去る過去、消えぬ過去

 ルゼは水面を見つめていた。絶えることなく水滴が一粒落ちてくる。この水滴はどこからやって来るのか。なぜ絶えないのか。なぜ、自分はここに留まり続けているのか。

 そんなすぐに分かってしまう問いをずっと持ち続けていた。


 かつて、ルゼの居場所はここではなかった。もっと遠い場所。山を越え、海を越え。人間のいない地。妖精たちだけが住む国。そこに、ルゼは住んでいた。森や湖、洞窟、自然が広がる人の手が一切加えられていない幻の島。人間が立ち入ることのできない島。


 そんな島にある日、一人の人間が漂流した。


 妖精たちは人間と関わろうとしなかった。ずっと昔に人間から迫害された過去を持つ彼らが人間を信用することをやめたから。だから、流れ着いた人間を誰も構おうとはしなかった。中には早く亡くなることを願う者までいた。

 特に拒絶していたのがとある竜だった。竜はその魔力の強さ故に戦争の道具にされていた。人間と関わることを古来より嫌っていた彼らは二度と人間を見ることのないようにしていたのだ。


 その人間は十代後半ほど少女であった。エメラルドグリーンの長い髪に赤い瞳。ぱっちりと開かれた目はまだ疑いを知らないようで。そんな美しい見た目とは裏腹に、着ている物は見るに堪えないほどみすぼらしかった。

 妖精の中でも好奇心旺盛な精霊はあっという間にその少女と仲良くなってしまった。それから精霊だけでなく、島に住む妖精と親しくなった。あと少女が話していないのは竜だけだった。

 竜は少女の噂を聞いても、出てこなかった。ずっと隠れていた。いくら何でも人間だ。すぐに年老いてすぐに死んでしまう。その時を黙々と待っていた。百年もかからない時を待つ。ただそれだけのことだから。


「竜だ。話の通りだわ。本当に竜がいたのね」


 少女がそう、竜の隠れ場所を見つけてしまった。


「ねえ、あなた。私と一緒に来てくれないかしら。無茶なことだって分かってる。でも、あなたじゃなきゃだめなのよ」


 少女は多くいる竜の中からわざわざ奥の方にいた黒竜を見つめて手を伸ばした。それがルゼだった。

 ルゼは目を見開いた。はっきり言って断固反対だった。嫌いな人間と共に過ごすなんて、死んだ方がマシだと思った。

 それでも、少女は何度もしつこくルゼを誘った。なぜ自分が良いのか、ルゼは全く分からなかった。黒竜は少ないが、大きい竜ならたくさんいる。ルゼと同じくらいの魔力を持つ竜もたくさんいる。その中でなぜ自分を選んだのか分からず。


 そのまま時が流れた。少女は少女と呼べない歳になった。焦ることのなかった少女が、だんだんと焦りを見せてきた。理由は話さない。しかし、明らかに焦っているのだ。ルゼがこの場を離れないことを、確かに。

 ルゼは悩み抜いた末、共に行くことを決めた。どうせこの少女はすぐに死ぬ。そしたらまたここに戻ってくれば良いと思ったのだ。半ば、折れたも同然で。


 だが、ルゼはあの島に戻ることは金輪際なかった。できなくなった、と言うに等しいだろう。

 島は消え去った。

 偶然か運命か。よりによって一番避けていた地に戻った竜は心を殺した。そして、その姿を誰にも見つけられないように薄暗い洞窟に身を隠す。

 皮肉にも、かつて妖精が奇跡をもたらしたそこは人間の支配下になり、美しさは消えて妖精はまた恐怖の中生きることとなった。


 そう、全ては自分のせい。何もかも、自分が存在したから起きたことだった。

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