歪で実直な矛盾の恋物語
道又 徳助
恋と瑠衣
日が当たってないにも関わらずジメジメと蒸し暑いなか、階段を手の甲で汗を拭いつつ、一歩一歩確実に登って行く。
棒となりかけている足が、何段目か分からない階段を踏み締めると同時に、遠くに見知った扉と、その扉と同じ扉の列が俺を出迎える。
その列が目に入った瞬間、歩幅は段々と大きくなっていき、それに伴い鼓動も早くなっていく。
やっとお目当ての扉の前に辿り着いた頃には、先程よりも汗の粒が大きくなっていた。
扉を開けたい衝動を抑えつつ、自分を落ち着かせる為にか、息を落ち着かせる為か、しっかりと扉の部屋番号を確認する。
『128』
扉にはそう表記されていた。
火照った体に纏わり付いている汗を、Rと刺繍された桜色のタオルでしっかりと、そして優しく拭う。
そうして汗を拭っている間に、緩く上下していた肩は収まっていた。
一呼吸おき、玄関扉に手をかける。
俺が扉を開けたと同時に、俺の火照った体を冷気が包み込み、顔面に密着していた髪を乾かす。
貴重な冷気を逃がすまいと、俺が急いで玄関扉を閉めると同時に、背後から声が可愛らしい声が聞こえてきた。
「瑠衣君(るい)、お帰り!」
俺が振り返ると、そこには満面の笑みで俺に駆け寄って来る女が一人。
「暑かったでしょー」
この愛らしい女は、俺の彼女の一人である深瀬恋(ふかせ れん)である。
恋は腰まで伸ばした桜色の髪をなびかせながら、勢いよく俺に抱き着いてくる。
「ああ、ただいま」
俺が微笑みながらそう返すと、恋はその長い睫毛を付けた赤色の瞳で俺を見詰めながら、甘えるような声で話しかけてくる。
「私、ちゃーんとお留守番してたんだよ?褒めてくれるよね?」
「そうだな。恋は偉いな」
俺がそう言いながら恋の髪を手で掬うと、髪の毛は流れるように俺の手から消えた。
恋はくすぐったそうに肩を竦め、
「でしょー」
と天使さながらの笑みを俺に向ける。
そんな恋の姿を見ていると、とても愛おしく感じ、俺の彼女になってくれてよかったと、つくづく思う。
だが、そんな感情を抱いている反面、恋ではない女が俺の心の大半を占めていた。
(あー、そういやもうすぐ誕生日か記念日だったよな。確かあいつ、「俺とお揃いのピアスが欲しい」とか何とか言ってた気がするなぁ。でもこいつは特注品な上に、外すと恋に何言われるか分からないし。本当に面倒臭い。…やっぱもう潮時だな)
「…ちょっと、瑠衣君聞いてるの?」
俺が彼女へ送るプレゼントについて考えていると、いつの間にか恋は俺を抱き締めていた腕を解いており、その手で俺の両頬を挟んだ。
俺の熱が恋の両腕を伝い、恋へと伝わっていく。
「あはは、ごめんごめん。ぼーっとしてた。で、何だっけ」
「もー!夕飯を何にするかって話しだよ!ちゃんと聞いててよね」
恋は頬を膨らませながらそっぽを向いてしまうが、そんな姿も愛おしく感じ、恋になら殺されてもいいとすら思ってしまう。
「ごめんって、機嫌直せよ」
俺が恋を抱き締めると、恋もまた抱き締め返してくる。
「えへへー許す!」
つい先程まで怒りを含んでいた恋の声は明るく、逆に顔には先程の天使のような笑みとは対極に位置する、小悪魔のような笑みが浮かんでいた。
(可愛い奴め)
「で、夕飯は何にする?」
「そうだなぁ、俺は何でもいいんだよな。恋と一緒に食べられるなら、な。逆に恋は何がいいんだ?」
俺は恋に質問を投げかけたのだが、恋の回答には見当がついていた。
つまり、意味のない質問である。
「私はナポリタン!ナポリタンが食べたい!…って知ってるでしょ」
俺がご飯のメニューを聞くと、恋は必ずナポリタンと答えるのだ。
恋は俺と出会った頃からそうであった。
大抵の人間ならば、毎度毎度と、嫌うような行為であろうが、逆に俺はそんな部分も好いている。
