天使と悪魔

霧に浮かぶ村グランザルム

 赤や黄色に橙、そして、残った緑の葉が陽の光を通して、明るい風景画となって頭上を覆っている。

 霧に満たされた渓谷、その卓上の台地の頂にある村、グランザルムへと続く美しい道をゆっくりと堪能するように……とはいかず、息も絶え絶えに歩む少女がいる。

「ちょっと……何が……少し登ればすぐに着く……道なのよ……」

 山道を歩くのに全く適していない魔法学園エルザの学生服を着た少女、クリアス・ベンジェアンスは、目の前にいない人物に不満をぶつける。

 出立する前、麓の街レゼントの冒険者ギルドでこの道を聞いた。各地域の地理に最も精通しているのは、その地域の冒険者ギルドというのが定説だからだ。

「グランザルムの村へは麓まで乗合馬車が出てるよ。そこからは少し登りになるけど、すぐに村がある台地の頂に着くさ。大した距離じゃないよ」

 受付にいた樽のような体型をした中年男性は、血色の好い朗らかな笑顔でそう言った。しかし、実際は、歩き始めてもうかなりの時間が経っており、汗を吸った服が肌に張り付いている。

「ひょっとして、大した距離じゃないって冒険者の基準で話してたのかしら……」

 これまで冒険者ギルドなど興味本位で覗いたことがあるぐらいで、情報を尋ねたことなどはなかった。それに自分が冒険者ではなく、ただの魔法学園の一生徒であることも告げていなかった。そう考えると、受付のおじさんを責めるのは間違いで、むしろ自身の認識誤りが原因と思えてきて、クリアスは自責の念に駆られる。

 木々に覆われているため、終着点である頂上は見えない。果たしてあとどのくらい距離があるのか。予測不能な先行きに不安が込み上げるが、今から引き返したのでは、もう最終の乗合馬車に間に合わない。そうなれば森の中で夜を迎えることになり、一層の恐怖に襲われることになる。

 腹を括り、森の中を蛇行する急登を重い足を上げて登り続ける。すると突然視界が開け、谷を隔てた台地の上にぽんっと置かれたような村が見えた。ついに到着、と思いきや、

「こっ……、ここを渡るの!?」

 村の入り口に掲げられた看板、そして、目の前に広がる光景にクリアスは眩暈を覚える。

 ここグランザルムは浮島イソラと呼ばれる、渓谷に分断されたいくつもの卓上の台地から成り立っている。そして、この浮島イソラは、そのほとんどがこの渓谷固有のハミラン蔦という植物が絡み合って形成された『生きている橋』によって繋がれている。この橋が形成されるに至った由縁は、このグランザルムの台地の組成が関係している。

 大きな樹がほとんどないこのグランザルムの台地は、脆い石灰質の岩盤から成り立っている。そのため、橋を架けるための渡しとなるロープを対岸に打ち込んでも、重量に耐え切れず、落ちてしまう。そこで村人は先のハラミン蔦を使うことにした。渡しとなるロープに蔦を這わせ、対岸まで伸ばさせる。この蔦は岩盤に辿り着くと、蔦の途中から根を伸ばして岩盤の奥深くまで入り込み、容易には抜け落ちなくなる。よって、あとはこれを繰り返せば、人の重量にも耐えられる天然の橋が出来上がるというわけだ。もちろん、もっと手間をかければ他にいくらでも方法はあるのだが、この村ではこの方法がもはや伝統となっている。

 ただし、その吊り橋だけでは物資の運搬などには不便なため、村の主要部には、それとは別に木組みの橋が架けられている。対岸に渡ることさえできれば、しっかりと支柱を台地に打ち込んで橋を建造することが可能だからだ。

 この村の入り口にもそうした木組みの橋があった。だが、現在は改築中で通行が不可となっている。つまり、今は自然の力によって作られたこの『生きている橋』を渡るしかない。

「ほんとに大丈夫なの……?」

 クリアスは恐るおそる蔦の橋に手を掛けた。

 対岸へと導く吊り橋は蔦が幾重にも絡み合い、頑丈そうには見えるのだが、そこかしこに足ぐらいなら通り抜けてしまいそうな隙間がある。そして、吊り橋であるため、当然揺れる。

