昔日の記憶

――十二年前

うら寂れた住居の入り口にある小さな階段。その両脇の錆びた鉄柵に寄り掛かるようにして一人の少女が腰かけていた。少女は目を落としていた本からふと視線を上げ、通りを眺める。

貧民街と呼ばれているが、ここには貧しい人間だけでなく、それなりの身なりの人間も行き交っている。だが、逆にそれが如実に貧富の差を浮き立たせていた。薄汚れた服に穴の開いた靴を履いた小さな男の子。その向こうを上品な縫製の煌びやかな衣服を着た女性が颯爽と歩いていく。

この差はどこで生まれたのか。その原因ははっきりしている。この国の為政者が打ち出した施策は悉く愚策で、それまで一定の水準で暮らせていた多くの国民が貧困に喘ぐことになった。利を得たのは一部の人間だけだった。貧困は人々の生活を蝕み、さらにそこへ流行り病が死の風のように街を吹き抜けると、満足に治療のできぬ人々は次々と世を去った。少女の両親もその犠牲となり、天涯孤独の身となった少女は、浮浪児としてこの貧民街で暮らすこととなった。

考えても詮無きことを考えてしまい、少女は小さく溜め息をつき、本に目を戻した。その本は、生前両親から貰い、唯一手元に残ったもの。少女はこの本を大切に肌身離さず持っていた。本に綴られた言葉には、少女にとって難しいものもあったが、この本はそういった語彙に注釈がついており、ページの下方に書かれた説明を見れば、内容は問題なく理解できた。

本は一人の少女の半生を描いた空想物語。両親の顔も知らぬ少女は、陰湿な育て親の虐めに遭いながらも、決して悲嘆にくれず、人として正しい道を歩もうとし、努力を積み重ねていく。そのうち少女は、自分が人間ではなく、ある特殊な力を持った種族であることを知り、故郷を探す旅に出る。少女は旅先で奴隷市に売られそうになったり、特殊な種族である少女の血に永遠の若さを保つ力があると信じる部族に命を狙われたりと、幾度となく危険な目に遭う。だが、それまでの少女の正しい行いを見てきた人々の助けによって、その危機を乗り越える。そして、最後は楽園とも思える故郷に辿り着き、本当の両親とも再会し、幸せになるという話だ。

幾度となく読んだ物語の最後のページを読み終え、少女はふうっと、大きく息を吐く。

「何度読み返しても…………」

本の表紙を閉じ、タイトルを指でなぞる。

「…………ほんと、クソみたいな話ね」

少女は吐き捨てるように言った。

本を書いた人間は、人は正しく生きれば幸せになれるということを説いたいのだろうが、あまりに頭の中がお花畑で笑うしかなかった。特に、物語の主人公が危機に陥った時、それまで主人公と関わった人間が、自分の身が危険に晒されることも厭わず手を差し伸べるのだが、現実にそんなことはあり得ない。人間は常に自分が可愛い。余裕のある人間がちょっとした施しをすることはあっても、命の危険を冒してまで他人を助ける人間などいるはずがない。

少女がこの本を大事に持っているのは字を覚えるため、そして、それによって生きるのに必要な知識を得るためだった。貧民街の子供は当然学校には通ってはおらず、読み書きのできない子供などざらにいる。その中で頭の悪い人間といい人間なら、当然後者の方がよりいい仕事にありつけるからだ。

しかし、貧民街の身寄りのない十二歳の少女にまともな仕事など回ってくるはずもない。少女が受け持つ仕事、それは盗みだった。この貧民街には、浮浪児となった少年少女を使って盗みの仕事をさせる胴元がいる。その胴元は金目のものがありそうな家を探してきては、子供らに盗みをさせ、持ってきた盗品を闇市で売り捌き、得られた収入の一部を子供らに渡す。少女はそうして日々の糧を得ていた。仕事がない時は、その辺りの店から食べ物を盗み、または人の財布を掏って命を繋ぐ。そんな生活だった。

一人の少年が近づいてきて、少女に話しかける。

「おい、フィール。バーナムさんが呼んでるぜ。どうも仕事らしい。一緒に行こうぜ」

フィールは顔を上げた。バーナムとは先に出た盗みの仕事をさせる胴元の男の名。話しかけてきたのは、同じ浮浪児であるザッカという少年だ。フィールは鬱陶しそうにザッカを見た。

