二人きりの夜・二

 谷底を少し歩くと川の上流から少し騒がしい音が聞こえてきた。前方にはグランザルムの土台となる台地の壁。その岩の段差が生じたところから水が溢れ、小さな滝となっていた。その手前まで来ると、少女はある場所を指さす。

「ここで待ってて」

「えっ?」

 岩壁の前には、曲がりくねった細い幹の木々が幾重にも重なり合って群生していた。少女が指し示していたのは木々のさらに奥。飛龍が中を覗きこむと、そこにはぽっかりと丸い空間が形作られ、網目状に絡み合った幹と枝により、まるで巨大な鳥籠のように見えた。下には動物の毛皮と思しきものが置いてある。

「もしかして、ここは君が暮らしてる……」

 しかし、飛龍が振り向いた時には、少女は走り出していた。助走がついたところで、瞬く間に背中から純白の翼が伸び、それをしなやかに羽ばたかせながら空へと舞っていく。

 飛龍はその姿が見えなくなるまで渓谷の狭間を見続けた後、鳥籠へと足を踏み入れた。

 中は木々の隙間が明り取りとなり、日が差し込んでいた。しかし、天井は折り重なった葉でしっかりと雨露を凌げそうだった。中央に置かれた毛皮に思えたものは、よく見るとこれも細かい繊維質の樹皮で、厚く積まれたそれはなんとも言えない柔らかさだった。そして、部屋の壁を構成する木の枝の一つに、木の葉を束ねたようなものがぶら下がっている。何かと思い、手に取って見ているうちに、それが少女の替えの服だと気付き、飛龍は慌てて手を放した。

 ともかく待つ以外にすることがないので、飛龍は鳥籠から出て入り口の近くに座った。その目に、谷底の変哲もない、それでいて安らぎをもたらす景観が自然と映る。

 鳥の歌声に優しい水の音。頭上を見上げると、渓谷に茫洋と広がる霧の海もここだけは姿を消し、辺りは光に溢れていた。もし桃源郷という場所があればこういうところかもしれない。そんなことを考えながら飛龍は悠久を感じさせる時の流れに心を置く。

 そうして、飛龍がしばらく夢とうつつの境をさまよっているうちに、白い翼が舞い戻ってきた。小さな羽ばたきとともに地に降り立つと、やはりその翼は少女の背に溶け込むように消える。

 立ち上がり、飛龍が歩み寄ると、少女が手に何かを持っていることに気付く。それは色とりどりの果実だった。また腰には落とした弓と矢筒が戻っている。よく回収できたなと思う一方で、飛龍はその矢筒に何種類かの草木が詰められているのに気づいた。飛龍がそれについて尋ねるより早く、

「服、脱いで」

「えっ、な、なぜ……?」

 唐突な要求。その意図が掴めず戸惑う飛龍に少女は平然と告げる。

「肩、怪我してるでしょ。手当てしてあげる」

 明らかに厚意からくる発言なのだが、どことなく逆らい難い響きを感じ、飛龍はどぎまぎしながら双剣を下ろし、黒衣コートを脱ぐ。その間に少女は矢筒に詰めていた草を手近にあった石ですり潰し始める。

 飛龍が上半身をはだけると少女はすり潰した草を手に取り、赤く腫れた左肩に塗る。

「これでかなり痛みは消えるはず。でも治るわけじゃないから無理に動かさないで」

 ひんやりとした冷感が広がり、熱を持った肩から痛みが和らいでいく。一方で処置を行う滑らかで柔らかい指の感触に、飛龍は鼓動が速くなるのを感じながら、それとなく話題を振る。

「あ、ありがとう。君はここで暮らしてるの?」

「ええ」

「そうなんだ……。ところでさっき君は自分のことを悪魔と言ったけど、あれはどういう意味なんだい?」

 しかし、少女は無言のまま、飛龍の肩に包帯替わりの細長い葉を巻くと、川の方に歩き出した。そこで手を洗うと鳥籠の近くまで行き、しゃがみ込む。煤けた地面の周りには石が敷かれ、側には様々な太さの枯れ木があった。少女は細い木を中心にそれらの木を組むと、今度は木の実と丸まった綿毛を腰に下げた小さな袋から取り出す。綿毛を石の上に置き、その上で木の実を割って中の粉を振りかけると、近くにあったささくれ立った木の枝を擦り付ける。するとたちまち火花が上がり、綿毛に移ったその火を木組みの中に差し入れ、火を熾した。

