深き森の果てにて
――時はほぼ一日前。クリアスたちがアルジェルの行方を追ってシチパスの家に着いたころ。
調査隊は先日開拓した
鉈のような剣を持った冒険者が藪を断ち、道を切り開いている。その後から王国軍の兵士が続き、さらに一行の最後尾から飛龍、グラベル、シールズが続いていた。
「よう、黒助。今日はあの
「ええ、今日は別件があって……」
それが自分に向けられた声であると認識し、飛龍は答える。
このグラベルという小男は人に妙な綽名を付けて呼ぶ。しかも付ける名は、本人の気持ちは度外視でひたすら自分の感性のみで決める。飛龍は特に気にはならなかったが、同行している者の中には、無遠慮なその姿勢を快く思っていない者もいるようだった。
「そうか。あいつ、なかなか腕が立つんだろ? 動きを見てて分かるぜ。魔物が出た時の戦力として期待してたんだが残念だな。まあ、ここまで見てきた限り魔物なんていそうにない。気を付けるのがあの変な嬢ちゃんだけなら何も問題はないな」
崖の縁に残っていた足跡について、飛龍は調査隊には知らせていなかった。よって調査隊は少女が逃げ延びたものだと結論付け、それ以上の疑念は持っていなかった。
「でも、彼女は何者で、なぜこの森から人を追い払おうとしているんでしょうか?」
「そんなの俺が知るかよ。あの嬢ちゃんをエルフじゃないかっていう奴もいたが、それにしては随分やさぐれた格好をしてたしなあ」
人知れぬ森の奥にひっそりと住んでいるといわれる幻の種族エルフ。しかし、少女はエルフの特徴である尖った耳はしていなかった。さらに高潔な魂を自負するエルフが、木の葉などを使った粗末な衣服を着るというのは、どうにも伝え聞く姿からはかけ離れていた。よって、その可能性は調査隊の全員が否定的だ。
「何をしたいのかも皆目見当もつかねえが、ひょっとしたらここに何かお宝があるのを見つけたのかもしれないぜ」
「でもそれならそれを盗んで、とっくに逃げているんじゃないでしょうか?」
「すぐには持ち出せないものかもしれないぜ。あるいは未発見の遺跡を見つけたが、まだ入り方が分からないとか、そういうことも考えられる」
「はあ……」
「……なんか納得してねえって顔だな」
飛龍の気のない生返事にグラベルが不満げに唇を歪める。と、そこへ横手から声が掛かる。
「君の見立てはあながち間違いではないかもしれないぞ」
飛龍とグラベルが振り向くと、一人の若い男が、森の中に生い茂る見たことがない薄緑色の花の一つを熱心に、矯めつ眇めつ拡大鏡越しに眺めていた。
「えっと……あなたは?」
「私は王立研究所研究員ルーカス・マレルだ。調査に出立する前、自己紹介したはずだったんだが、覚えていないかね?」
飛龍の誰何に男は振り向きもせず、年の割には年季の入った物言いでそう名乗る。しかし、告げられた名に聞き覚えはなく、飛龍が隣に視線を送ると、グラベルも肩を竦め、首を振る。
「ふむ。どうやら自己紹介は僕の頭の中でだけのことだったかな? 常に考え事をしてるんで、たまに現実と思考の狭間が分からない時があってね」
ちょっと危ない人発言をするマレルは、目を丸くする飛龍とグラベルを尻目に「素晴らしい」「間違いない」などとぶつぶつ呟きながら、地面に咲く花を観察し続ける。
「それで? 俺の見立てが間違いじゃないってどういうことだ?」
グラベルの問い掛けにマレルは一しきり観察に満足したのか、拡大鏡を懐にしまいながら立ち上がり、振り向く。
「その少女の目的がこの森にある宝だということだよ。いや、森そのものというべきかな」
言いながらマレルはあたり一帯を手で指し示す。
