襲い来る危機
「ねえ、エノラおばさん、シスターは大丈夫かな?」
ウィルが炊事場で夕食の用意をする恰幅のいい婦人に話しかける。その浮かない表情にエノラ婦人は明るく笑いかけた。
「大丈夫だよ。彼女は間違ったことをする人じゃない。警察隊に行ったのは、きっと一昨日の騒ぎのことでまだ話すことがあったからさ。たぶん、もう少ししたら帰ってくるよ」
ただ、エノラ婦人も内心はただならぬ事情が発生したのだと察していた。婦人はフィールを自助する人間だと思っていた。そんな彼女が二日続けて子供たちの世話を頼むのも初めてだったし、何より「子供らを頼みます」といった時のフィールの目が何かの覚悟を秘めているように婦人には見えたのだ。しかし、そんなことを言って子供らを不安がらせる必要などない。
「さあ、みんなも呼んで夕食を運ぶのを手伝っておくれ。今日は私特製、クコの実を使ったベッカフィーゴだよ」
「……うん!」
ウィルも婦人の快活な笑顔にいつもの元気さを呼び起こし、他の子供たちのところへ向かおうとする。その時、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「何だか外が騒がしいねえ。ここ最近は嵐もない穏やかな日が続いてたっていうのに……」
言いながらエノラ婦人は勝手口の扉を開け……そこで信じられないものを目にした。
黄昏れる路地の中央。そこには一人の女性の喉笛を咥え、こちらを見つめる異形の生物の姿があった……
街を南北に貫く中央通り。混乱する人々の間を縫うように、フィールは疾風のごとく駆け抜けていた。途中、数人の警察隊員が魔物と交戦しているのが見えた。だが、そちらに加勢しに行く余裕はない。ただ子供たちの無事を祈り、肉体の限界も気にせず走り続ける。
見慣れた子供たちとの住まいが見えてきた。だが、その前には和やかな生活にそぐわない異質なものがあった。
一人の女性の遺体。その喉は無残に食いちぎられていた。一瞬だけ足を止めるが、すぐに顔を上げる。建屋の勝手口の扉。それが少しだけ開き、明かりが漏れている。フィールは戦慄く手でゆっくりと扉を開け、その中にあって欲しくないものを見つけた。
「エノラさん……」
茫然と変わり果てた姿となった隣人に歩み寄る。血に塗れた全身には何かで切り刻まれたような傷が無数にあった。その残酷な姿にフィールの胸の中でさらなる悲劇の予感がのそりと鎌首を持ち上げた、そのとき、
「きゃあああっっ!!」
悲鳴が響き渡る。礼拝堂の方からだった。
もはや思考を介さず本能で体が反応する。外へ飛び出し、礼拝堂の扉を開け放つ。踏み込んだその先には、祭壇の傍に追い詰められ一塊になった子供たちと、彼らに迫る人のような五体を持ちながらそうとは思えぬ異形の生物。
魔物が身構えるより早く、フィールは駆けた。手近にあった簡易の椅子を掴み、体の軸を中心に回転しながら振り回し、それを魔物の頭部に思い切り叩き付けた。耳障りな悲鳴を上げながら魔物が吹き飛ぶ。止まらず、フィールは柄の長い燭台を掴み、跳躍すると、全体重を乗せてその先端を魔物の異様に大きく赤い目に突き刺した。
絶叫が礼拝堂に響き渡る。魔物が暴れ、その腕を振り回すと、鋭い爪がフィールの左肩を切り裂いた。しかし、フィールが力を緩めることなく、さらに渾身の力を込めて燭台を深く突き刺すと、その先端が頭部を貫き、魔物は絶命した。
その体から力が抜けていくのを見て、フィールはようやく燭台から手を離した。そして、顔を上げ、子供たちを確認する。
一番手前にいたのはウィル――しかし、その目はフィールを見ていなかった。