事あるごとに絡んでくる二つ年上のこの少年はどうやらフィールに気があるらしかった。しかし、フィールの方にその気は更々なかった。生きていくだけでやっとのこんな場末で色恋沙汰など、フィールには馬鹿のすることか、現実逃避の一手段としか思えなかった。そんなものに付き合う気は毛頭ない。

「……今行く」

短く答え、本を懐にしまう。秋風に晒された本は思ったよりも冷たかった。


元は裕福な家族が住んでいたであろう空き家の地下室。割と広い空間を薄暗い角灯ランタンが照らす中、とても清潔には見えない顎髭を生やした巨漢の男――バーナムが、十数人の子供たちを前に偉そうに踏ん反り返っていた。

「今日の仕事は特別だ。実はある人からの依頼で盗みを行うんだが、もし、これに成功したら一人頭、三サーンをお前たちにやろう」

子供らはみな驚き、色めき立った。サーンとはこの国の通貨で最も高い単位。三サーンあれば三か月は食いっぱぐれることはない。沸き立つ子供らの中で、フィールも表面上は喜びを表す。だが、心の中では数多の疑念と警戒心が沸き立っていた。

――依頼って何なの? そんな仕事これまでなかった。それに私たちにそれだけくれるということは、直接話を聞いているこいつはもっと貰っているはず……そんな大金をどうして……。

フィールはさらに考える。

――盗んだものと引き換えに報酬をくれるということは、依頼した人間はそれを売る気ではないはず。そんな大金を払ってまで手に入れたいものって何? 何より盗みを実行するのは私たち子供。依頼をした人間はこのことを知っているの? もし知っているならどうして私たちなんかに……?

しかし、バーナムは、フィールがそんなことを考えているとはつゆとも気づかず話を続ける。

「だが、この話は重要な分、失敗はできない。だからこの仕事を任せるやつは厳選する」

子供らの間から不満の声が上がった。せっかく大金がもらえる仕事なのに機会チャンスすら与えてもらえないのでは不平等だ。自分にこそやらせて欲しい。そう訴える子供らだが、バーナムが「文句がある奴は今後仕事をやらんぞ!」と怒鳴ると、水を打ったように静まり返った。

バーナムは鼻を鳴らしながら子供らを睥睨すると、一人ひとりを端から眺めた。

「この仕事を任せるのは、フィール、ラウル、アルベルト、ザッカにする。特にフィール。お前は頭がいいし、機転も利く。期待しているぞ」

そういってバーナムは、お世辞にも上品と言えない笑い声を上げる。他の子供らの不満と妬みの視線を受けながら、フィールは「はい」とだけ答えた。その裏に暗い本音を抱えて。

自分が選ばれるのは分かっていた。これまでの仕事で失敗と呼べるものはなかったし、常にバーナムの機嫌を損なわないように振舞ってきたのが大きい。

ただ、最近、バーナムから向けられる視線が妙に粘っこく、不快に感じるときがあった。

ここ貧民街には男を相手に商売する女がいる。彼女らがどういうことをしているかも大体わかっている。もしかするとバーナムは、自分がもう少し成長した時、そういった仕事をさせる気なのかもしれない。あるいは己自身の欲望のために囲い込む気なのかもしれない。そんなことは死ぬほど嫌だったが、生きるためには受け入れざるを得ないときが来るのだろうという諦念が心を縛る。

先に見えるのは常に出口のない闇。暗鬱な気持ちを抱えたまま、フィールは仕事の内容にただ耳を傾けていた……。


黒い煙のような雲が月を覆い隠す夜。住宅街のとある邸宅に四人は忍び込んでいた。

この家の住人は元貴族だったらしいが、それが先の政府の失策により財産の大半を失い、ここに移り住んでいるという。だが、それなりに住居は屋敷といっていいほど立派だった。

治安の悪化を考慮してか、窓にはすべて鉄柵が嵌められており、そこから侵入はできなかった。ただ、大体こういった家にはおあつらえ向きの抜け穴がある。案の定、邸宅の裏手に簡素な鉄枠で塞がれた通風孔があり、大人は無理だが、子供なら何とか通り抜けられる大きさだった。四人は鉄枠を外し、その隘路を通って中に侵入した。

依頼はこの家から指定された、ある箱を盗むというものだった。その箱は、子供が持てるほどの大きさで、蓋に天使のような翼の生えた女性が描かれているらしい。そして、依頼主の話によると、今夜、屋敷の人間は家を空けるとのことだった。

フィールはこの話に抱いた疑念とそこからくる嫌な予感を振り切れないまま、慎重に家探しを進めていた。盗みを任された四人は、二階建ての家のうち一階をラウル、アルベルト、二階をフィールとザッカが受け持つことになった。