「ひーーっ!」

 泣きそうな声を上げながら、クリアスは必死に蔦を掴みながら、橋を渡る。

 グランザルムの渓谷には、ほぼ一年を通して霧が発生しており、霧の中に浮かぶ台地が雲上に浮かぶいくつもの島々に見えることが『浮島イソラ』の名の由来となっている。

 眼下には、渓谷という裂け目に綿を置いたがごとく、真っ白な霧が揺蕩っている。ただ、その分、高度感はそれほど感じられず、恐怖心を少し和らげてくれているのは救いだった。

 恐怖と戦い、白い渓谷を何とか渡り切ると、クリアスはその場にへたり込み、吊り橋を振り返る。

「これって帰りもここを渡らなきゃならないのよね……」

 憂鬱な気分になりながらも立ち上がり、前を向く。こんな大変な思いをしながらもここに来たのは、それなりの目的があるからだ。

 魔法学園エルザの特別研修制度を利用し、失われた太古の魔法――『理の魔法』の謎を解明するため、その研究者がいるというレゼントの街を訪れていたのだが、そこで流れてきたのが、このグランザルムで『創造の花リグレッタ』が発見されたという話だ。

『創造の花』――現代の技術では創り出せない超常的な力を宿す古代遺物。その能力は魔力を源として発動するものが多いが、発動条件は様々で謎に満ちている。しかし、『創造の花』すべてに共通して言えることは、その能力が何であれ、世界に多大なる恩恵をもたらす可能性を秘めているということだ。

 そして、その発見された『創造の花』が期間限定で一般に公開されるとの噂が流れてきた。何でもその存在を広く世間に周知することで、主に冒険者を対象に古代遺物の探索の気運を高めようというのが狙いらしい。

 ともあれ、その『創造の花』を見るため、クリアスは急ぎ、レゼントでの調査を終え、この村を訪れたのだ。

「それじゃ行きますか」

 自分自身にそう言い聞かせ、クリアスは歩み出す。

 村の中央に位置する浮島イソラはこの村で一番広く、『実りの浮島イソラ』と呼ばれ、その名の通り、その中央部には最盛期を迎えた葡萄畑が広がっている。また、村の主要部もこの浮島に集まっており、『創造の花』もこの浮島のどこかで展示されているらしい。

 村の入り口がある南側から葡萄畑を西側に迂回して進んでいくと、葡萄畑を挟んで右手側に大きめの浮島があり、学校らしきものが見えた。そして、左手に見える浮島には、なぜかここにだけ鬱蒼とした森があり、そこへ伸びる長い吊り橋とその前に立つ兵士と思しき二人の人間が見えた。そこが何なのか、クリアスは興味を惹かれたが、まずは事前に聞いた情報を元に村の中心部を目指すことにする。

 歩き続けると、再び左手に別の浮島が現れる。何気なしにそちらを眺めていたクリアスだが、ふと吊り橋の向こうに見えた光景に足を止め、次の瞬間には駆け出していた。

「ちょっと! 何してるの!」

 対岸にまばらに生える細い木々の木陰。そこから見え隠れしていたのは、三人の男の子が、もう一人の同じぐらいの年頃の子に向かって石を投げつけている光景だった。

 恐怖も忘れて橋を渡り、クリアスはその間に割って入る。突然の乱入者に面食らう男の子たちを強い眼差しで牽制すると、石を投げられていた子の元に駆け寄り、身を屈めてその顔を覗き込んだ。

「あなた、大丈……夫?」

 その子は泣きながら額を押さえて蹲っている。この子がいじめられていたことは明らかだが、クリアスが一瞬、口籠ったのは、その子への接し方に迷ったからだ。

 年の頃は十一、二歳ぐらい。あまりに愛らしく整った顔立ち。それを引き立たせる輝く瞳は宝石のような紫水晶アメジスト色。瞳より少し薄い色の髪はクリアスと同じように肩まで伸ばされ、服は筒形の布をそのまますっぽり被ったような簡素なローブ。つまりは、その容貌から、クリアスはその子が男の子なのか女の子なのか判別がつかなかったのだ。

