急転
高い雲が動いているのか分からないぐらいの速度で流れていく。
シチパスに教えられた通り、クリアスたちは広大な葡萄畑が広がる『実りの
冬の訪れも近い晩秋にそぐわず、辺りには暖かな空気が満ちている。にもかかわらず、その景色にはどこか侘しい雰囲気が漂っていた。あるいは今の気持ちがそう感じさせているのか。
と、クリアスが白い雲に向けていた視線を下げた時、奇妙な光景が目に入ってきた。
「あれは……アルジェル君?」
場所は昼に訪れた『樹陰の浮島』へ通じる橋がある辺り。右手にその浮島へと続く吊り橋が中空に伸びている。その橋の手前で薄紫色の髪の後ろ姿が座り込んでいた。手で何かを押さえているようだが、遠くてよく分からない。その時、アインの鋭い声が飛んだ。
「様子が変だ。血の臭いがする。それもここまで届くぐらいの量だ」
言うや否やアインは走り出していた。飛龍が頷きを送り、クリアスもともに走り出す。風下であったためか、近づくにつれ、クリアスにも分かるぐらいの生臭い鉄の臭いが漂ってきた。
「おい、聞こえているのか。何があった?」
アインが話しかけるが、アルジェルは蹲ったままだった。そのすぐ横には橋の警備に当たっていた王国軍の兵士の一人が倒れていた。その様相を見てクリアスは細い悲鳴を上げる。
その首元が大きく抉れ、赤黒い穴がぽっかりと口を開けている。そして、傷口から流れ出た大量の血が灰白の台地を赤く染め上げていた。その凄惨な光景にクリアスは思わず目を逸らしたが、すぐに恐怖を抑え込み、アルジェルの元に近づく。
そこには、もう一人の兵士が血の海の中で倒れていた。その兵士の首元をアルジェルが両手で押さえている。その手からはシチパスの家で見た回復魔法の光が放たれていた。
「治しきれない。僕の力だけじゃ……。だから、少しでも出血を抑えて……」
純白の光がより一層、輝度を増す。だが、兵士の土気色の肌と淀んだ瞳は、どう見ても悲惨な結末を変えられないことを物語っていた。
アインがアルジェルの肩に手を置く。
「よせ。もう手遅れだ」
「さっきまでは少し動いてたんです! まだ望みはあります!」
「それは単なる反射運動だ。急激に出血して死んだ人間では稀に見られることがある」
しかし、アルジェルは傷口から手を放さず、魔力を放ち続ける。必死に助けようとするその姿に心を打たれながらも、クリアスはアルジェルの正面に回り、その手にそっと手を重ねる。
「アルジェル君、その人はもう……」
悲しみに彩られたクリアスの瞳を見て、アルジェルの手から光が消える。
「……だめなんですか?」
糸が切れたように茫然と座り込むその目から光の粒が零れ落ちた。
「助けられなかった。僕は回復魔法を覚えたはずなのに……」
「自分を責めることなんてないわ。この傷なら誰であっても助けられなかったはずよ」
同意を求めるようにクリアスは顔を上げ、アインを見る。しかし、アインの眼はこちらを向いてはいなかった。油断なく周囲を見据え、最後に『樹陰の
「周囲に脅威となるものの姿はない。ただこの辺りは人が多く通った跡があって、何がここにいたのかは分からない」
「そうか。だが、あの傷口。一見したところ、人間の仕業には見えんな」
クリアスの体に一気に恐怖が駆け抜ける。この兵士たちが何者かによって命を奪われたのは明白だ。そして飛龍たちの口ぶりはそれが人間でないと言っている。人でないならば……自ずと一つの可能性が導かれる。さらにそれがどこから来たかと言えば……
「それともう一つ重大なことがある」
飛龍が双剣の一つを村の南側に向ける。そこには村と外界を隔てる断崖が横たわっていた。が、これまでとは一変したその光景にクリアスは瞠目する。
「橋が……ない!?」
