あなたに名を(2)
エレノアは天には行けなかったであろう父に問いかけた。自分は何をした方が正しかったのかと。今までやって来たことが本当に正しかったのか。そう俯きながら帰っていると、ふと城の周りが賑やかなことに気づいた。怪しく思って木に隠れて城の方を見てみる。
「シェレビアの兵士!? どうして、なぜここに」
エレノアが飛び出しそうな心臓を押さえながら必死に考えていると、見覚えのある人物を見つけた。馬に乗りながら真剣な顔つきで兵士に指示を出す幼き少年、アーサの姿だった。
「やっぱりシェレビアの人間を信じた私が馬鹿だったわ。最初から罠だったのね」
エレノアは強く歯を食いしばりながらアーサを睨んだ。しかし、その睨みが相手に届いてしまったのか、エレノアはアーサと目が合ってしまった。エレノアは急いでしゃがみ込んだが、兵士の駆け寄ってくる足音が近づいてくるのが聞こえた。
これからどうされるのだろう。処刑? それとも。そう考えている間にも、無意識にエレノアの足は動いていた。なぜか先程までいた洞窟に走っていたのだ。
誰か助けて。
先程まで遠回しに竜に死んでも良いと言っていたのがまるで別人のように、心で必死に助けを求めた。やはり幼い少女に覚悟なんてできるはずもなかった。死ぬのが、怖かった。
その時だった。エレノアの頭上を大きな影が覆った。それは、エレノアを追いかける兵士にも。エレノアは上を見た。そこには黒い鱗を持つ大きな存在、竜が空を飛んでいた。竜はエレノアと兵士の間に、エレノアを背にして降り立った。
「りゅ、竜だ……。厄災の竜が起き上がったぞ!」
「この世の終わりだ」
そう兵士は一目散に来た道を戻っていく。そこにエレノアと竜だけが残った。竜は首をエレノアの方に向けた。
「あなた、外に出てしまって良かったの? あなたの討伐命令が」
「別に良い。それより、俺の眠る真上でドタバタと騒がれる方が迷惑だ」
エレノアは自分より遥かに大きい存在を見上げながら、優しく微笑む。
「やっぱりあなたほど優しい竜はいないわね。ありがとう、助けてくれて。どうやってこの恩を返せば良いのか」
「礼などいらん。お淑やかに生きていろ」
「十分お淑やかだと思うわ。私、十歳よ。十歳の子供してはだいぶ落ち着いている方だと思うのだけれど」
「自分で言ってしまうのもどうかと思うのだが」
竜とエレノアはしばらく談笑を続けていたそのとき。竜が一瞬顔を歪め、エレノアに向けた顔を反対側に向ける。
「エレノア! 今すぐその竜から離れるんだ! その竜は厄災だ。今、僕がその竜を殺して──」
そこにいたのはアーサだった。アーサは弓矢を構えながらエレノアに話しかけている。矢は、竜の右目を向いていた。
「やめなさい! 竜はあなたが適う存在じゃないわ。それに私は何もされてない。今すぐその弓を下ろして!」
そうエレノアは竜の前に出て、アーサに叫ぶように言った。だが、その瞬間にエレノアは木に隠れていた兵士に捕まってしまう。
「触らないで、離して! この竜は殺さないで。私の、大切な友達なの!」
「竜が友達になるわけないじゃないか、エレノア。君は騙されてるんだ。こんな森から出よう。僕の宮殿に住ませてあげる。ここで苦労することもないよ。お前たち、先にエレノアを宮殿へ。竜を仕留めたら僕もすぐに──」
アーサが兵士に指示を出し終える前に、急に横からやってきた長い棒のようなものがアーサに当たり、アーサはどこかへ吹き飛ばされた。それは、竜の鋭利な尻尾だった。
「笑止。この俺が十歳ばかりの小僧に仕留められると。いつから人間の中で俺はそれほどまでに弱い存在になったのか。……さあ、そこの兵士よ。その娘を返してもらおうか。大人しく返せば何もしないこともない」
竜は怒りを含んだ、それでも冷静さと威厳のある声で言う。そこにいる誰もが震え慄いた。
「わ、分かった。この子は返そう。だから頼む、殺さないでくれ!」
兵士はまるでエレノアを竜に投げつけるようにして離した。エレノアは恐ろしくて竜の大きな大きな足元に身を隠す。
「一つ条件がある。記憶を失ってもらおうか」
