クウェルセの民

「……て………きて………ねえ、起きて」

 遠くから呼びかけるような声。しかし、それがすぐ近くから降りかかるものだと気付いて飛龍は飛び起きた。

「あなた、いつもこの時間まで寝てるの?」

 鳥籠の入り口からセリアが覗き込んでいる。その背後では、朝日……というよりかなり高くなった日が浩々と輝いている。今日もこの付近だけは上空に霧がなく、季節を少し逆戻ししたような陽気が辺りに満ちている。飛龍はしばらくまだ夢の中といった感じで座り込んでいたが、次第に状況を理解し、頭を振る。

 いつもは日が顔を出す頃には起きている。それにわずかな気配や物音でも感じればすぐに目が覚める、そういう習慣が染みついているはずだった。それなのにこんな時間まで眠り込み、隣にいた人間が起き出したことにも気づかなかったことが信じられなかった。

 と、そこまで考えたところで飛龍ははたと動きを止める。昨夜はあのまま眠ってしまった。ということはセリアが起きた時も……。

 飛龍はそろりと入り口にいるセリアの様子を伺う。

「何?」

「いや……おはよう」

「もう『おはよう』という時間じゃないわ」

 素っ気なくそう答えると、セリアは晴れ渡る空へと視線を向ける。

「約束通り、昨日の場所まで連れて行ってあげる。でも、その前に食事」

 やはり態度や表情からはその心情を窺い知ることはできない。しかし、少なくとも拒絶されるようなことはなかった。飛龍はひとまず安堵し、鳥籠を出る。

 そこで食事を摂るのが常なのか、昨夜、焚火をしたところでセリアは待っていた。

 例によって腰に下げた小さな袋から、いくつか実を取り出し、その中から焦げ茶色の実を選んで割り始める。

「そういえば、昨日も使ってたけどその実は何?」

「これはボットの実。この実の中の粉は擦ると火がつく」

 セリアは昨日と同じ手順で火を熾すと、水の入った椰子の実の殻に似た器を直接火にかける。

「へえ、この植物も初めて見るよ。今、何個かの中から選んでたけど、それはどうして?」

「この実は茶色のものだけ火をつけられる。黒くなったものは火がつかない」

「そうなんだ。じゃあ黒くなったものは捨てるのかい?」

「これは別の使い道がある。黒くなった実は、そのまま火をつけるとしばらくして爆発する」

「爆発!?」

 不穏な発言に驚く飛龍にセリアは淡々と答える。

「大丈夫。大きな音がするだけ。怪我することはない」

「そ、そう……。でもそんなもの、何に使うの?」

 問われて、セリアはしばし動きを止めて考えた後、飛龍の顔を見て言った。

「あなたを起こすのには使えたかも」

 それは冗談なのか、本気なのか、飛龍にはどうにも判断できなかった。

 そうこうしているうちに器の水から湯気が上がり、芳しい香りが立ち登り始める。この器も火にかけても燃えそうにない。おそらくそういう植物なのだろう。

 セリアは器の湯を小さなカップの形をした木の器に移すと、黒い一口大の木の実とともに飛龍に差し出す。

「これは?」

「キクロの実よ。少し苦くて硬いけど、そのまま食べられるから」

「ふーん……。ありがとう、頂くよ」

 飛龍はその見たこともない木の実を眺めた後、口に含み、噛み砕く。

「うっ!?」

 次の瞬間、強烈な苦みが口の中に広がる。たまらず吐き出そうとするが、

「だめ。森の恵みを無駄にしないで」

 セリアがそれを制する。

「苦いけど栄養はあるの。五つも食べれば半日は食べなくても動ける」

 そう言ってセリアは同じものを口に含む。もう慣れたものなのか、それとも表情に出ないだけなのか、セリアはなんでもないとばかりにその実を噛み砕き、呑みこむ。

 真っすぐに向けられる柘榴石ガーネットの瞳。その妙な圧力に耐えかねて、飛龍は何とか口の中のものを水で流し込む。が、それをセリアがすかさず咎める。

「だめ。この実はちゃんと噛まないとお腹が痛くなる」

 そういうとセリアは再び黒い実を手に取り、

「ほら、食べて」

 目の前に差し出してくる。これまでの人生で初めての味覚からくる恐怖に、飛龍はたじろぎ、身を引く。

「いや、ちょっと今はお腹が空いてなくて……」

「だめ。怪我を早く治すには食事は必要」

 セリアは身を乗り出し、黒い実を顔の前に突き付ける。有無を言わせぬ諫言に飛龍は顔を引き攣らせ……そして覚悟を決めた。

 黒い実を一つまた一つと噛み砕き、呑みこむ。口の中を侵略する悪魔と戦いながら飛龍は思った。よもやこれは昨夜の無遠慮な行為に対する仕打ちなのでは……。

 しかし、そんな考えはすでに苦み以外を感じなくなった味覚とともに消し飛び、飛龍はただひたすらこの食事を終えることに専念し、口を動かし続けた――。


「私一人ならその場から飛び上がれないことはないけど、あなたと一緒だと無理」

 飛龍にとっては拷問に等しい時間が終わり、二人は断崖の上へ――あの森がある浮島イソラへ行く準備を始めた。差し当たってはセリアが飛んで飛龍を上に連れていくことになるのだが、そこに注文が付いた。