瞬時に反応し、フィールは横に跳んだ。刹那のタイミングで元居た場所を残光が切り裂く。フィールの髪を一つに纏めていた紐が千切れ、薄暗い礼拝堂の中で青い煌めきが舞った。
フィールはすぐに体勢を立て直し、もう一体の魔物と対峙する。その魔物は手足が長い猿のような姿で、その手からは異様に長い、刃物のような爪が伸びていた。
体の一部に凶器を携えた敵に対抗すべく、フィールは周囲を見回す。だが、武器になるものは見当たらない。そして、魔物は思考する時間など与えてはくれなかった。
奇声を上げながら魔物が突進してくる。正面から向かってくる相手に対し、フィールは一度後ろに下がる振りをして、捨て身でその懐に飛び込んだ。数本の髪を切り飛ばされながら、体重を乗せた肘打ちを喉笛に見舞う。魔物の動きが止まったところでその腕をとり、背負い投げると、魔物の体は宙を飛び、祭壇の横の壁へと叩き付けられる。
ひとまず最初の攻撃は凌ぎ切った。しかし、倒れ伏す魔物を見て、フィールは目を見開く。祭壇には子供たちがいる。そして、起き上がろうとしている魔物の眼はそちらに向けられていた。
「させない!!」
フィールは全身の力を使って長椅子を持ち上げ、自分ごと
苦悶の叫び声が上がる。しかし、動きを封じただけで魔物はまだ生きている。フィールは必死で押さえ込むが、魔物は今にも抜け出そうとしていた。その先には恐怖に怯え、身を寄せあう子供たちがいる。このままでは子供たちが――
その時、フィールの視界にあるものが映り込んだ。青銅でできた見慣れた姿。あの優しい笑みを湛えた地母神像がすぐ近くに転がっていた。
「うああああああああっっ!!」
フィールはそれを掴むと修羅のごとく形相で魔物の頭部を殴打した。
ひたすら殴り、擲り、撲る!
その返り血と飛び散る脳漿を浴びながら、フィールは魔物の悲鳴が消えても手を止めず、その頭部を粉砕し続ける。
ようやく手を止めた時には、魔物の首から上は原型をとどめていなかった。
「はあっ…はあっ…はあっ…………」
肩で息をし、もはや脅威でなくなったそれを見ていたフィールはふと我に返り、顔を上げた。
互いにしがみつく様に固まっていたのは、ウィル、ファッシュ、ミュート、ジェレミー、ルーテル、そしてメリッサ。
よかった、全員いる!! 一人も欠けることなく無事な姿を見て、フィールは目を潤ませる。女神像を手放し立ち上がると、愛しき子供たちの方へ一歩、歩み寄る。だが――。
「やっ……やだっ……!」
ルーテルの掠れるような声。その態度を理解できず、フィールは他の子供たちを見る。すると、どの子の目にも同じものが浮かんでいた。明確な恐怖、そして拒絶。
その時に至って、フィールは血と肉か何か分からないものに塗れた自身の様相を知る。同時に、彼らと自分の間に決して元に戻すことのできない亀裂が生じたことを悟った。
「フィールさん!!」
飛龍とアインが駆け付け、礼拝堂へと入ってくる。
凄惨な光景を見回したあと、飛龍はフィールに目を向けた。俯くその顔にはほどけた髪がかかり、どこを見ているのかわからない。しかし、少なくとも子供らの方を向いてはいなかった。
フィールの肩の傷を見て、飛龍が歩み寄る。
「フィールさん、傷は大丈夫な……」
「飛龍さん、この魔物たちの出現は、おそらくあの男の仕業ですよね?」
不意に質問が重ねられた。飛龍は歩みを止めた後、表情を硬くして答える。
「おそらくは……。魔物が突然街中に出現するなんて、何らかの作為的なものとしか思えない。そして、それを実行できる可能性を持つ人物は現状では一人しか考えられない」
飛龍の返答にフィールは一つ頷くと、祭壇の方へと歩き出し、その前で身を屈めた。