竜はどこか楽しそうな声で言うと、前足を強く地面に突き刺して大きな地響きを起こした。
エレノアと竜はその後、森の入口付近に眠ったままの兵士とアーサを寝かせた。死んでしまったかと心配に思ったエレノアだったが、全員がちゃんと息をしていたことに安心した。
城に帰ったエレノア。城の扉の前には、城に匹敵するくらいの大きさの竜がそこに立っている。
「やはり、人間は変わらないな。だから、外は美しくとも好きではない」
竜はそう呟いた。
結局、アーサーがなぜ城に来てエレノアを追いかけたのかよく分からないままであったが、とにかくもう二度と会わないとエレノアは心に誓った。
「ごめんなさい。私が、そもそもあの日、あいつを案内しなければ良かった話なの。私のせいだわ」
「……お前は謝ってばかりだな。謝るより礼を言え。謝られて嬉しい者などいない。謝る必要などない。まあ、謝るべきところは謝って欲しいがな」
竜は優しい声でそう言った。エレノアは顔を上げ、自分の頭よりずっと上にある竜の目を見て微笑む。
「そうね。ありがとう、助けてくれて」
そうエレノアが言うと竜は満足したように頷く。そのときエレノアはあることを思い出した。
「そういえば、外に出たら私の名を教えると言ってたわね。私の名はエレノア。エレノア・ヴィエータよ」
竜は目を伏せながらも聞いていた。その瞳には申し訳なさが浮かんでいる。
「なぜ、この状況になってでも教えた。もう名を教える必要などもうないのに」
「教えたかったの。気が変わったのよ。あなたに助けられて、どうせ独りぼっちなら別に良いじゃない? あなたは嫌だった?」
エレノアは眉を下げて問いかけた。自分のわがままで勝手にこの約束を結んで、勝手に名前を教えて。思えば竜の意見などちゃんと聞いていなかったと。
「俺は、良い。今まで嫌というほど生きてきたんだ。別に良いさ」
「ありがとう、本当にありがとう」
「では、俺に名をつけてくれ」
エレノアは目を丸くさせた。先程、名はいらないとかそんなことを言っていたのに。どうしてだろうとエレノアは首を傾げる。
「これは一種の契約だ。主人となる人間は契約する妖精に名前をつけ、妖精を守る。妖精はその返しとして、契約印を授ける。これが妖精との契約の儀式だ。これはお互い死ぬまで契約を破棄することができなくなる。それでも、お前は後悔しないか?」
「ええ。しないわ。きっと、どんなことがあろうとも。これを選択したことを公開する日なんて来ないでしょう」
エレノアはまっすぐに竜を見た。そして目を閉じて大きく息を吸う。目を開けると、そこにはエレノアと同じようにじっと見つめる竜の目がそこにあった。
「あなたの名前はルゼ。黒竜のルゼよ」
「……」
竜はその大きな目をさらに見開く。黙り込んでしまって凍ったかのように動かない。センスがないと呆れてしまったのかと怖くなった。だけれど、この竜を見てこの名がなぜかパッと浮かんだのだ。
「もしかして、気に入らなかった?」
「ああ、いや気に入った。 良い名だ。では、お前に印を授ける。胸元を少しだけ出せるか」
その竜、ルゼの言葉にエレノアは顔を赤くさせたが、実際胸元というより首の下くらいだったので了承した。ルゼは自らの鋭い爪で体を一部傷つけ、赤い血を出す。その一滴をエレノアの胸元に垂らした。その血は一瞬にしてエレノアの体内に染み込まれ、薔薇のようで竜のような複雑な形をした黒色の印に変わった。特に体の変化は感じない。
「これで儀式は終わりだ。その印がある限り、契約は続く。この印が消える時。どちらかが息絶え、お互いが死ぬ時に契約は解消される。良いな?」
「うん。これからよろしくね、ルゼ」
「……何だか落ち着かないな。他にもこの契約を結んだことで色々とできるようになる事があるのだが、それはまた明日にしよう。今日はゆっくりと休むと良い。おやすみ、我が主よ」
「おやすみなさい」
そう言って落ちかけた夕日を背にエレノアは城の中に入っていった。ルゼは見送った後、大きなため息を吐いた。
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