「この森は面白いね。私でも分からない植物がそこかしこにある。それだけでも貴重な場所なのだが、極めつけはこの花だ。ここに生えているのはアルボレセンスという非常に希少な種の花だよ。薬の原料やその他様々な用途に使用されるが、滅多に手に入らないもので、我々研究者にとってはまさに宝の山といえる。つまりだ。あの少女はどこかでこの花のことを知り、独占しようとしている。しかし、これだけの大量の資源を前にどう扱っていいかわからず、差し当たって人を遠ざけようとしている、ということが考えられるのだよ」
「こんな花が?」
半信半疑といった感じで、グラベルがその一つを摘み取ろうとするが、
「こらこら! この花は貴重といっただろう。簡単に抜き取ろうとするんじゃない。ちなみに君らがこれを持って帰ろうとしても無駄だよ。このアルボレセンスは特定の環境でしか生息できない。それに然るべき加工をして初めてその価値を発揮するものだ。その製法を知らない君らが持っていてもただ枯らしてしまうだけだよ」
「そうかい。それなりに金になるなら貰っていこうかと思ったんだがな。なあ、黒助」
残念そうに花から手を放しながらグラベルは飛龍の方を向き、そこでふと眉を顰める。
「ん? どうした。そんなおっかない顔をして」
「いえ、別に……。ただ、今の話からすると、彼女の目的がこの花だってことはないじゃないでしょうか?」
その指摘にマレルは顎に手を当て、上を向く。
「ふーむ。確かに。この花の存在を知っていて、かつ欲しがるのはどこかの国の研究機関だろうけど、そんな機関ならあんな少女一人を派遣するとは考えられないしねえ」
「手に入れることが目的じゃないのかもしれないぜ」
グラベルが不敵な笑みを浮かべ、視線を先行する王国軍と王立研究所の所員に向ける。
「なあ、マレルさんよ。あんたの国、アルフォワース王国は、表向きは世界の盟主って謳われてるが、裏ではどんな風評が立っているか知ってるかい?」
その声には嘲弄じみた響きが混じっている。
「先人の残した知を集積し、この世界を更なる繁栄に導く。そういう建前で世界中の古代遺物や技術を占有する独善国家。そう嘯く奴らだっているんだぜ?」
するとマレルはそれまでの飄々とした雰囲気から一転、鋭い瞳でグラベルを見据え、反論する。
「そういう意見があるのは知っているよ。しかし、この世界により早く、より優れた発展をもたらすには叡智の集約は必要不可欠だ。それは誰かがやらねばならないし、出来るのは我が国の王立研究所をおいて他にはない。それとも君は我々以上の専門知識と技術を有する機関がこの世界のどこかにあるとでも?」
堂々と放たれた迷いなき断言。そこには自らが所属する機関が、この分野を牽引しているという揺るぎない矜持があった。
「それに王立研究所で新たに見出された知識や技術は、世界の人々に分け隔てなく開示され、還元されている。決して我々だけが利を得ているわけではない」
「ま、そうかもしれないが、要はそれを面白く思っていない連中もいるってことだ。俺が言いたいのは、そんな中には相手ばかりが得するなら、最初から無いものにしてしまおうと考える奴らもいるってことだ」
「最初から無いものに? すみません。ちょっとよく分からないのですが……」
疑問の声を上げた飛龍にグラベルが眼を向ける。その眼にはマレルとは別の異様な鋭さが宿っていた。
「飛龍。お前、焦土作戦ってのを知ってるか?」
突如、呼び名が本名に変わる。そしていきなりの問いかけ。常に見られていたどこかふざけた振る舞いは鳴りを潜め、グラベルの全身から張り詰めた気配が漂い出す。
その気配をじわりと受け止めながら、飛龍は硬い表情で答える。
「……言葉だけは知っています」