フィールが祭壇を触ると何かの仕掛けがあったのか、その一面が扉の様に左右に開く。その中には黒い紐――フィールが言う細かい鎖を繋げた武器と黒の装束、そして二振りの剣があった。フィールはそれらを祭壇に置くと、飛龍たちが見ているのも構わず、修道服を脱ぎ、黒の装束を身に纏い始めた。ただし顔は頭巾で覆わず、その白磁のような肌についた魔物の血を脱ぎ捨てた修道服で拭い、どこからか取り出した紐で髪を再び一纏めに後ろに括る。次いで腰に二振りの剣を佩き、最後に二本の鎖を両手に装着すると、腕を振るいその手に巻き付かせた。
フィールが着替え終わった直後、外から馬の嘶きが聞こえた。
「アイン! 飛龍! シスターと子供たちは!?」
シュウが二人の隊員を引き連れ、入ってくる。その後ろからクリアスも礼拝堂に足を踏み込んだ。その全員が礼拝堂の様子、そして、フィールの姿を見て絶句する。
「いったい何が……」
クリアスが掠れた声で呟く中、飛龍がフィールの前に立つ。
「何をするつもりですか?」
「……あなたならもう分かっているでしょう?」
そう答えるフィールは別人のように冷めた目をしていた。飛龍はそれをただ無言で見つめ返していたが、そこへ横手から声が掛かった。
「おい、これを見てみろ」
アインが目を貫かれて息絶えた魔物の傍らに立っていた。飛龍とシュウ、そしてクリアスも恐るおそる傍に歩み寄る。
「これは……」
飛龍が眉を顰める。魔物の頭部から流れ出した血。それが徐々に赤い霧となり、空気中に漂い出していた。その不可思議な現象を前に、クリアスはあることを思い出す。
「そういえば、魔物の血って空気に触れるとすぐに蒸発してしまうって聞いたことがあるわ。死体もそのうちに跡形もなく消えてしまうって……」
その説明の通り、魔物の屍体はすでに腐敗が始まっているのか、暗い色に変色し始めていた。返り血が残っていたのか、フィールの体からも赤い霧が立ち昇っている。
「それよりもこっちだ」
アインが指さしていたのは魔物の遺骸、その左腕だった。その腕には異質な肌にそぐわない鈍い光沢を放つものが嵌っている。クリアスはそれをどこかで見たような気がした。それからもう一度凝視し――思わず小さく声を上げ、後ずさる。
「こ、これって……」
それは銀の腕輪だった。子供たちに絡み、クリアスに危害を加えようとしたあの冒険者が身に着けていたもの……。
「では、こいつは、元はあの冒険者だというのか!?」
シュウが叫ぶ中、飛龍、アイン、フィールはそれぞれに険しい顔つきのまま、腕に食い込むように残るその腕輪を見ていた。
クリアスは人を魔物化するという常軌を逸した研究を今の今まで信じ切れていなかった。だが、その恐怖が具現化したものを目の当たりにし、否が応にも現実だと認めさせられる結果となった。同時に犠牲になった冒険者たちに対し、深い同情の念が湧き上がる。
あの冒険者たちは決していい人間とは言えなかった。その粗暴さにクリアスは恐怖を感じさせられたもの事実だ。しかし、だからと言ってこんな残酷な最期を迎えていいとは思えなかった。彼らが最後に何を感じ、どのような無念さを抱いていたか。それを思うとクリアスは胸が締め付けられるような息苦しさを感じた。
「隊長!」
重苦しい空気の中、一人の隊員が飛び込んできた。その隊員はシュウの元まで来ると敬礼し、現状を報告する。
「街に現れた魔物はその数は少なく、間もなく鎮圧できそうとのことです。それには隊員の奮闘もありますが、冒険者の中にその駆除に協力してくれた者がいたことが大きいようです。隊員には重傷を負った者はいるものの、幸い死者は出ておりません。ただ、住民には少なからず犠牲者が出ているようですが……」
