君には秘密

九路ねむる

一話

明里は今すぐ怒鳴りつけたい衝動を、奥歯を噛みしめることで耐えていた。

「いやぁ~きれいだね!梅雨のどんよりした気持ちを和ませる一服の清涼剤!その名を紫陽花!」

授業中の教室に場違いに晴れやかな声が響く。浮かれた声の持ち主は、自身の机に飾られた花瓶の紫陽花を満足そうにながめている。

「みんな知ってるかなー?みんなが紫陽花の花だと思っている花びらの部分は実は花じゃないんだ!じゃあなんだと言うと、そう!ガクなんだ!」

ガックリだね!と言うと明里の隣席の少年は自分の言葉に自分で吹き出した。明里は罵声を浴びせたい気持ちを抑え込み、机の上に広げられた数学のノートに覆いかぶさった。シャープペンシルの芯を何度も折りながら文字を綴り、とんとんと机を指先で叩くと、未だに腹を抱えている少年にさり気なくノートを示す。

「ん、なになに?」

明里の意図に気付いた少年がノートを覗き込み、声を出して読み上げる。ノートには明里の感情がこもった力強い筆圧で、こう書かれていた。

「『黙れ!浮かれ幽霊!』」


隣席の少年、筧冬夜が死んだのは五月の大型連休、いわゆるゴールデンウィークのことだった。なんの事件性もないただの病死だ。関わりのない明里がそれを知ったのは、連休明けのことだった。

気怠い気分にあくびをこぼしながら登校した明里は、眉をひそめた。隣席の少年が机の前で悄然として俯いていたからだ。病弱で学校も休みがちの彼のこと、まさか具合でも悪いのだろうかと、着席した自分の席から横目で伺う。視線に気付いたのか、顔を上げた少年と思いがけず目が合ってしまった。気まずさに曖昧に笑いかけると、少年の瞳が見開かれ唇から縋るような吐息をこぼした。 

「……僕のこと見えるの?」

明里はその時、初めて気が付いた。少年の身体を透かして、背後の景色がうっすらと見えていることを。


少年が死んだのは、たったひと月前のことだ。生まれた時から病弱だった彼の身体は、わずか十四年でその役目を終えた。

正直、生前の彼に対する印象は薄い。学校を休むことが多く、接点もない。学年が上がったばかりなのもあって、明里は彼の声も思いだせなかった。ただ、自分の席でぼんやり窓の外を眺める、彼の透けるように白い頬の色だけが記憶に残っていた。

それがどうしてこうなったのか、明里は騒がしい隣席の少年を睨みつける。少年はわざとらしく身体を震わせ、顔を歪ませた。

「うっうっ、ひどい。幽霊差別だ!」

『授業中に騒ぐなって言ってるの』

「だって明里ちゃん授業終わったらすぐ帰っちゃうし寂しいんだよ!おしゃべりしようよっ!」

どうやらこの幽霊は、中学校の校舎から離れられないようだった。流石に家まで着いて来られては困るので、正直ありがたい。

現状困っているのは、彼の姿が明里にしか見えないことだ。授業中にこれだけ騒いでいても、誰も注意を向けていない。おかげで唯一反応が返ってくる明里の気を引こうと、うるさくてかなわない。なぜ、生前関わりのなかった明里にだけ見えるのだろうか。いわゆる霊感なんて持っていないのに。そもそも、病院で死んだはずなのに学校に出るのも謎だ。儚げな空気をまとう色白な彼の、こんな一面を死んだ後で知ることになるなんて……なんだか複雑な気分だった。


『そろそろ成仏したら?』

先生の声を聞き流しながら、ノートの端に綴る。それを見た少年は、ちらちらと視線を寄越しながら人差し指同士を擦り合わせる。

「え~、それは明里ちゃん次第っていうかー」

幽霊が成仏するには、未練の解消が必要らしい。困ったことに、この少年の未練を解消するには誰かの助けが必要だった。

「僕とラブラブカップルになって下さい!」

頭を下げた少年が、明里に向けて右手を差し出す。青春を味わいたい。中学生らしいといえば、らしい未練だ。特に病弱だった少年の場合は、キラキラとした学校生活に強い憧れを持っていて、それがたまたま恋愛という形を取ったらしい。