「実態は知らないってか。その謙虚さは大事だぜ。お前の年なら戦争なんて行ったことはないだろうが、焦土作戦ってのはとどのつまり、撤退時にその地の利用可能な資源をすべて焼き尽くして、敵に使わせないようにしちまうことだ。それこそ草木一本残らないぐらいにな。ぱっと聞いただけじゃ、負け犬のやけくそな行為に思えるだろうが、これが結構戦略的に有効な場合が多いらしくてな」
グラベルが何を言いたいのか、飛龍はその深奥を考え、口に出す。
「……つまり、あの少女もこの植物を手に入れようというわけではなく、アルフォワースに渡さないようにすることが目的だということですか?」
「さあな。ただ、そういう考えもあるってことだ。本当のところは本人に聞くしかねえけどな」
その話にマレルが不快そうに顔を歪めるが、グラベルは相変わらずの掴みどころのない笑みを浮かべるのみ。
と、その時、それまでその巨体をどこに隠していたのか、と思わせるほど静かだったグラベルの相棒――シールズが太い指で前方を指した。その先では冒険者たちと王国軍の兵士が何かを取り囲んで話し合っている。
「おっ、何か見つかったか?」
それを見るや、グラベルは先ほどまでのねっとりとした気配は嘘のように、いつもの軽い調子でその輪へと駆け寄っていく。その後を相棒のシールズものっそりと追う。
その様子にマレルは毒気を抜かれたようにぽかんとしていたが、小さく息を吐くと、気を取り直したように皆のところへと歩き出す。が、飛龍はその場に立ち止まったままだった。
グラベルが話した内容、そして一瞬見せたあの翳のある表情。それは何かを暗示している気がしてならなかった。しかし、考えてもその意味するところには辿り着けそうにない。
その思考に区切りをつけ、飛龍が皆の元に歩み寄ったときには、マレルが男たちの輪に割って入り、その中心にいたもう一人の王立研究所の研究員に話しかけているところだった。
「カーサリー、それは何なんだい?」
「分からん。こんなものは見たことがない。私の専門は古代の遺物とその文明に関することだからな。ここは君に任せる」
カーサリーと呼ばれた男が場所を開けると、そこには奇妙な物体が転がっていた。
「なんだこりゃ?」
グラベルが素っ頓狂な声を上げる。それに対し、マレルが冷静に呟く。
「ふむ。一見すると何かの植物の実に見えるね。しかし……」
それは二つに割れた胡桃の殻に似たもので、中はがらんどうで空だった。だが、問題はその大きさだった。
「なんか人一人ぐらいなら入れそうだな」
グラベルの呟き通り、その殻は人がすっぽりと中に納まりそうなほど巨大だった。
「これと同じものは他にあるかい?」
マレルが調査隊の面々に問いかけるが、皆、首を振る。
「何かの実にしてはこれ一つだけというのは不思議だねえ。それにこれだけ大きいと樹上に実るとは考えられないし、かといって地面から生えているわけでもない。いやはや謎だ! こんなに次々と未知の発見があるともう少しここにいたくなるじゃないか!」
マレルが巨大な殻の中を覗き込みながら独り言ちる。が、その言葉尻が飛龍の注意を惹いた。
「『いたくなる』? ひょっとして近いうちにどこかに行くんですか?」
「ああ、私は三日後に『
「『創造の花』と一緒? ということは『創造の花』が公開されるのは明後日までということですか?」
「そうだよ。たぶん今日の展示場でその通達がされているはず。ひょっとして君はまだ見ていないのかい? それならあと二日しか
『創造の花』の確認はアインに任せてあったが、やはり自分の目でも見ておきたかった。そうと聞けば明日は見に行くしかないと、今後の予定を立てながら、飛龍が天蓋のように広がる樹々に頭を巡らせた、その時、