村と向こう岸を繋ぐ橋が見えない。立ち上がると、断崖の向こう側に切れた吊り橋が垂れ下がっているのが見えた。
「事故や自然劣化で落ちたとは思えない。それに橋はこちら側から落ちてる。つまり……」
「ああ、そうだな」
アインが見据える先で、悪意を孕むかのような鬱蒼とした森が、息をするように葉擦れの音を騒めかせる。
「俺たちはある意味閉じ込められた。この兵士たちを殺した存在がいるこの村にな」
不気味なぐらいに太陽が赤く燃え、村を包む不安を増長するかのような夕刻。その赤光に照らされた村の集会場も物々しい雰囲気に包まれていた。
あの後、飛龍はアインにクリアスとアルジェルを連れて、王国軍がいる集会所に行くように言い、自分はその場に残った。もし、兵士たちを殺した存在が橋の向こうから渡ってきたら、その場で食い止めるためだった。アインはクリアスたちを送り届けたのち、すぐに飛龍の元へと取って返し、その間にクリアスは王国軍に事態を説明した。話を聞いた王国軍の狗牙隊長であるハミルトンは、すぐさま十人ほどの兵士を連れて現場へと向かった。
集会所の部屋の一室で、アルジェルとただ待つしかない時間を過ごしていたクリアスは、不意に開けられた扉に顔を上げる。
「飛龍、アイン。無事でよかった」
部屋に入って来た二人を見て、まずは安堵の表情でクリアスは二人の元に駆け寄る。
「どうなったの?」
「王国軍が来て、ひとまずあそこは十人規模の兵士で見張ることになったよ。今後、どうするかは村の人とも話し合って決めるらしい」
すでに集会所には村長や村の顔役である人々が集まり、これから事情の説明と緊急の話し合いが行われることになっている。
「アルジェルの様子は?」
「かなりショックを受けてたようだけど、今は落ち着いてきているみたい。無理もないよね。子供があんな姿を見たら……」
クリアスは胸に拳を当てながら、アルジェルを振り返る。飛龍はそのアルジェルを一度見たあと、クリアスに眼を戻し、その肩に手を置く。
「君も少し休んだ方がいい。王国軍の人からまた事情の説明を求められたら、僕たちから話しておくから」
クリアスはそこで初めて、胸に当てた自分の拳が震えていることに気付いた。
自覚することであの凄惨な光景が瞼の裏に蘇ってくる。膨れ上がる恐怖を必死に意識の外に追い出し、クリアスは顔を上げて飛龍と向き合う。
「ううん、大丈夫。誰かがアルジェル君の側に付いていてあげないと。だってあの子、最後まで兵士さんたちの命を助けようとしたのよ。逃げもせず最後まで……。だからもうしばらく傍にいてあげたいの」
そんなクリアスに飛龍は軽く頷きを返し、少し考えたのち、言った。
「家には帰さないのかい?」
「さっき飛龍が言った話し合いがこの後ここで行われるんだけど、実はハンナさんも村の重要な決まり事を決めるときの代表の一人らしくて、ここに来ているの。それで話し合いが終わり次第、一緒に帰るそうよ。それにハミルトンさんが、村の中に魔物が入り込んでいる可能性もあるから、出歩かない方がいいって」
現在、王国軍の兵士たちは、橋の警備と魔物の捜索、そして村人への警告を行うため、総出で出払っており、この集会所には村人との討議を行うため、ハミルトンと二人の兵士、そして王立研究所の研究員のみが残っている。
「なるほどね……」
納得を示しつつも飛龍は鋭い視線で考え込む。それを見てクリアスは小さく息を呑んだ。これは飛龍が物事の裏に隠れた真実を見出そうとしている顔だった。ただ、飛龍が何を考えているかも気になったが、それ以上に二人にはまず伝えたいことがあった。
「ねえ、二人とも……。少し話しておきたいことがあるの」
言ってクリアスはアルジェルの元に戻り、できるだけ優しい声で話しかける。
