第二章 侵食される世界 ~その一~




 水無瀬みなせ学園高等部の本校舎――その屋上は、特別な許可がないかぎりは生徒の立ち入りが許されておらず、そこに通じるドアもふだんは施錠されている。

 そのドアの鍵をきり葉月はづきが持っているというのは、戸隠とがくし家のこの学園に対する影響力の大きさと無関係ではないのかもしれない。

「――おれも屋上に出るのは初めてだな」

 四方を高いフェンスに囲われた屋上には、当然のことながら、重信しげのぶたち以外に誰もいない。重信と霧華、それに葉月――本来なら接点を見出すのが難しい三人である。

「身体の調子はどう?」

 風になびく髪を押さえ、霧華が尋ねる。フェンス越しに街の風景を眺めていた重信は、少女たちを振り返って左の袖をまくった。

「寝たきりだった間に痩せたぶん、もう少し筋肉を取り戻したいところだが、ま、体調に不安はない。この前の火傷もほぼほぼ治ったし」

「えっ?」

 重信の左腕を見て驚きの声をあげたのは葉月だった。

「それ、だって……わたしの――?」

「確かにこの火傷は、きみの鞭が巻きついた時に負ったものだが、たぶんあしたかあさってには完全に消えるだろうし、もうきみが気に病む必要はないぞ」

「気に病んでるわけじゃなくて! そう簡単に治るはずないのに――」

「……それもあなたの“スキル”ということ?」

「傷の治りを少々早めるくらいの、ごくささやかなものだ。瀕死の人間を即座に回復させるレベルの治癒魔法の使い手と出会ったこともある」

「あなたが見聞きしてきた異世界の話、興味があるわ」

「それは面倒だな。どう端折っても長くなる」

「それは追々……まずはあなたが聞きたい話からするから。リターナーがどうやって誕生するか、この前少し説明したわね?」

「ああ」

 この世界から何かしらのきっかけで異世界へと精神だけが飛ばされ、そして、異世界で知識と経験を積んでこの世界に戻ってきた人間のことを、霧華たちは“帰還兵リターナー”と定義している。そして、精神が跳躍シフトするきっかけとなるのは、おおむね不慮の事故や重篤な病であることが多い。

「リターナーとなる者は、死に瀕した際に精神だけの存在となって異世界へ飛ばされ、その世界での知的生命体の肉体を借り、そこであらたな人生を送ることになる」

「そして、その世界での生を終えると同時にこの世界に戻ってくる……ふつうなら荒唐無稽な話だが、現におれも経験したことだからな。そこまでは信じよう」

「わたしたちは、この国に戻ってきたリターナーたちを集めているの」

「理由は?」

「……リターナーの大半は、異世界から帰還してくる際に、この世界の物理法則を捻じ曲げるようなスキルを持ち帰ってくる」

「ほほう」

 重信はそこで葉月を一瞥した。霧華のいう“スキル”とは、重信の使う赤い光の斬撃――“朔風さくふう赤光しゃっこう”や葉月の稲妻の鞭のような、本来であれば人間が身につけることのできない異能力のことを指すのだろう。