「現れたぞ! あの女だ!」
冒険者の一人が声を上げた。その指さす先には、いつ間にそこにいたのか、あの不思議な少女が高い木の上に立ち、全く感情の伴わない顔でこちらを見下ろしていた。
飛龍は改めて少女を見る。背丈は女性としては高い方で飛龍より少し低い程度。ふんわりとした金色のショートボブが外にはねている。そして、その色のない表情の中で、
王国軍の兵士と冒険者たちが一斉にそれぞれの獲物に手を掛ける中、堂々とした威風を放つ一人の偉丈夫が前に出る。
「私はスクラス・ハミルトン。アルフォワース王国の狗牙隊長でこの調査隊の指揮をとっている。まず君は何者だ? そして、先日、なぜ我々の調査の邪魔をしようとした?」
厳つい、まさしく軍人然とした声が樹々の間に響き渡る。
「あなたたちにはこの森から出て行くように言ったはず」
少女はハミルトンの詰問には答えず、抑揚のない声でそう告げる。
「なぜ、我々がここへ立ち入ってはならないのだ?」
「ここはあなたたちの場所じゃない」
「我々の場所ではない? ここは君の所有地だとでもいうのか?」
「いいえ、森は誰のものでもない」
少女は静かな声で話す。
「私のものでもなければ、あなたたちのものでもない。ただそこにあって、等しく恵みを与えてくれる場所……」
その瞬間、飛龍は痺れるような感覚を覚えた。驚くほど自然に胸に滑り込んで来たその言葉に、この少女の何に自分が感応しているのか、その実態が見えた気がした。
一方、少女の凪いだ声に対し、ハミルトンは厳格な口調のまま告げる。
「自然崇拝者か。だが、この土地はラナル国に帰属するものであり、今は我々アルフォワース王国が管理権を譲渡されている。つまり君が先住民でもない限り、法律上、この土地の権利は我々にある。もし君が再度我々の妨害をすると言うなら、法に則り捕縛対象とする」
しかし、その威圧的な声にも一切怯んだ様子もなく、少女は淡々と話す。
「あなたは私が誰だか知ってる?」
全く嚙み合わない会話にハミルトンが渋面を作る。
「? 何を言っている。だから先ほどからそれを訊いているのだろう?」
「私もあなたを知らない」
「私が誰かはさっき名乗っただろう?」
訝りと呆れが混在した表情でハミルトンが嘆息する。それを少し離れたところで眺めていたグラベルが隣の飛龍に囁く。
「おいおい、こいつはいよいよもって気が触れてんじゃねえか? 言ってることが全く理解できねえぞ」
しかし、飛龍はそうではないと感じていた。少女は何らかの意思に沿って行動している。その秘められたものが見えないだけ……。
「あなたたちは私を知らない。それにあなたたちからは争いの匂いがする。それならやっぱりあなたたちはここに入ってはいけない人間」
そういうと、少女は腰に下げていた弓を手にし、矢を番える。緊張が高まり、王国軍の兵士と冒険者たちがそれぞれの武器を身構える。
「そうか。あくまで我々の邪魔をしようというのだな。だが、この人数に対し、そんな貧相な弓で一体何が……」
風を切る音がハミルトンの耳を突く。その音を認識するよりも速く、一筋の軌跡が耳元を通り抜けた。背後を振り返り、地面に刺さったその矢を見てハミルトンは瞠目する。
少女の弓矢はあり合わせの木と蔓を使った粗雑なものに見えた。だが、その威力、精度ともに十分な殺傷能力を備えており、それを使う少女の技量も王国軍の兵士のそれを遥かに凌駕していた。
「次は当てる」
少女は淡々と次の矢を番える。ハミルトンは一瞬の衝撃からすぐに我に返り、自身も剣を抜き、その切っ先を少女に向け、叫んだ。
「あの娘を捕らえろ!」