「ちょっと部屋の外で話をしてくるね。すぐに戻るから心配しないで」
「はい、僕なら大丈夫です」
意外にしっかりした声が返ってきたことに安心し、クリアスは飛龍たちと部屋の外に出る。
扉を閉め、辺りに人がいないのを確かめると、クリアスは声を落として話し出す。
「話というのはハンナさんのことなんだけど……」
それは飛龍たちが返ってくる少し前のことだった。
兵士二人に連れられて、ハンナはこの部屋にやってきた。集会所に来たのは王国軍との話し合いのためであったが、当然アルジェルのことも伝えられているはずだった。
すぐさま事情を説明しようとクリアスは立ち上がる。だが、
「アルジェル」
脇目もふらずハンナが憔悴した様子のアルジェルに駆け寄り、抱きしめる。
「大丈夫? 怪我はないと聞いていたけど……恐ろしい目に遭ったわね」
「おばあちゃん……」
体を離し、血で汚れた服に目をやると、ハンナは両手で包み込むように少年の端正な顔に触れる。するとその声と仕草に虚ろだったアルジェルの瞳に光が戻る。と同時に気持ちが緩んだのか、その目から堪えていたものを溢れさせ、アルジェルはハンナに抱きついた。ハンナは一瞬、驚いたものの、すぐにその華奢な体に腕を回し、背中を撫で続ける。
そうして、アルジェルがようやく泣き止んだところで、ハンナはゆっくりと体を離した。
「私はこれから村長さんやアルフォワースの人たちと話があるから、あなたはここで待っていてくれる?」
「うん、分かった。おばあちゃん、僕は……」
アルジェルが何かを話しかけたところで、ハンナは優しくその肩に手を置く。
「話は後でいいわ。今は休んでいなさい」
そう言い聞かせると、ハンナはクリアスを振り返る。
「クリアスさん、ありがとう。事情は聴いているわ。あなたが傍に入れてくれてよかった」
「いえ、私は何もしていませんから……」
謙遜でもなくそれはクリアスの本心だったが、ハンナはそうは受け取らず、軽い笑みで、謝意を示した。そして、ハンナが立ち去ってしばらくして、飛龍たちが戻ってきた。
クリアスの話を飛龍とアインは無言で受け止めていた。そんな二人から、クリアスは視線をアルジェルがいる部屋の扉へと移す。その瞳は気持ちと同様に揺れていた。
「ねえ、ハンナさんって、本当に私たちが考えているような人なのかな」
アルジェルを愛おしそうに抱きしめたハンナ。これまでの言動から想像していた人物像と相反するその行動は、アルジェルの心に平穏をもたらした一方、クリアスの心を激しく揺さぶった。その抑えきれぬ想いに対し、アインが冷静に問い返す。
「クリアス、お前にとっては人一人預かるかもしれないことだから気になるのは分かるが、それは今ここで話すべきことなのか?」
二人の命が失われ、さらに多くの人が正体定かならぬ脅威に怯えている。優先順位を付けるなら、まずそちらを考えるべきなのかもしれない。しかし、クリアスは、どうしてもこの問題を先送りにすることはできなかった。
「ごめん。私の我が儘なのはわかってる。でも少しでもいいから二人の意見を聞かせて」
その切実な願いに、飛龍が一度息を溜めてから答えた。
「分かった。これはあくまで僕の意見だよ」
その念押しにクリアスは頷く。
「それじゃ、その前に一つ聞かせて欲しい。ハンナさんが来た時、この部屋にはクリアス以外にも人はいたんだよね?」
「そうだけど……?」
話の繋がりが分からず、戸惑うクリアスに飛龍は硬い表情で続ける。
「これまで聞いた話や会った印象から言わせてもらうと、あの人は本当の自分を他人に見せまいとしているように僕には思えた。他人の前では表向きの顔を装っているようにね。だから君が見た時もそうだったのかもしれない」
その言わんとするところを理解するにつれて、クリアスの顔に不満がありありと滲みでる。