「スキルの多くは非常に高い攻撃力を秘めている。リターナーというのは、つまりは法に縛られない強大な武器を持った人間といい換えることもできる」

「そういう連中を野放しにしておくのは危険すぎるということか」

「ええ。……でも、それはあくまで副次的な目的にすぎないわ」

「というと?」

「リターナーたちが力を合わせなければ、“侵食者エローダー”に対抗できないから」

「……エローダー?」

 いわれてみれば、病院でも葉月たちがその単語を口にしていた。

「病院でおれに襲いかかってきたあの男のことか? いったい何なんだ、そのエローダーというのは?」

「エローダーの正体はまだよく判っていないわ。だから、まだこれは推論でしかないけど……彼らはおそらく、異世界のリターナーよ」

「異世界のリターナー?」

「ええ。わたしたちとは逆に、異世界からこの世界へと精神跳躍してきた異世界の住人……そして、この世界に対する侵略者という可能性が高い」

「侵略?」

「思い出してみなよ」

 それまでずっと自分の爪を磨いていた葉月が、重信のほうを見もせずにいった。

「――あんたが異世界に跳んでいった時、どうだった? 気づいた時にはもう異世界の住人になってたんじゃない?」

「……確かにそうだったな」

「異世界に飛ばされたわたしたちは、否応なくその世界の誰かの肉体を乗っ取ってしまった。そして、その人の代わりにその人の人生を生きてきた」

「エローダーもそれと同じく、誰かの身体を強引に奪ってこの世界にやってくるということか」

「その意味では、わたしたちだって異世界の住人にとっては侵略者――エローダーといってもいいと思う。リターナーとエローダーは、本質的には同じ存在で、どちら側から見るかによって呼び方が違うだけなのかもしれない。……でも、わたしたちとエローダーの間には明確な差があるとわたしは考えているの」

「何が違うんだ?」

「エローダーは、明確にこの世界の住人に対する敵意を持ってる」

 静かにそう告げる霧華を見ながら、重信は持参していた袋を広げて焼きそばパンを取り出した。

「……あんた、何食べてるわけ?」

「見ての通り購買で買った焼きそばパンだ。ここの購買のコッペパンはほんのり独特の甘みがあって――」

「そうじゃなくて! どうしてこの状況で呑気に食べてんの!? って聞いてるの!」

「どんな状況でも腹は減る。特に今のおれは筋肉量が落ちているし、あんたらの話につき合ってランチタイムを無駄にしたくない。それに、食事をしながらでも話は聞けるからな。――それとも、もう話は終わりか?」

「あのねえ……」

「葉月」

 霧華は葉月をなだめ、言葉を続けた。

「あなたが異世界に飛ばされた時、自発的にその世界の住人を攻撃しようと思った?」

「……いや、そんなことは考えなかったな。そんな余裕すらなかった」

 重信が交通事故をきっかけに精神跳躍して飛ばされたのは、それこそヨーロッパの古典的なファンタジー小説にでも出てきそうな、剣と魔法が支配する異世界だった。いきなりそんな世界に放り込まれれば、自分が生き延びること以外、何も考えられなかったとしても不思議ではない。

「だよね? ふつうはそうだと思う。わたしもそうだったし、霧華もそうでしょ?」

「ええ。それぞれ飛ばされた先は違っていても、まずはどうにか自分の置かれた状況を把握しようとして、それから何とか生き延びることを最優先に考えると思う」

「しかし、エローダーはそうじゃないと?」

「あんたが斬ったあの男は、あの日の夕方まで、あの病院の勤務医として真面目にはたらいてた“こっち側”の人間だったんだよね」

 そういった葉月の双眸に、冷たい輝きがともったように見えた。

「――要するにあの医者は、退勤からあんたが目覚めるまでのほんの数時間の間に、異世界からやってきたエローダーに身体を乗っ取られたってこと」

「……それは少しおかしくないか?」

 焼きそばパンとクリームパンを平らげ、さらにタマゴサンドの袋を開けようとしていた重信は、ふときざした疑問をすぐに口にした。

「右も左も判らない異世界にやってきたばかりだというのに、そのエローダーが真っ先にやろうとしたのがおれの命を狙うことだったわけか?」

「そういうこと。……実際には、あんたと出会う前に何人ものナースや患者が殺されてたけど、とにかくこっちの世界にやってきたエローダーの多くは、なぜか前もってこの世界のことを知っていて、そしてすぐに人を襲い始める」

「まるでそのためにこの世界へ来たかのように――か」

「エローダーの真意はいまだに不明」

 弱々しい溜息とともに霧華はかぶりを振った。

「……けど、エローダーがわたしたちとこの世界にとっての敵であるのなら、わたしたちはそれを止めなければならない。人と同じ姿をして潜伏しているエローダーを捜し出して倒せるのは、彼らと同等の力を持つわたしたちリターナーだけ」

「なるほどな。茶化すつもりはないが、要はきみたちは正義の味方で、おれにもその仲間になれといっているわけか」

「おそらくエローダーの攻撃目標の中での優先順位は、一般人よりわたしたちリターナーのほうがずっと高いはず……。リターナー同士協力することは、あなたにとってもメリットが大きいと思う」

「…………」

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