 すでに辺りは暗くなり始め、気温も下がってきている。

「はい」

 服を着終わった飛龍に少女が先ほど持ってきた果実を差し出す。飛龍が礼を言ってそれを受け取ると、少女は焚火の側に座り、果実を食べ出す。飛龍もそれに倣い、腰を下ろして焚火に当たる。

「それじゃ、これだけは教えてほしい。君はどうしてあの森に人を立ち入らせないようにしているのかを」

 少女は口に含んだ果実を飲みこむと、一呼吸おいてから答えた。

「そうしなければならないから……」

「しなければならない?」

「あの森のものを持ち出していいのは私のことを知ってる人だけ。そう言われたから……」

「言われた? ここには君の他にも誰かいるのかい?」

「いいえ、もういないわ」

 表情は変わらない。しかし、炎を見つめるその瞳には、孤独と寂しさが映っているように見えた。

「ということは前はいたのかい?」

「ええ……」

「その人たちはどこに?」

「分からない。もう死んでしまったのかもしれない」

 その推量的な言い方に眉を顰め、飛龍は一つの推測を投げかける。

「……ひょっとして君は昔ここで他の人と住んでいて、君だけ戻ってきたってことかい?」

 その問いかけに少女はじっと飛龍を見つめたあと、言った。

「あなた、質問ばかりね」

「ご、ごめん……。そうだ。まず言うべきことを忘れてた」

 飛龍は頭を掻くと、慌てたように手を伸ばす。

「助けてくれてありがとう。君が空を飛べなかったら僕は死んでいた。僕は天道あまのみち飛龍。よく変わった名前って言われるんだけど、飛龍って呼んでくれたらいい。それで君の名前は?」

 しかし、少女は差し出された手を見つめながらポツリと呟く。

「また質問……」

「こ、これは質問じゃないよ。せっかくこうして話してるんだし、せめてお互い名前ぐらいは分かってた方がいいんじゃないかと……」

 少女は少し考えた後、差し出された飛龍の手を摘まむように握る。

「セリア・セラフィック」

「セリア……か。よろしく。それで君は別の場所からここに戻ってきたの?」

「いいえ、私はずっとあの森にいた」

「ずっとあの森に……」

 最後の言葉を飛龍は反芻する。少し会話が途切れたところで、今度はセリアから口を開く。

「私もあなたに聞きたいことがある。いい?」

「え? うん、いいよ」

 自分の思索に入りこんでいた飛龍は、いったんそれを切り上げ、顔を上げる。

「あなたはなぜ私を助けようとしたの?」

「それは君が空を飛べるって知らなかったからだよ。あの時は身を投げようとしているとしか思えなかったんだ」

 するとセリアは相変わらず感情を伴わない声で尋ねる。

「そうじゃない。どうして自分が死ぬかもしれないのに私を助けようとしたのかということ。私はあなたを知らないし、あなたも私を知らない」

「それは……そうするのが正しいと思ったからだよ」

「じゃあ、あの男たちから庇ってくれたのは?」

「君にも事情があると思ってね。それを聞くまでは君が悪いと決めつけることはできなかった。それに……」

 飛龍はそこで言い淀み、それから少し恥ずかしそうに言った。

「こんなこと言うと変に思われるかもしれないけど、最初見た時から君には森の香りを感じていた。森と一つになって生きているみたいな不思議な空気を……。僕も故郷は山と森に囲まれたところだから、なんとなく近しいものを感じたんだ」

