あなたに名を(1)

 森はいつ見ても神秘的だ。本当に神がいると思っても全く疑わしくないほどに。エレノアは自然の空気をいっぱいに吸い込むと、いつものように竜の元へ向かう。最近の日課となっているため、逆に行かないと落ち着かなくなってきている。


「虫が鳴いているな。夏が来るか」


 竜はエレノアが着いた瞬間に言葉を発した。顔はエレノアを向いていないが、ここへエレノアが来たことを気配で察したのだろうと思った。


「もう夏といってもいいかもしれないわ。ここ最近暑いもの。森が涼しいのが一番の幸せかもしれないわ」


 エレノアはひんやりとした岩をぴたぴたと触りながら言った。


「夏は良いな。暑いが自然が一番生き生きとしている季節だ」


 竜は優しい声でそう言った。その目は真上にある木々よりもその先の遠くを向いていた。


「ねえ、黒竜さん。聞きたいことがあるんだけれど──」

「言っておくが、俺には名がない。無論、この先名を持つつもりもない」


 エレノアは尋ねようと思ったことの答えを先に言われ、口を閉じた。竜は心まで察せるのかと驚きと共に少し恐ろしくなってしまった。


「名がないの? それは、どうして?」

「……小娘には関係のないことだ。竜がには元より名をつける習慣がないだけ」


 竜はため息にも似た息を漏らすと、視線をエレノアに向けた。その目はあまりにも冷えきっていたのに、エレノアにはそれが寂しく見えた。


「あなたがそう言うなら、もうこの話題には触れないわ。ごめんなさい」

「いや、謝らなくて良い。こちらの勝手なのだから」

「では、違う質問をさせてもらうわ。あなたはなぜここから出ないの? 外に出れば自然をより近くで感じられるわ」


 そのエレノアの率直な問いに竜はしばらく考えこんだ。エレノアは、何かまずいことでも聞いてしまったのではないかとヒヤヒヤしていた。


「外に出た所で、俺の居場所などないからだ」

「居場所が、ない?」

「ああ。このでかい体じゃ、俺が安心して休める場所などそうそうないだろう。それに俺はお前がそう言ったように厄災だと恐れられている。そんな存在が外に出てしまえば人間は一目散に殺しに来るだろう。なら、ここで静かに息を潜めてこの穴から地上を眺めているくらいがちょうど良い」


 竜は諦めたようにそう呟いた。エレノアは酷く心が痛みつけられた。竜だって外に出たくないというわけではないのだ。ただ、人間のせいで外に出ることを諦めている。この場所はきっと竜のものであっただろうに。


「人間を憎んでいる?」

「……さあな」


 嘲笑するように竜は言う。

 エレノアは父にヴィエータとして憎むな、と言われた。様々な選択肢が残されている中で。しかし、この竜は違う。自分の意思で、そうするしかなかった。それしか、選択肢がなかったのだ。


「あなたと一つ約束をして良い?」

「ほう、人間が竜に何を約束するか」

「あなたと一緒に外に出たいの。嫌だったら別に良いのよ。その時、あなたに私の名を教えさせて欲しい」


 そのエレノアの言葉に中々感情を表に出さない竜が目を見開いた。竜に名前を教える。それは。


「己と妖精、俺と契約することになるのだぞ。賢いとは思っていたが、こんな簡単なことさえ分からぬとは。それに、俺はもう人間と共になんぞもう懲り懲りでな」


 竜は呆れたように言う。

 竜が外に出れば、先程竜が言ったようにすぐにでも王が竜の討伐命令を下すだろう。契約をした少女がいると分かったら、この子の命も。


「元々、私は五年前に死んでいるはずだった。それに言ったでしょ。もう失うものがないと。孤独な姫と孤独な竜。史実として残る物語にしては素敵ね」

「心底呆れた。そもそも、俺は外には出ぬと言ったはずなのだが。俺はここに、ここにいなくては行けないのに」


 そう言って竜はエレノアから顔を背けた。もう話す気はないと言っているように。


「……怒らせてしまったのなら謝るわ。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」


 竜はもう何も言わなくなってしまった。エレノアは声をかけるのを諦めて、肩を落としながら城に帰った。

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