10話 不意なエンカウント

「……ん」


 パチリと、目が覚めた。

 微かに記憶にある通り、俺はハナさんの胸に顔を埋めたまま一晩を明かしたらしい。

 目の前には、ほのかな良い香りと圧倒的な存在感はだいろが眼前に広がっている。

 昨晩俺が寝間着として貸したオーバーサイズのTシャツはやはり細身の女性には大きく、胸元がガバリと。


「……すぅ……んん……」


 ……開いているどころか、糸屑ほども衣類を纏っていなかった。

 今俺の視界はハナさんの肌に超接近ズームインしているおかげで、絵面的にはちょっとだけ助かっていた。

 むしろこのまま距離を離していくと、色々とアウトだった。


 「……なんで?」


 そういえば寝るときは全裸派とか言っていた気もするけど。

 俺が寝た後、わざわざ脱いだの?

 んでまたわざわざ、俺の頭を抱き抱え直したと。

 逆に手間じゃない?


 やっぱりこの人は脱ぎたがりの気があるのではないだろうかと思いながら、未だ目の前で規則正しく寝息を立てる神様露出狂を起こさないよう、そっと身を離す。

 もちろん、色々と視界に入れないよう気を付けながら。

 そのまま上体を伸ばし、欠伸を一つ。


 カーテンの間からは、今日も元気な太陽光が差し込んでいる。

 今は何時だろうか。

 ベッドから出て立ち上がり、PCデスクの上のスマホで時間を確認する。


「うわ」


 ロック画面の無機質なデジタル時計は、正午過ぎを表示していた。

 これはちょっと、寝すぎだ。


 ただそのおかげだろうか、身体は昨晩の酒盛りの影響など微塵も感じさせないくらい疲れが取れている気がする。

 ……なんとなく、この回復ぶりはたっぷり寝ただけが要因ではない気もするが。


「……ア゛ー、ヴァ―。ぅえ、やっぱ掠れてる」


 飲食に爆笑にと酷使した喉だけが、少しだけ痛みを持っていた。


 元々風邪は喉から派の人間なのもあってか、少し深酒をすると大体こうなる。

 そういえばエアコンもつけっぱなしだったので、それも追い打ちをかけていそうだ。

 幸い頭痛吐き気その他諸々の二日酔いらしき症状は何もないので、良しとしよう。


 今日はハナさんに必要な最低限のものだけでも買い揃えに行かねば。

 今からだとおそらく外に出るのは昼過ぎになるだろうが、せっかくの有給の最終日だ。

 未だに夢の中の肌色女へ、ベッド脇に脱ぎ捨ててあった寝間着を投げる。


「ハナさん、起床です。起きて、服着て下さい。俺昨日のゴミ捨ててくるので、服着て下さい。買い物行きましょう、買い物。必要なもの、俺だけじゃ拾いきれないかもだし一緒に行きましょう。今日じゃないと俺お金出しませんよ。あと服着て」

「うーん……?」

「俺がゴミ捨ててくるまでに起きてないと、水ぶっかけますよ」


 ハナさんに不敬な忠告をしながら、そこいらに散らばった空き缶を集めて流しで洗い、ストックしてあるビニール袋に詰め込んでいく。

 空き缶、床に置くなっつの。

 小さい愚痴も缶と一緒に放り込んで口を縛ってから、俺はマンションの共用ゴミ置き場へそれを埋葬すべく玄関から外に出る。


「あっちぃー……」


 玄関のドアを開けた瞬間、都心の熱風が全身へ浴びせられた。

 部屋から出た先の世界は、今日も今日とて快晴だった。

 空は高く雲は大きく、太陽は高いところからジリジリと都会のアスファルトを熱し続けている。


 午後はより一層暑くなりそうだ。


 ……やっぱり買い物やめようかな。


 いやいや、いかん。

 あっさり夏に負けようとする戦意を立て直す。

 まずゴミ捨てだ、今日の第一歩を完遂せよ。

 何年使っているかも覚えていないサンダルと共にエレベーターへと歩き出して、それに気付いた。




―――――





「……」


 右のお隣さんのドアの前に、スポーティなバッグを背負った女の子が立っていた。

 ボーっと、突っ立っていた。

 お隣さんのお客だろうか?

 それならばさっさと中に呼び入れて貰えばいいのに。


「……」


 変わらずその子は置物のままだ。

 部活動帰りなのか恐らく学校指定のジャージ姿で涼しそうな恰好ではあるが、快活そうなショートカットの髪が時折緩い熱風に踊る以外、この暑さを気にする様子も無く静止している。

 そう、傍から見て完全にフリーズしている……?


「……」


 そしてこれは俺の沈黙である。

 先程一歩動いたところで、俺もフリーズしてしまった。

 頭の中はフル回転しているのだが、答えを出せずに固まってしまった。


 つまり……俺は、目の前のこの子に声を掛けるべきだろうか。


 ぱっと見だが彼女は恐らく未成年で、俺は20代後半。

 下手に声を掛けて通報事案発生警察沙汰、は避けたい。

 最近何かとそういう話を耳にするし。


 その世知辛い可能性と同時に、俺は必死に両隣の住人を思い出そうとしていた。

 ……ダメだ、思い出せない。

 事案だの逮捕だのよりよっぽど避けたい、……。

 

 ふと違和感に気付き目の焦点を合わせると、彼女がこちらを向いていた。

 美しさと可愛さが両立する顔立ちだった。

 そして両の目からは、そこはかとなく怯えを感じる。


 ……あ、これはマズい。

 彼女のどこか不安げな目と俺の目が、バッチリと合ってしまった。

 このまま目を合わせ続けるのは、きっと一番キモいだろう。


「ぉは、こんにちは」


 意を決して、彼女に精一杯の挨拶をした。

 時間帯を気にしたせいで、どっちつかずの寒いギャグみたいになってしまったが。


 恥ずかしさを頭の隅に追いやって、彼女の返事を待つ。

 妙に長い間があった後、


「こ、こんにちぁ」


 舌足らずなのか上手く口が回らなかったのか、俺とは違うベクトルで同じくらい不器用な挨拶だった。

 彼女は恥ずかしかったのか、目線を足元に外してもモジモジしている。

 ……よし、突破口は開けた!


「えっと、俺ゴミ捨てに行きたいので、ちょっと失礼しますね」


 当初の目的を果たすべく、彼女の佇む先へあるエレベーターへと前進する。


「あっ、そうですよね、ごめんなさい気が付かなくて」


 わたわたと彼女も進路を譲ってくれる。

 なんとなくお互いペコペコしながら彼女の後ろを通り過ぎてエレベーターを呼び出し、乗り込んで一階をポチ。

 エレベーターのドアが閉まり、ガクンと降りだした。


「はァー……」


 ドサリとゴミ袋をエレベーターの床に降ろす。

 お互い変な空間だったと思うが、ものすごく疲れた。

 彼女に声を掛けずにどうにか出来たらそれが最善だったが、あの状況はもうしょうがない。

 目を閉じて神様に祈る。


 さっきの子、

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