 しかし、クリアスは気持ちを切り替え、立ち上がる。この子の性別がどうであろうと関係ない。言うべきことは決まっている。

「あなたたち、今この子に石をぶつけてたでしょ!? どうしてそんなことするの!?」

 少年たちに向かって毅然と𠮟りつける。その剣幕に三人組のうち、二人の少年が一歩引き下がる。しかし、リーダーと思われる赤髪の少年はその場に留まり、反発的な態度を示した。

「お姉ちゃん。誰だよ?」

「私が誰であろうと関係ないでしょ。それよりもこの子に謝りなさい。あなたたちが悪いことをしていたのに変わりはないんだから」

「何も知らないくせに口出すなよ。悪さをしたのはそいつの方なんだからな」

「悪さ? どんなことを?」

 尋ねながらクリアスは、ふと、そういえば前にもこんなことがあったなと思い出す。

 数か月前。とある港街で品性賤しい冒険者たちに絡まれていた男の子たちを助けに入った。今の状況はあの時とそっくりだ。

 クリアスは思わず周囲を見回す。ともすればあの時出会った二人が現れるのではないかとの予感を覚えたのだが、運命の神様はそれほど気前良くはないようだった。

 辺り満ちる静かな気配に、クリアスはちょっとした落胆を覚えていたが、赤髪の男の子の声が現実に目を向けさせた。

「そいつは俺の家から学校への近道になる吊り橋を燃やしたんだ」

「橋を燃やした?」

「そうだよ。この村じゃ橋は一番大事なものなんだ。それを燃やしたんだから、本当ならこの村を追い出されてもいいぐらいなんだ!」

 グランザルムでは、橋がなければそれぞれの台地への行き来ができなくなる。当然橋は村人にとって重要なものに違いない。

「本当にそんなことをしたの?」

 クリアスは件の子を振り返ると、その子は首を振りながら弱々しい声で言った。

「僕は……そんなことやってません」

 その返答からクリアスはようやくその子が男の子であることが分かった。

「この子はやってないって言ってるわ」

「いや、絶対そいつだよ。そいつしかいないんだ」

 妙に断定的な言い方にクリアスが眉を顰めると、赤髪の男の子はさらに言い募る。

「その日は新しい浮島イソラで見つかった『創造の花リグレッタ』ってのが村の集会所で展示される日で、村の人間はみんなそこに集まってた。その間に橋が燃やされて、集会所にいなかったのはお前だけ。だからお前がやったに決まってる!」

 村人にとっては、その正確な価値が分からなくとも、村で発見された宝に等しいものを見たいと思うのは普通だろう。ただ、それならば――

「君は見に行かなかったの?」

 クリアスの問いに少年は額を押さえたまま三人組の方を見る。

「あの子たちが来ちゃだめだって言ったから……」

「お前には見る資格なんかないんだよ!」

 後ろに控えていた一人が叫ぶ。その邪険な態度を横目で見ながら、クリアスは一度視線を下げて思案し、再び尋ねる。

「君もこの村の子よね? それならその日『創造の花』が公開されて、村の人が見に行くって知ってたのよね?」

「うん……」

「ほら! やっぱりそいつしかいないじゃないか!」

 赤髪の少年が勝ち誇ったように顎を仰け反らせる。しかし、対照的にクリアスは冷静に告げた。

「それは逆よ。今の話が正しいなら、この子は犯人じゃないわ」

「ど、どうしてだよ!?」

「だって、そんなあからさまに自分にしか疑いが掛からないような状況で悪さなんてしないんじゃない?」

 クリアスの主張に初めてそのことに思い当たったのか、後ろの少年二人は、はっと口を噤む。しかし、赤髪の少年だけはその意見を一笑するように言い放つ。

「それは火を付けるときにはそこまで考えつかなかっただけだよ。そいつ馬鹿だから」

 その乱暴な理論にクリアスの胸に苛立ちの火が灯る。が、すぐに冷静になるよう自分に言い聞かせる。以前、不用意な発言をしたばかりに、無用な騒ぎを起こし、周囲に迷惑を掛けてしまったことがある。同じ轍を二度踏むわけにはいかない。一つ息を吐き、これまでの会話で推察できたことを整理し、赤髪の少年に向かってゆっくりと、しかし、しっかりとした声で言う。