「そうか……、協力してくれた冒険者にはあとで謝礼を出すと伝えろ。隊員は引き続き街を捜索し、残存する魔物がいないか確認するように」
指示を受けた隊員は「はっ」と敬礼するとすぐさま礼拝堂を出ていく。その後ろ姿をなんとなく見送っていたクリアスは不意に表情を曇らせた。
窓の外で何かが揺らめいている。この街は南に向かうにつれてなだらかな登り坂となって傾斜しており、揺らめきは高台となっている街の南側に見えた。
クリアスは窓に近づいて目を凝らし、それが何かを確かめた途端「あっ!」と声を上げた。
街の一角から火の手が上がっている。この混乱の最中では、何かの原因で火事が起きても不思議ではない。だが問題はその場所だった。炎が見えるのはちょうど博物館がある場所に見える。もしそうであったとしたら、このタイミングで異変が起きるなど偶発的なものとは思えなかった。
クリアスの横でそれを確かめたシュウが即座に隊員に向かって声を上げる。
「私はすぐに博物館に向かう! お前たちは……」
指示を出そうとしたシュウはそこで言葉を切る。目の前にフィールが立っていた。その瞳は昏い青色に塗りつぶされている。
「シュウさん、警察隊であの子たちを預かってくれませんか?」
懇願であるにもかかわらず、その声はひたすら無機質だった。
「しかし……」
「お願いします」
有無を言わせぬその一言に、シュウはもはや何を言っても無駄だと悟った。
「……分かった。しばらく警察隊で預かろう。別の馬車を迎えに来させる」
「ありがとうございます」
礼を言い、フィールは礼拝堂を出る。最後まで愛しい存在を振り返ることはなかった――。
警察隊の馬車に揺られながら、クリアスたちは博物館に向かっていた。教会に隊員を残してきたため、手綱はシュウが握っている。クリアスはちらりと皆の様子を伺う。
話すべきことはあるはずなのに、なぜかそうするのが当たり前のように、誰も口をきかなかった。街は戒厳令が発令されたためか、いつもの喧騒が嘘のように静まり返っている。その静けさがより一層、沈黙を重く感じさせる。
教会を出た直後、遠目に見えていた火の手は、今は他の建物に隠れ、状況は分からない。
やがて博物館がすぐそこまでというところまで来ると、闇に包まれた空に朱が差し始めた。そして、瀟洒な建物の全容が見えてきたところで、全員が目の前に広がる光景に言葉を失う。
どこからか失火したという次元ではなかった。博物館は一階を中心に炎に包まれている。戒厳令の最中、魔物の危険も厭わず駆け付けた消防隊が必死に消火活動をしているが、火の勢いは収まる気配がなく、焼け石に水といった感じは否めない。状況を聞くため、シュウが消防隊に歩み寄っていく中、クリアスはその傍に一人の見知った顔を見つけた。
「いったい何が起きたんですか?」
声を掛けたのは臨時で受付をしていたあの学芸員の男性だった。
「ああ、君らか。どうもこうも見ての通りだよ。帰ろうとしたら戒厳令の鐘が鳴ったんで慌てて博物館に籠ったんだ。そしたらどこからか急に火が出て、あっという間にこの有様さ」
男性は両手を広げて、投げやりな感じで言い放つ。その男性に飛龍が尋ねた。
「では、あの中にはもう誰もいないんですね?」
飛龍は確認の意味でそう言ったのだが、男性はなぜか責められたかのようにたじろぐ。
「あ、ああ……あの
「えっ!?」
その自信無さげな物言いにクリアスの心臓が早鐘を打つ。あの
「それ、どういうことですかっ!? レベッカがあの中にいたんですか!!」
詰め寄るクリアスに男性はしどろもどろに弁解する。
「い、いや、夕方ごろ、あの娘が帰ってきたんだけど、まだやることがあるとか言って部屋に戻っていったんだ。それで俺が受付に残ったんだけど……。でも、さすがに部屋にいたら窓から助けを呼ぶとかするだろ?」