 セリアの目がほんの僅かだけ見開かれる。

「それだけで自分の命を投げ出すなんて私には理解できない」

「あ、うん……まあ、そうだね」

「でも……」

 苦い顔で下を向く飛龍にセリアは続けて言う。

「あなたのその言葉は嬉しい。私はあの森が好きだから……」

 今度は飛龍が動きを止める。仮面のようなその表情の奥に確かな喜びが見えた気がした。思わずその顔を見つめているとセリアが小首を傾げる。

「何?」

「い、いや、何でもない。ところでさっきの話に戻るけど、君はずっとここにいて、あの森を守ろうとしている。それは前に一緒に暮らしていた人たちに言われたから。でも、その人たちはここにいない。もしかして、その人たちは出て行ったけど、君は一人でもその約束を守ろうとしているってことかな?」

 セリアはそれを静かに受け止めた後、やがて小さな声で呟く。

「そう約束した……はず」

「『はず』?」

「『必ず迎えに行くから、その時までこの森にいて』。光の中でそう言われた……でも、はっきりとは分からない」

 訥々とした返答の最後に付け加えられた言葉から、飛龍は一つの想像を描く。

「君、ひょっとして記憶が……?」

 そこでセリアは顔を上げ、渓谷の遥か先を見る。

「昔の暮らしや森のこと。そして、私は自分がどういう存在なのかも知っている。でもそれ以外の部分は眩しさに隠れてよく分からない」

 セリアはさらに遠くを見つめる。暗くなり、さらに霧がかかっているため見えないが、その視線の先は間違いなくあの森に向いていた。

「私は、私を知っている人たちがあの森に戻って来る。そう信じている。そして、その人たちが来たと思った。でも違った」

「……そうか、つまり君は調査隊の人間を、その待っていた人たちだと思ったんだね?」

 セリアが頷く。そこで飛龍は一つのことに思い当たった。

「君はあの森から物を持ち出してはいけないと言ったけど、もしかしてそれは『創造の花リグレッタ』のこと?」

 あの浮島イソラで見つかった価値のあるものとしては真っ先にそれが浮かぶ。しかし、

「リグレッタ? 何それ?」

 予想に反してセリアは疑問を返してくる。飛龍はまた新たな疑念を抱きながら、あの森の手前で見つかった遺跡について説明する。

「そんなの私は知らない。私が守らなければならないのはあの森だけ」

 あの遺跡はセリアと暮らしていた人々とは関係がないのだろうか。それともやはり記憶を失っているのだろうか。それは確かめようがないが、あの森に焦点を絞れば次に浮かぶのは――

「君は僕らと出会った場所で一面に咲いていた、あの薄緑色の花のことを知ってるかい?」

 その質問を唐突に感じたのか、セリアは僅かに首を傾げながら答える。

「アルビアサスのこと?」

 微妙に呼び名が違うが、まず同じものを指しているとみて間違いない。頷く飛龍にセリアは淡々と答える。

「知ってるわ。あなたの傷に塗ったのもあの花の若葉よ」

「えっ?」

 飛龍は表情を強張らせ、手当てされた左肩を押さえる。

「あれを塗った……」

 飛龍の顔に浮かぶ不安の影を見てセリアが言葉を付け加える。

「あの花は昔から薬草として使われてる。それがどうかした?」

「いや……あの花は他に何かに使ったりはするのかい?」

「あの花の若葉は水で煎じて飲めば病気の熱を下げることができる」

「それだけ?」

「そうよ。なぜあの花のことを気にするの?」

 問われて、飛龍は返答に詰まる。

「それは……あんな植物は見たことがなくてね。だから、本当に薬草なのかちょっと不安になったんだ。でも君はあの花のことをよく知ってそうだから安心したよ」

「……そう」

 その変わらぬ表情からは今の会話を不審に思ったのか、判別はつかない。しかし、セリアはそれ以上、深くは訊いてこず、つと断崖に切り取られた夜空の星々に目を向ける。

「『天の四姉妹』が高くなりだしたわ。もう眠りの時間よ。今日は私の木に泊めてあげる」

「私の木? ああ、この鳥籠みたいな君の住まい……」

 と、目を向けたところで飛龍の動きが止まる。

 あの中は、せいぜい人が二人入れる程度の広さしかない。つまり、今夜はこのセリアという少女とほとんど距離のない状態で過ごすことに……。

 しかし、セリアは火を消すと全く気にした様子もなく鳥籠の中に入っていく。飛龍はしばらく逡巡していたが、やがて躊躇いがちに腰を上げ、中に入る。この晩秋の季節に外で寝るわけにはいかない。