「だから、あなたが走ってるところを後ろから抱えて飛び立つつもり。でもあなた走れる?」

「肩の怪我なら問題ないよ」

 あれから再度、薬草で処置してもらい、痛みはかなり引いていた。激しく動かすのは無理だが、走るだけなら支障はなかった。

「それとその剣は背中じゃないところに着けて。でないと後ろから抱えられない」

「分かった。剣は腰に吊るすことにするよ。走る速さはどのくらい?」

「私が適当に調整するから大丈夫」

 手順が決まったところで、二人は開けた場所に移動した。

 セリアはそこで立ち止まり、眼を閉じる。すると、その背中から四枚の白い翼が生え、少しの助走とともにセリアはたちまち大地から飛び立つ。

 優雅に空を舞う白き鳥のごとく姿が旋回してくると、それに合わせて飛龍は走り出した。

 うまく息を合わせられるのか。一抹の懸念を覚えながら振り向いた時、セリアはもう、すぐ背後にいた。

 両手を伸ばしながら迫り来るその美しい飛翔に、飛龍の走る速度がわずかに緩む。降り注ぐ陽の光を受けたその姿は、地上のものとは思えぬほど神々しかった。

 そんな彼女がなぜ自分のことを悪魔などと言ったのか。あの意味深な言葉とそれを口にした時の儚げな横顔が思い出される。しかし、細い腕が伸びてきて、背後から抱きつくように脇の下に挿し入れられると、そんな疑問を置き去りにするように飛龍を大地から解き放った。

 渓谷に流れる上昇気流を捉え、さらにセリアが翼をはためかせると、見る見る高度が上がり、景色が一変する。

「肩は大丈夫?」

「うん、平気だよ。それよりもこの高さは流石にちょっと怖いかな」

 経験したことのない高度感に飛龍は正直な感想を漏らす。

「それならしっかり私の腕にしがみついて。腕だけであなたを抱えて飛ぶのは疲れるわ」

 渓谷を降りてきたときは互いに抱き合うような形であったし、下降する分、セリアの負担は軽かったのだろう。言われた通り、飛龍は脇を締めて、セリアの腕を挟むように掴む。

 と、ここに来て、飛龍はこの状況がどんな感覚をもたらすか、そこに思い至らなかった自身の思慮の浅さを痛感した。

「傷が痛むの? 顔が赤いわ」

「い、いや、さっきも言ったけど、こんな高さ初めてだから、少し怖いだけだよ」

「怖い時って普通、青くなるんじゃないの?」

「それは……時と場合に寄るんじゃないかな?」

 飛龍は曖昧に答え、お茶を濁す。一方、セリアも特に支障が無ければいいと考えたのか、それ以上は何も言わず、飛行に専念する。

 今の気持ちを悟られなかったことにほっとしながらも、飛龍は何とか顔の熱を下げようとする。しかし、意識すればするほどそれはより一層強くなるばかりだった。

 二人は今、離れないように互いに強く体を密着させている。それによって生じる背中に豊かな膨らみが押し付けられる感覚。それとともに、昨夜、身を寄せ合った時のしなやかな手触りが蘇ってきた。

 飛龍の気持ちを表すかのように二人は遥か上空へと舞い上がる。渓谷の霧の海を飛び出し、遠く小さくグランザルムの村が見えた。それこそ天上へと向かうかのように――

「ちょっと高すぎないかい?」

 異変に気付いた飛龍が尋ねる。

「昨日の男たちにはこの姿を見られたくない。だから、いないことを確認してから降りる」

 飛龍の視界には、『樹陰の浮島イソラ』とそこに広がる森が映っていた。こうしてみると村や周囲一帯は秋の衣を纏っているのに、浮島の奥の方だけは深々とした緑が茂っている。

「でも、確認するってどうやって?」

「目で見るだけ」

 村から遠い方角から森に向けて、セリアは旋回しながら少しずつ高度を落とす。そして、飛龍を抱える手の指を一本だけ挙げて、断崖のある一点を指す。

「昨日は落ちたところはあそこ。もう少し様子を見て、誰も見えなければあそこに降りる」

 そう言われて飛龍も目を凝らすが、この距離では切り立った崖は同じ景色にしか見えず、示された場所がそうなのかは分からない。それに森の中に人がいても分かるとは思えなかった。しかし、セリアは角度を変えながらしばらく旋回した後、指し示した地点に降下を始めた。

