あなたの名前は
荒れた城に来る者はいない。そもそもこの城を覚えてくれている人がいるかも定かではない。森も人が入らないのでエレノアは久しく人間を間近で見ていない。
だがそれはメリットもあった。エレノアも生きていることを民に知られることなく生きれるのだ。こんな森にある恐ろしい城に誰も来ないと安心していた。
エレノアはいつもと同じように食料調達のため、森を散策していた。弓で兎を狩り、食べれる果物などを集める。よく晴れた日だった。木漏れ日がエレノアの行く道を照らしている。
「……どうして、そんな所にいるの?」
エレノアは背後からそんな声を聞いた。自分と同じくらいの歳の少年の声を。だが、それは聞き間違いだと無視をする。こんな場所に幼い子供が来れるわけもない。大人でさえ来ない場所なのに。
「僕の声、聞こえてる?」
やっぱり聞き間違いではなかった。エレノアは小刻みに震えた。子供がここへ来たとすれば、きっと大人も一緒にいるのだろう。この父と同じ銀色の髪。バレてしまったら殺されてしまうかもしれない。
エレノアは考えるのをやめ、一目散に逃げ出した。子供は恐らくこの森に入るのは初めてだろう。だとしたら、ここに住んでいるエレノアの方が有利だ。エレノアは必死に逃げた。
「どうして逃げるの? 助けて欲しいんだ。ただ迷子になってしまって」
そう走っているにもかかわらず、余裕そうにエレノアを追いかけながら少年は問うた。エレノアの息は、荒れて声すら出ないというのに。
迷子になったのは自業自得。助ける義理なんてないとエレノアは自分に言い聞かせる。それでも少年は追いかけてきていた。
エレノアの体力が限界に近づき、ふらふらになりながらも城の重たい大きな扉を開けて中に入っていった。扉を体で押さえながらその場にしゃがみこむ。
「すごい。こんな場所があったんだ。君はここに住んでる子? よかったら森の外まで案内して欲しいんだ」
少年は扉の前でエレノアに声をかける。エレノアは戸惑った。この少年を助けるべきか。だが森に出たとき、シェレビアの人間が待ち伏せしていたら。
エレノアは考えに考えた結果、あることを思いつき、そのふらふらとした足で立ち上がった。そして扉を開けずに向こう側にいるであろう少年に話しかける。
「森の外まで案内してあげる。その代わり、条件があるわ。それでも良いなら、案内する」
「本当に? 嬉しいな、ありがとう。僕ができるものであれば何でもしよう」
エレノアの言葉に少年は嬉しそうな声ですぐ答えを返した。エレノアは固唾を呑んだ。エレノアにとって、これは大きな賭けなのだから。
「私がいたことを誰にも言わないこと。大人だけじゃなく、子供にも言ってはだめよ。私の存在がバレてしまったら、私が殺されると思って」
「う、うん。分かった。誰にも言わないよ。でもなんで殺されてしまうんだい? 君は、何か悪いことでもしてしまったの? もし良かったら僕の父上に頼んで罪をなかったことに──」
「余計なことしないで。これは盗みとかそういう罪じゃない。もっと、大きな罪をこの血が背負ってしまっているのよ」
少年の言動にエレノアは怒りと不安を抱いたが、自分の気持ちを沈めて息を大きく吸った。
そして、ワンピースのポケットの中にしまっていた小さな石を取り出す。その石には青い宝石のようなものがちらほらと見える。この石こそ、ヴィエータ王国が三百年も続き栄えた理由だ。
エレノアは石を握りしめて目を閉じた。そして、アルゼルに教えてもらった言葉を口にする。
「ヴィルトゥス」
その言葉に反応して石は強く青色に光始める。光が収まった後、エレノアの美しい銀色の髪は茶色に変わっていた。
この石は魔法石。魔法を使うことができない人間が唯一魔法を使うことができるようになる道具。それが魔法石だった。魔法石が採れるのはこのヴィエータの城の建つ森のみ。魔法を使うことができる妖精が及ぼす魔力でその石が採れるのだ。それを厳しく制限したため、ヴィエータは絶対的な権力を手にした。
エレノアが持つ魔法石は、小さいため大きな魔力を持っていない。魔法石は大きさによって魔力が違い、使える魔法も異なる。エレノアが誤って命を落とすようなことがないように、とアルゼルがわざと小さな石だけを城に残していたのだ。