明里はふうっとため息をついて、返事を認める。

『南無妙法蓮華経』

「強制成仏しようとしないでっ!」

酷いと騒ぐ少年の言葉に、酷いのはどっちだと唇を噛みしめる。付きあってデートして恋人ごっこに満足して成仏するそっちは良い。けれど残された方の気持ちも考えて欲しい。よく知らなかった、死んだクラスメートの思い出なんて欲しくない、思い出して苦しくなるから。

いいや、そうじゃない。冬夜の未練を叶えたくないのは、もう手遅れだからだ。明里は気付いていた。このくだらないやり取りに楽しみを感じ初めている自分に。死んでいるくせにやかましいこの幽霊に、愛着が生まれているのだ。もう知らなかった頃には戻れない。視線に怒りを込めて、少年を見つめる。

「あはは、怖いよー」

間延びした声を出して、微かに笑う少年がなんだか眩しくて目を細める。見ていられなくて明里は顔を下げた。

『般若波羅蜜多』

「絶対成仏させる強い意志っ!」

今すぐ消えて欲しい、ずっと側にいて欲しい。明里は相反する二つの気持ちを閉じ込めるように、ノートを般若心経で埋めた。


筧冬夜の人生は、病との戦いだった。人間の一生を記録するアルバムがあるとしたら、冬夜のアルバムを埋めるのは、見飽きた部屋の天井ばかりでさぞつまらないことだろう。

変化といえば、時折混ざる学校の風景くらいなものだ。体調が良いときに、許されて行く学校は喜びと同時に、冬夜を哀れにさせた。病弱な冬夜の身体を気遣う優しいクラスメートに劣等感と疎外感を覚える。友人同士の気安い会話を妬ましく感じて、いっそう孤独が身に沁みる。そんな自分が酷く醜く感じて、拳を強く握りしめて教室での時間をやり過ごしていた。

そんな中で明里は同士だった。彼女は冬夜を認識すらしていなかったようだが、一年のときも同じクラスだった。友人同士で固まって結束を高めるクラスメート達の中で、彼女はいつも独りだった。

いじめられていた訳でも疎まれていた訳でもない。彼女はなんだか、いつも怒っていた。眉間にしわを寄せ、肩を怒らせて自分の席に静かに座っていた。何がそんなに気にくわないんだろうと、いつも不思議だった。

思春期特有の全てが気に食わない病のせいかもしれない。理由は違っても、それは冬夜も同じだった。病弱な身体に生んだ世界も親も健康なクラスメート達も何もかも気に食わなかった。そんなふうに考える自分の醜悪さが、一番腹立たしくて仕方がなかった。

彼女も冬夜と同じように何かに耐えていた。耐えているように見えていた。だから彼女の人となりも知らないくせに、拳を握り日々をやり過ごす彼女に勝手に共感して仲間意識を持っていたのだ。

怒りからの解放は、唐突に訪れた。冬夜は途切れがちになる意識の中で、やっとままならない肉体を脱ぎ捨て身軽になれるのだと歓喜に震えながら病院のベットで短い生涯を終えた。

そして、目覚めると教室にいた。意味がわからなくて、困惑する。夢でも見たのかと、頬を掻いた腕が透けていて、状況を理解した。

呆然と立ち尽くしていると、視線を感じた。顔を上げると隣席の彼女と目があった。生きていた時には一度もそんなことは無かったのに、奇妙な感慨に耽る。

彼女の見開かれた瞳に、冬夜の姿は映っていない。当たり前だ、死んでいるのだから。それでもいいと思えた。同時に、この機会を逃してなるものかと思った

(だって、僕はずっと彼女と話をしてみたかった)

何が気に食わないのか、何故独りでいるのか。たくさんたくさん話して、彼女のことを知りたかった。互いのままならさを慰め合いたかった。叶うなら、普通の中学生みたいにデートなんてしてみたかった。

分かっている、それはもはや無理な願いだ。だからせめて、冬夜が存在したということだけでも知って欲しかった。自分勝手な振る舞いだとは気付いている。けれど止まれなかった。

「……僕のこと見えるの?」

冬夜は死んでいるくせに、どきどきと喧しい心臓を無視して彼女に話しかけたのだった。

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君には秘密 九路ねむる @nemunemusuyaya

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