クリアスはその軽薄な推測に憤りを覚えながら叫んだ。
「見たんですか!?」
「な、何を?」
「彼女が出てきたところをです!!」
「い、いや……」
博物館には裏口などはなく、出入りできるのは受付がある正面入り口しかない。火事に気づいたのは少なくとも一階にいたこの男性の方が早いはず。レベッカが出てきたのならこの男性が見ていないはずはない。
クリアスは燃え盛る博物館を振り仰いだ。すでに火は三階部分も飲み込もうとしている。しかし、その中にはまだ完全に炎の手が及んでいない部分もある。その一つが、レベッカが寝泊まりしている部屋だった。
きっとその部屋を見据え、クリアスは走り出す。いや、走り出そうとして――何かに腕を繋ぎ止められた。痛みを伴う右手の先を見るとアインが手首を掴んでいた。
「どこへ行く気だ?」
「あの中にレベッカがいるのよ!! 助けに行かなくちゃ!!」
「落ち着け。あの女があそこにいるとは限らない。その男が気付かないうちに出て行ったのかもしれない。それにお前が行ったところで何ができる?」
「でも、いるかもしれない! それに私が使える魔法の中に火を消すことのできる魔法があるの! うまく使えばレベッカの部屋までたどり着けるはず!」
もちろんそれをこの場で使えばこれまで隠してきた秘密が周囲に知られることになる。しかし、そんなことはどうでもよかった。この場で守るべきものはもっと大事なものだ。
だが、アインは掴んだ手を離さない。
「『うまく使えば』? だとしたら使い方を間違えればどうなるんだ?」
クリアスは唇を結ぶ。クリアスが使おうとしていた『
それでもクリアスは前を向いた。
また何もできずに親友を失うかもしれない。そんなのは絶対に受け入れられなかった。それに彼女と違い、レベッカがあそこにいるなら間違いなく命の危機に瀕している。それを黙って見ているなどできない。
「いいから放して!」
必死に掴む手を振りほどこうとする。だが、アインの手はまるで鋼鉄の枷のようにびくともしなかった。
「クリアス、アインの言う通りだよ。それにもしあそこに残っていたとしたら、残念だけど手遅れだ」
飛龍が落ち着いた声で話しかける。その声に顔を上げると、先ほどまで外観が見えていたレベッカの部屋もすでに炎で覆われていた。
非常時にあってもこの二人は感情でなく、理性でもって状況を判断する。しかし、クリアスにとっては、今はその冷静さが憎らしく思えた。
ほとんど泣きそうになりながら、クリアスは燃え行く博物館を見つめていた。悲嘆に暮れ、その場に膝をつく。舞った小さな火の粉がその顔に、体に降り注ぐ。
と、そのとき、消防隊が活動する喧騒の中から、異質な声が飛んできた。
「クリアス?」
はっと顔を上げ、声の主を探す。振り向いたその先には、いつもと変わらぬメイド服に身を包んだ少女の姿があった。
「レベッカ!!」
駆け出し、その体に抱きつく。頬と頬が擦れ合い、少し癖のある柔らかい髪から仄かに甘い香りを感じる。それは確かに彼女が生きているということを実感させた。いきなり抱き着かれたレベッカは初め戸惑っていたが、やがてそっとクリアスの背に手を回し、微笑む。
「ありがとう。わたしのこと心配してくれたのね……」
「当り前じゃない。でもほんとに無事でよかった」
抱き合う二人の元へ飛龍とアインも歩み寄ってくる。
「無事でよかったです。ひょっとしてまたどこかに出かけていたんですか?」
飛龍が尋ねると、レベッカは「また?」と疑問符を顔に浮かべた。事情を知らないレベッカに、クリアスは朝、博物館を訪れたことを伝えた。