 近づいて初めて、飛龍は見覚えのある景色と岸壁に蔦が剝がれた落ちた跡を見つけた。

「君、すごく眼がいいんだね」

 山と森に囲まれた故郷で暮らしていた飛龍もそれなりに目に自信はあった。しかし、セリアの視力はまさしく鳥の目のごとく――とりわけ猛禽類のそれに匹敵するほどだった。

 昨日、二人が対峙した崖の上にセリアは静かにランディングする。辺りに人の気配はない。

 飛龍が体を離すと、セリアは背中の翼もそのままにあっさりと別れを告げる。

「それじゃ、さよなら。昨日も言ったけど、もうここには来ない方がいいわ」

 そうして飛び立とうとする背中に飛龍は反射的に叫ぶ。

「待ってくれ! まだ話したいことがある!」

 その声にセリアは広げていた翼をゆっくりと畳み、静かに振り返る。

「僕はまたここに来る。アルフォワース王国はこの森を諦めはしない。このままだと君はいつか捕まるか、最悪命を落とすかもしれない。そんなことはさせない」

「それは……あなたがそうしたいから?」

「ああ」

 飛龍は視線を逸らさず頷く。対してセリアは不意に体ごと横を向いた。

 その仕草に、変わらぬ表情の奥に――飛龍は少女に生じた心の動きを確かに感じとった。

 それは戸惑い、不安、憂い、そして悲しみ。そのいずれか、もしくはそれらがすべて混じり合ったものか。その胸の内にどんな感情が芽生えたのか、正確には把握できなかった。ただ一つ言えるのは、この少女は決して心のない人形などではないということだ。それどころか抱えきれないほど多く、そして複雑な想いを内包している。神秘的な外見とは真逆の、あまりに人間的な面が飛龍を惹きつけてならなかった。しかし、垣間見えたその想いの色に、飛龍は一番大事なものを考慮していなかったことを自覚する。

「迷惑かな……君にとっては」

 セリアが望んでいないなら、これは単なる独りよがりな行動に他ならない。答えを待つ飛龍にセリアは顔だけを向け、

「別に……あなたの好きにしたらいいわ」

 そう言った。それが本心なのか飛龍は迷ったが、ここは言葉そのままに受け取ることにした。

「必ず何か方法を考える。だからそれまでは無茶なことはしないで欲しい。あと君のその姿のことは誰にも言わない。約束する」

 先ほどセリアは、調査隊の面々には今の姿を見られたくないと言っていた。おそらく本来は共に暮らしていた仲間以外には見せるべきではないのだろう。理由は何となく分かるような気がする。そして、飛龍は感謝した。それにもかかわらず自分を助けてくれたことに……。

「ただグランザルムの村に僕の仲間が一人いるんだけど、彼にだけは話をさせてほしい。ここを守るにはきっと彼の力も必要になる。それに彼も軽々しく秘密を話す人間じゃないから」

 聞いているのか分からないぐらい、セリアは一切動き無く飛龍の話に耳を傾けていたが、最後に了承したとばかりに一つ頷く。

「それからもう一つお願いがあるんだ。この断崖に切り取られた台地をグランザルムの人……森の外の人たちは『浮島イソラ』って呼んでるんだけど、この森がある浮島と向こう側にある浮島が橋で繫がったことで、外の人たちはここへ来れるようになったんだ。君がこの森を守ろうとするなら、その橋を落とすのが一番だと思う。でもそれはしないで欲しい。もし、橋がなくなると……僕もここに来れなくなる」

 言いながら飛龍は、これもあまりに利己的な要求だと自覚せずにはいられなかった。この森を守るにはそれが最も確実な方法であることは間違いないからだ。

 御しきれない葛藤が押し寄せてくる中、セリアが答える。

「そんなことしないわ。だって、それだと私が待っている人たちもここに来れなくなる」

 その返答に飛龍は疑問を顔に浮かべた。

「でも、君と同じ種族の人たちなら、ここには飛んで来れるんじゃないのかい?」

「いいえ、彼らはクウェルセの民と呼ばれる人々。彼らに翼はないわ」

 飛龍は一層困惑した目で目の前の白い翼を見つめる。セリアが待ち侘びているのは同じ翼を持つ種族の人々だと思っていた。だが、そうではないという。それならセリアは一体どういう存在なのか。

 謎が深まる中、飛龍が見つめていた翼が向きを変える。

「もう、話すことがないなら私は行くわ」

 セリアが崖の突端に立つ。しかし、そのまま飛び立つと思われたセリアは、翼を開きかけたまま、時が止まったかのように静止した。

 背後から森の息づかいだけが聞こえる。そこへ秋風が通り抜け、金色の髪と純白の翼を揺らすと、時の流れがあるべき姿に戻ったかのようにセリアは翼を大きく広げた。その翼に半ば隠れる形で顔がほんの少しだけこちらを向く。そして――

「ありがと」

 その言葉の余韻だけを残して、セリアはあの一人だけの楽園へと飛び立っていった……。

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