平和の崩壊

 エレノアは不穏に脈打つ心臓を押さえながら、街の方を見下ろしていた。何が起こったのかなんてここからじゃ何も見えない。

 乗り出すようにして見ていたエレノアの元に、精霊が飛びついてきた。その小さな体と飛ぶことのできる羽で、瞬時に街で何が起こったのか確認しに行ったのだ。


「エレノア、大変なのよ」

「街で何が起こってるの?」

「あたし、見たことあるわ。あのおじいさん」

「そのおじいさんがシェレビアの兵士に連れていかれていたのよ」


 エレノアは精霊がひそひそと話している内容を聞いて、眉をひそめた。


「その、おじいさんというのは?」

「ヴィエータの城にいた執事だった気がするのよ」


 精霊はその一人の発言に納得したように頷く。エレノアは目を見開いた。

 フォークスだ。

 ヴィエータには執事が何人かいたが、年寄りでエレノアの世話を任されていたのはフォークスただ一人。


 エレノアは今すぐにでも城を出て街に行こうとした。フォークスが、殺されてしまうかもしれないから。

 父が亡くなった今、エレノアの過去を知り、理解してくれるのはフォークスしかいないのだ。そんなフォークスを失うのは何とも耐え難かった。


「エレノア、行っちゃだめなのよ」

「おじいさんはヴィエータに関係があったから連れていかれてるのよ」

「エレノアが行ったらもっと危険なのよ」


 精霊はエレノアの行く手を阻むように立ち塞がった。普段より強い口調でエレノアを止める。エレノアはそれでも城を出ようと強行突破した。


 心では分かってる。自分が行ったところで何も変わらないこと。自分も捕まってしまうことくらい、分かりきっている。

 それでも、ただここで連れていかれる様子を黙って見るのは許せなかった。


「気持ちは分かるけど、いつか機会が巡ってくるはずなのよ。お願い、ここにいて欲しいのよ」


 精霊が小さな手でエレノアの体を引っ張っていた。当然、その力じゃエレノアは止められない。だが、精霊の言葉の力なのかエレノアの足は力がなくなったように動けなくなった。

 エレノアは唇を血が出るほどに噛んだ。血と涙が混じって、苦い味が口に溢れる。


 なぜ、ヴィエータというだけで殺されなくてはいけないんだろうか。もういいじゃないか。

 取って代わろうなんてこれっぽっちも思ってない。ただ、平和に暮らしたいだけなのに。

 なぜ、我々はそれができないのか。

 滅んだ後も、どうして隠れて生きていかなきゃいけないのだろう。普通に、生きてはいけないのだろう。


 ちっぽけな自分が悔しくって、エレノアはしゃがみこんで子供のように泣きじゃくった。


 あれが最後ならもっと話をしておくんだった。もっと一緒にいておくんだった。そんな後悔が、取り返しのつかない頃に湧いてくる。


 夕日が沈むと同時に厚い雲が近づいて、冷たい雨が大地を濡らす。


 薄暗い城の中で、街から聞こえる騒がしい声をただ聞いてるしか、エレノアはできなかった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆


 ボロ雑巾のような服を着た年老いた男が、国王の前に出される。その首には首輪がされて、一人の兵士と鎖で繋がられている。

 こんな絶望的な状況だというのに、男は睨みつけるように国王を見ていた。その瞳の希望は消えていない。


「よくもまあ、長く生きられたものだな。賞賛に値する」


 国王も男を見下ろすようにして言う。その顔は余裕が溢れ出ている。

 国王の座る玉座の隣に二人の青年が立っている。右の青年は父である王とは違って真剣な顔つきで男を見ている。左の青年は興味を示していない。いや、わざと目を合わさないようにしているのだろう。


「くだらない前置きはやめにしてはくれませんかな。ワシの処刑はいつになる」

「はっ、この世に未練はなし、か。お前はまだ殺さない。俺たちはある探し物をしている。それを見つけるまでは、殺せん」


 国王はその少し髭の生えた顎をゆっくりとなぞりながら笑った。


「お前はあのヴィエータが信頼した人間。そんなお前なら、姫の行方を知っているだろう。姫はどこにいる。俺はずっとずっと、その姫の死に様をこの目に入れたいんだよ」


 国王は興奮した気持ちを抑えきれず、気味の悪い笑みを浮かべる。男は顔を一切変えずに国王を見ていた。

 男は決めていた。どんな拷問が待ち受けようとも、絶対に情報を伝えないと。たとえ自分が死ぬことになろうとも。今自分が存在する理由。それは姫を守る以外にはないのだ。


「はて。姫様は主君の手によってお亡くなりになられました。今は亡きお方でございます」

「ほう。ならその死んだ証拠は? それを出せたら、お前をすぐにでも主の元へやろう」

「ワシには何も。全て主君お一人でなされたことです。そんなに疑わしいのなら、ヴィエータの城にでも行ったらどうでございましょうか」


 男のその言葉に国王はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。そして口角を上げる。


「では明日ヴィエータの城で捜索だ。誰が行く?」


 国王は視線だけ左右に動かした。隣にいる青年とそれぞれ目が合う。


 右にいた青年は微笑んだまま、口を開いた。

 ここにいる兵士も、皆同じことを考えていた。二人の内、将来性があるのは右の方だし、人望にも厚く適任だと思っていた。


「その仕事、俺がやる」

「……何?」

「聞こえなかったのか。俺が行く。で、その姫をここに連れてくる」


 そう、先に意思を表明したのは左の青年だった。誰もが驚いた。公務をまるでやりたがらず、街をさまよってばかりの方が仕事をすると言ったのだ。


「僕が適任だ。君はいつも通り昼寝でもしてると良いよ。姫は僕が連れて──」

「いや、良い。お前が行け。だが失敗したら、分かってるな?」


 青年からの返事を待つ王だったが、だるそうに左の青年は首を掻きながら歩き、何も言うことなく部屋を出た。


「全く。これだから出来損ないは困るが、でもまあすぐに行けそうだな、主君の元に。良いじゃないか、大切な姫様と一緒に行けるんだ。この上ない幸せだろう」


 国王は高らかに笑うと兵士に命令をし、男は乱雑に牢屋の中に入れられた。


 男は願う。どうか何も不安な気持ちを抱えずに、姫には天寿を全うして欲しいと。

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