「そういうことなの。いえ、帰ってきてからは部屋の中で休んでいたんだけれど、そのうち何かきな臭いなあと思ってドアを開けたら、もうもうと煙が上がってて……。それで火事だと分かって飛び出したの。もうほんとに死ぬかと思ったわ」
ということは戒厳令の鐘にさえ気づいていなかったのだろうか。どこかふわふわした言い方にクリアスは呆れながらも、レベッカらしいなと苦笑する。
「……そうですか。なんにしろ怪我も無いようでよかったです」
「ありがとう。……ところであの人は?」
レベッカが目を向けた先には、馬車の横で一人佇むフィールがいた。黒装束が闇に溶け、その髪と瞳だけが炎の光を反射して妖しく輝いている。ただ真っすぐに焼けゆく博物館を見つめるその表情からは何を考えているかは分からない。
「……ごめん。今は詳しくは話せないの」
「そう……分かったわ」
事情があることを察してくれたのか、レベッカは深くは聞かず、そう答えた。
そこへ消防隊から話を聞き終えたシュウが戻ってくる。
「燃え方からして、十中八九、これは放火だろう。誰が行ったかといえば……」
そこまで言いかけて、シュウは口を閉ざす。その視線の先にはレベッカがいた。目的は不明だが、おそらくこの博物館の炎上はラウルセンの仕業に違いない。しかし、部外者である彼女の前で、それを公言するのを躊躇ったのだ。
「……ともかく、一刻も早くラウルセンを探さないとな」
「館長さんを探しているんですか?」
レベッカが不思議そうに尋ねる。もちろん普通に考えれば、博物館が炎上したことを責任者であるラウルセンに伝えるのは当然のことだ。しかし、この場で唐突にその名を挙げられれば、奇異に思っても不思議ではない。
「ああ、この火事のこともあるし、別件でも彼には尋ねたいことがあるんでな。そういえば今日、館長は急用とやらで博物館を空けたらしいが、お前は行き先に何か心当たりはあるか?」
「はあ、今日の予定は何も聞いていませんが、出発の準備でもしていたのかもしれませんね」
「出発?」
シュウが眉を顰める。
「はい、館長さんは近々船でどこかへ出かける予定だって聞きました。たぶん研究のことで王都セントフォンティーナに行くつもりなんじゃないでしょうか」
それを聞いた途端、シュウの表情が険しいものに変わる。クリアスはシュウが何を考えたのか、容易に想像がついた。出航の準備、それは逃亡を意図しているのではないか。
「……だとしたらもはや猶予はない。港に向かうぞ!」
シュウの掛け声に飛龍たちが頷き、馬車に乗り込む。クリアスもそれに続こうとするが、
「待って、クリアス」
その足をレベッカが止めた。彼女には珍しく、その表情は浮かないものだった。
「……もし、危ないことになりそうだったら、すぐに逃げてね」
クリアスは一瞬目を見開き、憂うように揺らめく柚子葉色の瞳を見つめた。
レベッカはおっとりとした面はあるが、決して愚鈍ではない。今の短い話の中で何かただならぬことが起きていることを察したのだろう。クリアスはそんな友人に笑いかける。
「大丈夫。シュウさんも飛龍たちもついているし、たぶんそんなことにはならないわ」
そう言って馬車に乗り込むと、すぐにシュウが手綱を振るい、馬を走らせる。
遠ざかる景色の中、見送るレベッカにクリアスは軽く手を振る。レベッカも物憂げな表情の上に小さく笑みを浮かべ、手を振り返す。そうしてクリアスたちの姿が見えなくなるまで見送った後、レベッカは港の方へと目を向け、ぽつりと呟いた。
「本当に……気をつけてね」
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