「でもこの子がやったところは見ていない。それに証拠もない。そうなんでしょ?」

 その指摘にはさすがに赤髪の少年も言葉に詰まる。

「それは……あの時はみんな集会所にいたから……」

「そうよね。それならやっぱりこの子を犯人と決めつけるのは間違いじゃないの?」

 徐々に旗色が悪いのを察し始めたのか、後ろに控える二人はもはやおよび腰になっている。しかし、赤髪の少年はなおも意地になって言い返してくる。

「でもそいつは嘘を吐いて色んな人に迷惑もかけたんだ。そんなやつ、疑われて当然だ!」

 もはや単なる難癖にしか聞こえないが、少年の言葉に引っ掛かりを覚えて、クリアスは聞き返す。

「嘘ってどんな?」

 すると赤髪の少年は、憎しみを込めるように紫水晶の髪の少年を睨みつける。

「魔物を見たっていうんだよ。あの新しく行けるようになった浮島イソラの近くで。そんなのいるはずないのに」

「……魔物?」

 クリアスはどきりとする。クリアスにとって、それは決して遠い存在ではなかった。

「嘘じゃない! 僕は見たんだ。シチパスさんの家からあの浮島の上を黒い翼をした何かが飛んでいるのを」

「嘘つけ! 結局その後、魔物を見たって人はいないじゃないか。おかげで新しい浮島の調査は一時中断されて、村の人たちは今も不安がってる。結局お前は村の人間に逆恨みして、嫌がらせをしたかったんだろ」

「そ、そんなこと……」

「もういい、行こうぜ。こんなやつ、きっと近いうちに追放されるさ。第一――」

 赤髪の少年は取り巻きの二人に立ち去るよう促しながら、子どもとは思えない、湿った眼光を紫水晶の髪の少年に飛ばす。

「化け物なのはお前の方だろ」

 ――化け物?

 不意に出たその不可解な言葉に困惑し、クリアスはしばし立ち尽くしていたが、立ち去っていく少年たちの姿に我に返り、声を上げる。

「ちょっと待ちなさい。あなたたち、まだこの子に謝っていないわよ!」

 すると赤髪の少年が立ち止まり、冷ややかな視線をクリアスに送る。

「お姉さん。あなたは何も知らないだろうけど、そいつは石をぶつけられるぐらいなんでもないんだ。何せ化け物だからな。そうやって泣く振りしてても明日にはピンピンしてるぜ」

 それだけ言い捨てて、赤髪の少年は他の二人を伴って、振り返りもせず立ち去っていく。

 再度発せられた「化け物」という言葉。それが胸の中を引っ搔くように残るが、クリアスはそれを意識の隅に置き、紫水晶の髪の少年の手当てを優先することにした。

「君、大丈夫? この村ってお医者さんいるの? いるなら連れていくわ」

 屈みこみ、手巾ハンカチを差し出すが、少年は額を押さえながら、どこかクリアスに対しても怯えるように身を引く。

「いえ、大丈夫です。これぐらい平気ですから……」

「だめよ。頭の傷なんだから、ちゃんと処置した方が……」

 しかし、その額に伸ばした手が硬直する。少年の手と額の間から滲み出た血。その血は本来の血の色に少年の髪の色を混ぜたような赤紫色。その事実が頭の奥底に眠っていた一つの知識を呼び起こす。

「あなた……半魔族……」

 その呟きに少年は驚愕と恐怖を顕し、弾かれたように駆けだした。

「あ、ちょっと……!」

 クリアスはその背に向かって手を伸ばす。しかし、その手はそのまま動きを止めた。少年はクリアスが来た吊り橋を渡り、走っていく。

 少年が立ち去った先に広がる葡萄畑。黄金色の輝きの中、どこか哀愁漂うその光景をクリアスは立ち尽くしたまま、ただただ見つめ続けていた。

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