「まさかお父様が置いていった魔法石がこんな所で役に立つなんて。ありがとう」
そうエレノアは呟いた後、扉を開ける。そこには金髪の少年がいた。
エレノアは目を見開いた。この国で金髪の家系はただ一つしかない。シェレビア王族だ。まさか少年がこの森に来たのはエレノアをおびき寄せるためなのだろうか。そう思ったエレノア気づかぬ内に足が震えていた。
「どうしたの? 僕の顔に何かついてる?」
少年はきょとんとした顔で聞いてくる。エレノアは調子が狂った。本当にこの少年は無知なのか。それとも親の命令でここへ来たのか。分からなかった。
「あなた、本当にここが何か知らないのよね」
「え? 知らないよ。お忍びで街へ出ていたら綺麗な森を見つけて。中に入ったら出れなくなってしまったんだ」
そう言うと、少年は本当に困っている様子でため息を吐く。嘘はついていないようだと判断したエレノアは心を決めて外に出て扉を閉めた。
「誰にも言わないでね。私の心配なんてしなくていいから。ここで独りで五年も生きられたんだもの。何も心配いらない」
エレノアは前を向いてそう言うと、少年を背に歩き出した。少年も慌ててエレノアの後を追いかける。
「なんで君はここにいるの? 街は、嫌い?」
「私はそうでもないけど、街の人は私のことが嫌いよ」
「どうして?」
「……さっきも言ったけどこの体に流れている血のせいよ。人々にとっては、私は死んで欲しい人間だから」
少年は「ふぅん」と分かっているのか分かっていないのか、曖昧な返事をした。
「あ、僕の名前はアーサ。君は?」
「そうやって、簡単に人に名前を教えない方が良いと思うけど。私の名前はもちろん言わないわ」
「どうして。友達になろうよ。僕、普段同年代の子と会う機会なんてないんだ。だから、友達が欲しくて」
馬鹿馬鹿しい。そうエレノアは思った。エレノアの父を殺すほど憎んだ男の血を引く子。友達になるなんて、以ての外だ。
「断固反対よ。私は、もう二度と顔も見たくない」
エレノアは震えながらも、きっぱりと言い切った。
「……そう。しつこい男は嫌われてしまうと聞いた。諦めるよ。でも僕は君と友達になりたいって思ってる。君と会えて良かった」
アーサはそう言って微笑む。その顔を見たエレノアの良心が痛む。自分の判断は正しい。本来、こうやって話し合うことすら許されない人間なのだ。だからこれ以上の関係になるなんて絶対あってはならない。
「随分とお気楽な人間なのね」
「そうかな。僕は立場なんて気にしない。僕がこうしたいって思ったことをやりたい。そのためには僕は。やっぱ、何でもない」
アーサはそう言って微笑む。アーサの言葉はエレノアの心に靄のように形を変えて残っていた。
それから森の外に出るまで二人は無言だった。この沈黙が歯痒くて、それでも何かを話そうとするわけでもない。
「本当に外に出れた。君のおかげだ。ありがとう」
アーサはそう言って走り出した。目と鼻の先で、自分と同じくらいの歳の子たちが賑やかに遊んでいるのが見える。まるで、この森が境界線みたいであった。エレノアはアーサと二度と会えないと感じ、胸元を掴んで大きく息を吸った。
「ま、待って!」
エレノアの声にアーサは森を出る一歩手前で振り返る。
「……エレノア。私の名前はエレノアよ」
「名前、教えても良かったの?」
「気が変わったの。今度は間違っても森に迷わないでよ。二度と道案内してやらないから」
エレノアはそっぽを向きながらそう言った。しばらくしてアーサの笑い声が聞こえる。
「分かったよ。もう迷わない。じゃあ、またねエレノア」
アーサは手を振って今度こそ森の外へと走っていった。エレノアは踵を返す。その瞬間、魔法が解けてエレノアの銀色の髪が姿を現した。魔法石が小さいと魔法の継続時間も短いのだ。
エレノアは来た道を辿って城へと帰った。
「またね、か」
初めての来客が、自分の父を殺した男の家族だなんてエレノアは夢にも思わなかったが、それがアーサで良かったと思ってしまった。
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