自分を曲げない芯の強さと秀麗な姿を持ち合わせていたから恋だからこそ、俺は惚れたのだ。
まぁ他にも美点は沢山あるのだが。
「そうだな。やっぱりナポリタンがいいよな」
「やっぱりって何よ」
「やっぱりナポリタンが最高だよなって意味だよ」
「ふふん。瑠衣君は分かってるねー!」
恋は得意げに、俺へと笑いかける。
「じゃあ、今から材料を買いに行こうか」
「うん!ってその前に…」
恋は突然口を閉ざす。
「どうしたんだ?」
俺が恋の顔を覗き込むと、恋の顔からは天使のような愛らしい笑みが消え、能面のような冷たい表情を浮かべていた。
「…瑠衣君さ、私に言うことあるよね?」
俺が驚きのあまり何も喋れないでいると、恋の口からは思いもよらぬ言葉が飛び出してきた。
「何で黙るの?本当にやましいことがあるの?」
思い当たる節があり過ぎて、やましいことの一つや二つがいつ恋に知られてもおかしくないと覚悟はしていたものの、いざ白日のもとに晒されそうになると何も言えなくなってしまう。
だが、恋の言い方からして完全には知られていなさそうである。
「いや、やましいことなんてないよ。俺は恋を愛しているからな。する訳ないだろ」
「何でやましいことが、愛に繋がるの?ねぇ何で?」
つい墓穴を掘ってしまう。
何か言い訳をしようと頭を回転させるが、中々いい文句が思い付かない。
これまでの経験から、恋がこの能面のような表情を浮かべている時には覚醒したかのように鋭くなることを、俺は知っている。
なので、此処での下手な言い訳は、逆に自分の首を絞めてしまうことになるだろうとは簡単に予想がつく。
だから、この場では不自然でないことを言い、恋の気を逸らそうと俺は意を決して口を開いた。
「…恋は昔あったことで不安になってんだよな。やっぱりナポリタンは明日にしようか。今日は恋が満足するまで愛し合おう」
俺は恋の肩に手を回し、部屋の奥へと連れて行こうとするが、現実はそう簡単にいかなかった。
いや、いってくれなかった。
「…嘘」
「ん?何が?」
「…嘘。私知ってるんだよ?毎日毎日、瑠衣君に抱き着くと女性用の香水が香ってくるの。何で?どうせ私なんて愛してないんでしょう?」
「いや、恋のことは世界、ううん宇宙一愛してるよ。後、香水なんて電車に乗れば…」
「毎日?瑠衣君は毎日同じ女性と同じ時間に電車に乗るんだね」
「いや、女性ものと決まった訳じゃ…」
「私同じの持ってるもん」
俺が苦し紛れの言い訳をするも、俺の言葉はすぐに否定されてしまう。
考えても考えても分からない、最適解が見つからないが、それでも何とか誤魔化そうと必死に頭を回転させている間にも、恋は話し続ける。
「瑠衣君、これで何回目だっけ?」
冷気で引っ込んだと思っていた汗が、また違った意味の汗として全身から噴き出してくる。
体は冷えている筈なのに頭は熱を持ち、まるで炎天下に居るように錯覚してしまう。
「い、いや何回目と決まった訳じゃ…」
「何を言ってるの?私が知らないと思ってる?」
「何を言ってるのか…」
「私が知っている限り十五回目だよ?」
そう、俺は過ちを何度も犯している。
恋が知っている過ちも恋が知らない過ちも、数え切れない程。
それでも俺は否定する。
「今までしたことは謝る。だけど今は恋一筋…」
「華陽、心、綾ちゃんたちだよね?瑠衣君を誑かしている子」
「…何を言っているんだ」
事実である。
「華陽ちゃんは綺麗な水色の髪で羨ましいなぁ。瑠衣君と同じ色で。瑠衣君は自分と同じ髪色がお好み?それとも心ちゃんみたいな綺麗な金髪が好みなのかな。でも綾ちゃんは二人と違ってショートだよね。本当はショートが好みなのかな。…ねぇどっち?私は何番目?」
「待て」
「私覚えてるんだぁ。前に繋がっていた由美、聡子、優、瑠璃…ーちゃんたちの情報とか、ね」