二人の兵士が弓を構え、冒険者たちが少女の立つ木の根元へと走り出そうとする。しかし、それより速く飛龍が前に走り出て、両手を広げ、押し留める。
「待ってください! 彼女には何か理由があるようです! もう少し話を聞いてみましょう」
その提言をハミルトンは明確な拒絶の意志をもって一蹴する。
「すでにあの娘は我々に対し、武力による威嚇を行った。もはや酌量の余地はない。何を考えているかは捕えて聞きだせばわかることだ」
先ほどの一矢はハミルトンに最大限の警戒心を引き起こしていた。
「飛龍といったな。お前は少女だからといって甘く見ているようだが、この地は『
そう言い放つとハミルトンは剣を振り翳す。それが合図とばかりに二人の兵士が矢を放った。少女はそれを木の陰に隠れてやり過ごすが、明らかに致命傷をも厭わない攻撃だった。
「ハミルトンさん!」
飛龍の抗議にハミルトンは一瞥のみを送り、少女を見据えながらいう。
「お前は我々に雇われている身だろう。ならば命令には従ってもらう。もしあの少女を傷つけたくないというなら、お前がそうならないように捕えてみせろ」
「そういうこった」
横にいたグラベルが唇の端を上げながら、得物の手斧をくるりと回す。
「自分の立場を忘れるなよ。受け取ったものの分だけ、俺たちは義務を果たさなければならない。それに押し問答している暇はないんじゃないか?」
その意味を飛龍が理解するより早く、重い衝撃音が木霊した。
見ればシールズがその巨躯を鎚と化して、少女が立つ木に体当たりしていた。大人の胴ほどの太さもある重く強固な木。それを揺るがすほどの恐るべき膂力だった。
枝がうねり、木の葉が舞い散る。体勢を崩した少女は落ちるすんでのところで別の木に飛び移った。そこへ王国軍の弓矢が飛ぶ。さらに――
「はあっ!」
シールズが両腕を組み、そこに乗ったグラベルを跳ね上げると、快哉に似た声と共にその体が宙を翔ぶ。それはまさしく飛翔で、一気に少女に迫ったグラベルは空中で手斧を投げつける。
少女は器用に枝から枝へと飛び移り、手斧と王国軍の矢を辛うじて避けるが、徐々に高度を落とし、ついには地面へと降り立った。そこへ冒険者たちが追いすがる。劣勢を見て取ったのか、少女は背を向けて森の奥深くへと向かう。
「逃がすかよ」
グラベルが手斧を回収しながら獲物を追い詰める猟犬のごとく、低い姿勢で走り出す。
「くそっ!」
その後を飛龍も追う。こうなればハミルトンの言う通り、誰よりも先に少女を取り押さえるしかない。大地を蹴り、複雑に張る木の根を飛び越え、行く手を塞ぐ木々の間を抜ける。王国軍や冒険者を次々と追い越していく飛龍にグラベルが口笛を吹く。
「あいつ、速えな。それにこうした場所に馴れてやがる」
風のごとく森を縫うように走り抜けるうちに、少女の背がはっきりと見えてきた。それは文字通りで、少女の衣服は背中の部分が全く覆われておらず素肌が曝されている。一矢でも受ければ重傷は負うことは間違いなかった。
徐々にその姿が大きくなる。少女も複雑な森の地形には馴れているようだったが、足の速さでは飛龍には及ばない。迫り来る飛龍に気付いた少女は振り向きざまに矢を放ってくる。
「待ってくれ。君に危害を加えるつもりはない!」
矢を躱しながらも飛龍は速度を落とさず追い続ける。
その時、不意に視界が開けた。森を抜けた先には先日と同じ断崖絶壁。ここがこの
その少女に飛龍は両手を広げて歩み寄る。
「さっきも言ったけど僕は君を傷つけるつもりはない。話し合いたいだけなんだ」
感情の見えない表情からは少女がどう受け止めたかは分からなかった。しかし、さらに強く引き絞られた弓からは明らかに拒絶の意志が伝わってくる。