 鳥籠には所どころ隙間があり、月明かりが差し込んでいたが、以外なほど寒さを感じない。セリアはすでに例のふわりとした毛皮のような樹皮にくるまり、目を瞑っている。

「そ、それじゃ、僕はこっち側に寝るから」

 そうは言ったものの、残っているのはほぼ人一人分の空間しかない。飛龍は双剣を外に置き、漆黒のコートを脱いで、背中合わせになる形で樹皮の中に潜り込んだ。樹皮の毛布というべきそれは驚くほど保温性が高く、温かかった。と同時にそれ以上の温もりが背中から伝わってくる。

 艶やかな命がそこにあるという証。飛龍はそれに抗うように目を閉じる。

 刻々と夜が深くなっていく。が、飛龍は一向に寝付けなかった。一方で、背後では寝返りなのか身を捩る気配がした。

 この状況をさして気にせず、寝入ってしまったのか。むしろこっちが意識しすぎているだけなのかもしれない。そんなことを考えながら、飛龍は何となくその様子を伺いたくなり、くるりと体の向きを変える。すると見開かれた瞳とまともに目が合った。

「うわっ!!」

 驚いて身を引くが、狭い空間でその距離はほとんど変わらない。動揺を隠しきれず壁に張り付く飛龍に対し、

「そういえば言い忘れていたけど……」

 セリアは微動だにせず、目を見開いたまま平坦な声で告げる。

「もし、変なことしようとしたら容赦しないから」

 それだけ言うとセリアは再び向こう側を向く。飛龍はしばし茫然とその寝姿を見つめていたが、やがて体を小さくしながら樹皮の毛布に包まる。

 分からなかった。いったいこの少女が何を考えているのか。警戒するぐらいなら、なぜこんな狭い場所で共に夜を過ごすことを許したのか。なぜ今は無防備に背中を向けているのか。そして、その正体は何者なのか。様々な疑問が渦を巻く。

 そうしているうちに背後から寝息が聞こえ出した。今度こそ本当に寝たようだ。ほっと安堵の溜め息を吐く。と同時に急に疲れが襲ってきた。ひとまず今日のところは考えるのやめにして、体を休めようと飛龍は体から力を抜く。

 すると再び背後で動きを感じる。が、今度はそれだけではなかった。

 飛龍はびくりと体を震わせる。セリアの手が飛龍の体に回されていた。それどころか抱き枕を抱くかのように体を密着させてくる。

 鼓動が速くなるのを感じながら、飛龍は様々な想像を巡らせる。これは自分に下心がないかを確かめるための罠なのか。それとも全く別の意図によるものか。が、考えても答えはでない。

 ひたすら緊張の時間が続く。そのとき、背後で呟きが漏れた。おそらくは寝言。しかし、それを耳にした途端、飛龍は目を見開いた。

 ほとんど寝息のような小さな声。だが、そこに含まれる感情は不思議なほどはっきりと伝わってきた。

 あの森にいつか自分を知る人間が戻って来る。セリアはそれを信じて待ちわびている。この楽園のようでありながら誰もいない渓谷の片隅で、いつ来るとも分からない、いや来るかも分からない人々をたった一人で……。

 飛龍は回された手を優しく剥がし、向き直る。安らかに眠るその顔はひどくあどけなく、純粋無垢としかいいようのない愛らしさに満ちていた。

「怒られたら……その時はその時だな」

 その顔にほんの少しだけ触れたあと、飛龍は静かに腕を挿し入れ、その頭を胸に抱く。するとそれに応えるようにセリアもより一層、顔をうずめてくる。

 あまりにも心地よいその温もりと一つになりながら――やがて飛龍も訪れる眠りへとその身を委ねた……。

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