俺が制止しても恋の口は止まらない。
だが、今挙げられた名前の中には恋が知らない筈の女が混じっていた。
そういえば、過去に詰められた浮気も、その内容も全て恋は知っていた。
今回もそうだ。
名前や特徴など全て知られている。
「何のことだか」
俺の足は、言葉とは裏腹に震えていた。
汗も、先程より量が増していることが感覚で分かる。
恋は、そんな俺の汗を自分の服で拭いながら笑っている。
「私ね、嫌なの。私を見てくれない瑠衣君も、瑠衣君を誑かすあの女狐たちも嫌い…でもね、その女狐たちの中で私を一番見てくれているってことは好きなの。あぁ私が一番なんだなぁって。例え瑠衣君の背中にキスマークがついていても、ね」
「ああ恋が一番だ」
「うふふ、知ってる。でも…本当?私、嘘吐きな瑠衣君の言葉は信じられないなぁ。でしょ?」
確かに恋が言っている嘘吐きという部分は真実であるが、仕方がないのだ。
別に恋を愛していない訳ではないし、恋を世界一、宇宙一愛していると言った言葉には嘘偽りない。
ただ、俺の生来の性である嘘は俺を守る為のもの、言わば嘘を吐くという行為は心の防衛である。
「だからね、瑠衣君。私が一番だったら…私の願い事、聞いてくれるよね?」
そう言っている恋の顔は、浮気をされて傷付いた悲劇の少女ではなく、恋が嫌っている、俺を誑かす女狐の顔そのものであった。
(あぁ全く…)
恋には敵わないと思った。
恋は俺の浮気性を知っていながらも、自分が一番であることも知っている。
俺は恋に惚れたからこそ、惚れているからこそ、縛られても奪われても俺が一番ではなくとも、そして殺されたとしても。
恋の言葉が存在が、俺の世界であり一番であり、真理である。
例えば、恋が嫌いと言ったものは恋の周りから徹底的に排除するし、逆に恋が好きと言ったものは恋の周りに全て集める。
これが俺の恋への愛だ。
他の女に惹かれても、どう思っても、俺の心の底には恋がいる。
「勿論」
俺がそう短く答えると、小悪魔の口角はさらに上がり、先程までの純粋な乙女であった顔は、ただの女狐の顔になり、果てには妖艶な女狐の顔へとなり変わっていた。
俺が己の忠誠心を、言葉ではなく頷きで返すと、恋は俺の肩を軽く押した。
俺の体は、足が震えていたからか、それとも己の忠誠心酔っていたからか、何の抵抗もなく背中から床へと着地し、鈍い痛みが大きな音と共に俺の体を襲う。
痛みで声が出ず、俺を押した手を見ると、もうその場所には存在していなかった。
それを視認したと同時に俺の体に新たな衝撃が響く。
その衝撃の正体は、俺に跨がる恋であった。
恋は蕩けるような笑みを浮かべ、俺の体に馬乗りになっている。
そして、俺は恋が声を出さずとも理解し笑う。
そんな俺の満足した笑みを見てから恋は、その白い腕を俺の首へかけた。
体からは汗が噴き出しているにも関わらず部屋の温度は低く、俺の意識は眠るように消えていった。
ーーーー
次に俺が目を覚ますと、頭の中に鈍い痛みが響いていた。
自分の状況を理解する為に辺りを見渡すと、そこには桜色の髪をした天使が静かに本を読んでいた。
俺が天使を見詰めていると、視線に気付いたのか、天使もまた俺を見詰めてくる。
天使さながらの容姿で妖艶に微笑む姿は、傾国の美女と言われても納得してしまう。
そして天使はゆっくり口を開き、俺に一言。
「十六回目のおはようだね、瑠衣君」
と微笑む。
その微笑みと、小悪魔の口で紡がれた言葉で俺の鼓動は速まっていき、そして、つくづく恋には敵わないと思った。
「私たちは一生一緒にいようね」
歪で実直な矛盾の恋物語 道又 徳助 @Kiriyuu
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