っ越して同居する――なんていう可能性もまるでないとはいいきれない。重信が実家を出てひとり暮らしをするのは百歩ゆずってまだいいとしても、長野に引っ越されてしまうのはさすがに困る。

「……どう考えてるのかな、のぶくんは?」

 あしたは少しこのことを重信と話してみようと、美咲はそう思った。


          ☆


「お嬢さま、どうにかあの子を口説き落としてくれないかなー?」

 窓の外を流れる光芒を楽しげに見つめていた純が、チョコを食べながら呟いた。

「そんなに気に入ったの、ザキくんのこと?」

「当然ですー。めちゃくちゃ興味深いですもん」

「いうと思った」

 ハンドルを握っていたすみれは、予想通りの純の反応に苦笑した。研究熱心といえば聞こえはいいが、どうも純には、リターナーたちをそれぞれに個性を持ったひとりの人間としてではなく、文字通りの研究対象としてしか見ていないふしがある。特にきょうの純はいつになく興奮してハイになっているようだった。

「あの子の話、どう思う? 口から出まかせ……ってことはないと思うけど」

 笑みを消し去り、すみれは尋ねた。

「複数の異世界を経験してきたって話ですかー?」

「それ」

「本人の証言以外、参考になるデータとか何もないんで何ともいえないですね~」

「でも……わたしはあの子が本当のことをいっているように思えるけど」

「根拠もないのにですかー?」

「彼はこの世界での実年齢以上に大人びているというか、老成しているように感じられるわ。それはたぶん、それだけの長い年月を異世界ですごしてきたからだと思う」

 たとえば“機構”を率いる戸隠霧華は、中学生の頃に重篤な病で昏睡状態におちいり、半年以上も目覚めなかった。昏睡状態にあったその半年の間、霧華は異世界に飛ばされ別の人生を送っていたが、それは彼女の体感でいえば、およそ三年以上におよぶものだったという。

 すなわち、この世界と異世界との間では、かならずしも時間の流れがリンクしているとはかぎらない。そして重信の言葉が正しければ、彼は一か月ほどの入院生活の間に、数えきれないほどの異世界へ飛ばされ、それと同じ数の人生を送ってきた。正確なところは不明だが――重信が主張するには――彼は二〇以上の異世界で一〇〇年単位の時間をすごしてきた。

「お嬢さまが三年、わたしが二年、わりと長めだった山内さんで五年……多くのリターナーがそのくらいの短い年月でこちらに戻ってくる理由って、結局、はっきりと判明してるの?」

「これも信用に足る統計を取るにはサンプルがまだ少なすぎますけどー」

「リターナーが現れるのが日本だけのはずはないし、他国でもその存在はもう確認されているとは思うけど、さすがに情報共有までは行っていないし、確かに国内だけではサンプルが少なすぎよね……」

「でも、何となくわたしにはその理由判りますけどねー」

 あらたなチョコの箱を開けながら、純が鼻歌交じりに呟く。

「え? 判るの?」

「っていうか、聞き取り役をしてるのはすみれさんなのに、どうしてこんな簡単なことに気づかないんですかー? やっぱりバカなんですね~」

「じゃああなたの推論を聞かせてよ」

「答えは単純、どの異世界も人間が生きるには過酷な環境だからだと思いますよー」

「過酷……?」

「中世ヨーロッパの平均寿命は三〇歳に満たなかったって研究があります」

「三〇歳!? わたしギリで死んでるんだけど!?」

「ですね~。戦争や貧困、医療レベルの低さとか、原因はさまざまだけど、とにかく人が生きていくには過酷だったから、そのくらい寿命が短かったんです。要はそれと同じで、たとえば飛ばされた先の異世界が中世ヨーロッパ程度の文明レベルなら、そうそう長生きできないはずです。その世界での常識を持たない人間ならなおさら」

「……そういう問題なの、これ?」

「少なくとも現段階ではそう考えるのが一番妥当ですね。だって、たいていの異世界は暗黒時代のヨーロッパにさらに怪物がいるような環境だったりするんですよ?」

 確かに、すみれが聞き取りをおこなってきたリターナーたちの話を思い返すと、たいていの場合、異世界で唐突な不慮の死を迎え、それを契機にこの世界へ戻ってきたという点は一致している。異世界で経験した生きていく上でのつらさも、リターナーたちの多くが声を揃えて主張するところだった。

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