それでも飛龍は近づく。互いの距離があと数歩にまで縮まり、矢が放たれれば躱すのは不可能な距離となる。そこで飛龍は足を止めた。
「これ以上は近づかない。話をするには十分だからね」
腕を下ろし、力を抜く。その無防備な姿に少女が構えた矢尻の先が少し下がる。それを見て飛龍は微かに口元を緩める。
「やっぱり君は無闇に人を傷つける人間じゃ……」
「いたな。あそこだ」
低い声が響き、ようやく追いついてきた王国軍の兵士と冒険者たちが森から出てくる。武器を構え、融和的な気配を微塵も感じさせない男たちに少女は再び矢尻を上げた。
互いに引かぬ両者の間で、飛龍は少女に背を向け、庇うように両手を広げる。
「武器を下ろしてください。彼女は無駄な争いは望んでいません」
言いながら飛龍は背後にも声を掛ける。
「君も弓を下げるんだ」
しかし、少女は取り合わず、飛龍の肩越しに男たちに照準を定める。そんな飛龍に囃すような声が飛ぶ。
「おいおい、黒助が
グラベルの軽口を無視して、飛龍はハミルトンに話しかける。
「ハミルトンさん。ついさっき、彼女は僕と話す意思を見せました。ですから手荒なことはやめてください」
呼び掛けられたハミルトンは前に出てきて、厳しい顔のまま答える。
「そうか。その少女が抵抗しないというなら我々もそうする。ただ話は村に帰ってからだ。我々に矢を放った理由が納得のいくもので、身元も確認できたのなら処罰は軽い拘禁のみで済ませよう。ただし、この森には二度と立ち入らないでもらう」
「ハミルトンさん、それでは彼女は受け入れられないでしょう」
「まさかこれ以上譲歩しろと? さっきも言ったが法的には完全にその少女に非があるのだぞ?」
折れる気配のないハミルトンに歯噛みする飛龍。その後ろでぽつりと呟きが上がる。
「あなたと違って、あの人たちとは話ができるとは思えない」
飛龍が首だけを向けると、少女は矢を腰の矢筒に納め、弓も紐で腰のあたりに結わえ始める。それを見たハミルトン以下、調査隊は少女が観念したものと判断し、わずかに気配を弛緩させる。しかし、飛龍は先の呟きと相反する行為に嫌な予感を抱いた。そして――
「あなたたちに私は捕まえられない」
その声が後ろに遠のく。次の瞬間には、少女の体は崖の向こうの中空へと投げ出されていた。
「よせ!!」
間一髪で飛龍がその腕を掴む。だが、勢いを殺しきれず、少女とともにそのまま崖下へと投げ出される。
「黒助!」
グラベルが駆け寄り、濃い霧が揺蕩う深い谷を覗き込む。そこに見たのは片方の手で崖に張り巡らされた蔦を掴み、何とか落下を食い止めた飛龍の姿だった。
「脅かしやがるぜ。しゃあねえな。ほれ、掴まれ」
グラベルが持っていたロープを素早く腰に結わえ、それをシールズが掴むと、崖から身を乗り出して手を伸ばす。
飛龍はその手に少女の手を渡そうとする。が、思わぬ抵抗に右腕が持ち上がらない。見れば少女が崖の蔦を掴み、その行為を拒絶していた。そのまま、少女は言う。
「放して、あなた死ぬわよ」
この期に及んで、その声は平静そのものだった。戸惑いに一瞬飛龍の動きが止まる。だが、すぐにより一層の力を腕に込める。今の言葉は明らかに飛龍の命を案じたもの。自分本位な人間なら決して口にしない言葉。
「そんなことできない。馬鹿な真似は辞めるんだ」
「大丈夫。私は死なないから」
それは冷然というより確信に満ちた発言に聞こえた。そのことが飛龍に一つの推測をもたらす。この少女は何か助かる術を用意しているのではないか。そうであるからこその落ち着きであり、崖に身を投げたのも考えあってのことなのでは……
しかし、その思考を掻き消す、不吉な音が左手から伝わってきた。弾かれたように振り仰ぐその先で、掴んでいた蔦がゆっくりと岩壁から剝がれつつあった。