「つまり、あれはアルジェル君を心配する振りをしてたってこと? そんなことないわ!」
声を荒げるクリアスに対し、飛龍はあくまで冷静な、というより優しさを含んだ声で話す。
「クリアス。だから、これは僕の意見だよ」
クリアスは、はっと我に返り、小さな声で自身の非を詫びる。
「ごめん、つい……」
項垂れるクリアスに飛龍はなおも諭すように言う。
「僕はその場にいなかったし、直接あの人と話したのもほんの少しだけだ。だから、君の方があの人をよく分かっているのかもしれない。アルジェルに対する行動も君が考えている通り、本心からの行為かもしれない。僕に言えるのはそれだけだ」
それはまさしく飛龍らしい答えだった。
これまで飛龍は、クリアスが不安とともに呈した疑問に対して、肯定的な見解を示してくれることが多かった。そして、その度にクリアスは希望を抱いて、困難に向き合うことができた。
しかし、飛龍はあくまで事実に誠実な人間だ。今までは、たまたま期待に添うような形で意見が一致していただけで、望む答えを与えてくれていたわけではない。それなのに今回はそれを期待してしまっていた。いや、期待というより甘えだった。願望に追随して欲しいという甘え。しかも他人に意見を求めておきながら、それが意に添わぬものでなかったからといって不満をぶつけるなど、不誠実極まりない行為だった。
自省の念に駆られ、クリアスは何も言えなくなる。とそこへ別方向から声が掛かる。
「俺も飛龍と同じ意見だ。だが結局のところ、あの婆さんの本心は分からないってことだ。だから今はその結論に留めておかないか?」
アインも冷徹なぐらい現実を見る人間だ。だが、その現実的な意見が今は優しくクリアスの胸に響いた。疑念を抱きつつ、あらゆる可能性を否定しない姿勢。それはクリアスを前に向かせるのに十分だった。
――今回は逆ね
クリアスは気持ちを切り替え、明るい笑みを浮かべる。
「分かった。ありがとう、二人とも」
その笑顔にアインは怪訝な表情をする。
「……俺は答えの出ないことを考えても仕方がないと言っただけだぞ? やっぱりお前、礼を言う場面がおかしくないか?」
「そんなことないって」
そうしている間に背後から大勢の足音が鳴り響いてきた。どうやら魔物の捜索に当たっていた兵士たちが返ってきたようだ。おそらくこれからその報告を元に話し合いが行われるのだろう。クリアスたちが横に避けると、狭い廊下を兵士たちが奥へと進んでいく。
「もうすぐ会合が始まるみたいだね。ちょうどいい。僕らもそこに参加させて貰おうよ」
「そんなのできるかしら? この話し合いは、アルフォワース王国とこの村の代表の人たちだけで行われるって聞いたんだけど……」
「僕らは第一発見者だから、事情を説明するためと言えば参加させてくれるんじゃないかな。それにハンナさんが村の代表なら、頼めば口利きぐらいはしてくれそうな気がする。これから僕らがどうするかを決めるのに、出来るだけ情報は集めておきたいからね」
確かに現在の状況を正確に把握するためには、会合の内容は知っておきたい。しかし、一つの気懸りがクリアスの足をその場に留めた。
「でも、私はアルジェル君と一緒にいてあげたいの。そう約束したし……」
「分かった。じゃあ、僕とアインだけで行ってくるよ」
立ち去るその背を見送りながら、クリアスは思う。
頼ってばかりなのは悪いと自覚しつつも、やはりこの二人がいてくれてよかったと。そして、改めて自分の心に言い聞かせる。決してこの機を逃してはならないと。二人に伝えるべきことはすでに決まっているのだから……。
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