「早く! 上へ!」
だが、少女は頑なに首を振る。もはや猶予はない。飛龍は少女が抗う以上の力で強引にその体を引っ張り上げる。
するとくぐもった悲鳴が上がった。その声に飛龍が視線を下に向けると、細い手首に食い込んだ自身の指、そして、苦痛に歪む少女の顔が見えた。
初めて見えた感情の発露。飛龍は思わず手を止める。だが、その間隙が仇となった。
「飛龍!」
その叫びを聞いた時にはすでに遅かった。蔦が一気に剥がれ落ち、魔の手が伸びてきたように重力に引き寄せられる。空中に投げ出されると同時に飛龍は反射的に少女を抱きしめた。直後、突き出た岩が体を打ち、視界が回転する。
そのまま白く果てし無い幻想の霧の海へ……二人の姿はもつれ合うように沈んでいった――
凄まじい空気の流れが耳元で唸る。飛龍は少女を抱きかかえ、いつ果てるともしれない霧の海を落ちながら必死に思考を巡らせていた。
――岩壁に引っ掛けられるものはない。地面に着く直前に『神威空間』を発動させれば衝撃を受け止められるか? いや、障壁は僕らの動きを止めるわけじゃない。発動させても地面に叩きつけられるのと変わらない。せめて下が川であったなら……。
霧は次第に薄くなり、谷の底が――死という終着点がぼんやりと姿を見せ始める。
と、凄まじい速さで景色が動く中、飛龍の眼は眼下から迫る黒い影を捉えた。それは崖から突き出るように生えた一本の木だった。
この速さでは、たとえしがみついても木か腕のどちらかが折れるだけだということは分かっていた。それに滑落した直後、岩壁から突き出た岩で左肩を打っている。だが、助かるためにはこれに賭けるしかない。飛龍は少女を右腕で抱え、左腕を伸ばす。
しかし、まさに掴もうとしたその時、その木が逃げるように遠のいた。それどころか横に聳えていた岩壁すらも離れていく。そこで飛龍は気づく。離れているのは自分たちだった。そして、あれほど目まぐるしく動いていた景色も緩やかな下降に変わっている。
事態を理解しきれぬ中、飛龍の視界にふわりとした白いものが目に入った。それは純白の羽毛。振り仰いだその先で飛龍は信じられないものを見た。
二対、計四枚の輝くような白い翼。それが少女の背中から生え、天蓋を覆うように広げられていた。少女に抱かれ、腰にしがみつく体勢となっていた飛龍は、茫然とその姿に見入る。
翼は的確に気流を捉え、優雅に滑空を続ける。いつの間にか霧は晴れ、渓谷の底に流れる青い川とまばらに生えた草花が見えてくる。そこは余計な雑音のない静謐な空間で、地の底なのに天上世界の一端に思えるほど美しかった。その輝く景色の中へ二人はふわりと降り立つ。
飛龍が腰に回していた手を離すと、少女は数歩歩いて静かに目を閉じる。するとその背の翼が体に吸い込まれるように消え去った。
「君は……」
立ち尽くす飛龍をよそに、少女は腰のあたりを気にしていた。どうやら弓を落としてしまったらしい。矢筒もなくなっている。少女はそれを確認すると飛龍に言う。
「今日はあそこには戻れない。明日になったら崖の上まで連れて行ってあげる。でも、もう上の森には来ないで」
しかし、その言葉も半分に飛龍は少女に見惚れていた。雲間から差し込む陽光の中にあって、その姿は辺り一帯の自然と調和し、輝く新緑のような瑞々しい美しさに溢れていた。飛龍は言いかけた言葉の続きを口にする。
「君は……もしかして天使なのかい?」
すると、少女はちらりと飛龍を見て、それから感情のない声で答えた。
「いいえ、私は悪魔よ」
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