忍び込む前、一番年長のラウルが、

「俺たちはチームだ。だから、それぞれが役目を果たすんだ」

と言って結束を促し、配置を決めたのだが、それをフィールは内心、鼻で笑っていた。

――何がチームなんだか。こいつもこの仕事の胡散臭さに気づいてる。だから、もし、何かあったときに逃げやすい一階を選んだに決まってる。

しかし、フィールにとってはむしろ好都合だった。昼間のうちに少し離れた空き家からこの家を下見した時、二階の角の部屋に、大事なものがしまわれてそうなキャビネットが見えたのだ。闇雲に探すよりは少しでも当たりをつけていた方がいいに決まっている。

フィールはまっすぐその部屋に向かった。バーナムは他に金目のものがあれば盗んできてもいいと言っていたが、この仕事に関しては長居をする気はなかった。

キャビネットは施錠されていたが、鍵自体はあり触れたもので、針金さえあれば開けるのは容易なことだった。

「あった。これだわ……」

狙い通り、目的の箱はそこにあった。手に持った小さな篝火を翳すと、丸く弧を描く蓋の上に翼を広げた天使が姿を現す。目当てのものを見つけたのだから、本来ならすぐに立ち去るべきなのだが、フィールは何かに引き寄せられるかのように箱の蓋に手をかけた。箱に鍵はかかっていなかった。中には緩衝用の布に埋もれるように、封がされた小さな小瓶と手帳のようなものが入っていた。手帳を開くと、中に書かれていたのは見たこともない字で内容は全く分からなかった。

これにどれほどの価値があるのかは分からない。だが、少なくとも自分にとっては三サーンの価値があるものだ。余計なことは考えるべきではない。そう自分に言い聞かせ、フィールは持ってきた小袋に箱を入れ、身を翻す。だが――

「誰なの? あなたは」

一歩踏み出した先でフィールの足はその場に縫い留められる。部屋の入り口に角灯ランタンを手にした一人の老婆が立っていた。

――今夜、家の住人は出払うと言っていたはず。話が違う!

反射的に逃げ道を探す。しかし、部屋の窓には鉄柵があり、出入り口は老婆の立つ扉のみ。他に道はなかった。ならば、もう強引に突破するしかない。この老婆ならおそらく――、

しかし、その決断までに生じた一瞬の逡巡を思わぬ声が衝いてきた。

「それを盗んでどうするのですか?」

フィールは困惑した。盗人が家に入ったというのに老婆は大声を上げるわけでもなく、逃げるでもなく、毅然と話しかけてくる。そして、部屋の入り口の明りをつけると、ゆっくりと中に入ってきた。

フィールは押されるように後ろに下がる。か細いその体は、突き飛ばせばすぐに倒せそうなのにそれができない。逆に見えない何かに押しやられている感覚にフィールは恐怖した。

「もう一度聞きます。それをどうするのですか?」

責め立てるような声がさらに体の自由を奪う。しかし、その恐怖を払い除けるかのようにフィールは小さく、しかしあらん限りの意思を込めて言った。

「売るのよ。これを売ってお金をもらうの。私が生きるために!」

事実とは多少異なっていたが、最後の言葉は真実だった。そうだ。これまでも、今も……こんなことをしているのは生き延びるためだ。

「それは魔を司るもの。手にするからにはその身に災禍が降りかかることを覚悟しなければなりません。あなたはそれを分かっているの?」

老婆の言葉をフィールははっきりとは理解できなかったが、何かを警告されているのだということだけはわかった。

「事情は分からないけど……」

と、夜の静寂しじまと同化するように佇んでいた老婆は不意に笑顔を浮かべ、

「あなた、ひどく疲れた目をしているわ。そんなものより、あなたに必要なのは温かいお茶じゃないかしら。クッキーもあるわよ」

その細い手を差し出してくる。

フィールはより一層、混乱の渦に呑まれた。これは自分を油断させるための罠か、もしくはこの老婆は耄碌しているのではないだろうかとも思った。だが、老婆の瞳にはしっかりとした意思の光が感じられた。同時に久しく忘れていた温かい何かも……。

老婆はさらに近づいてきた。そして、惑わされた子猫のように動くこともできずにいるフィールの手を取る。

「さあ、行きましょう」

フィールは夢見るかのように取られた手を見る。そのとき――

「フィール! 何してる!」

開いた扉から叫び声が上がる。そこには責め立てるような顔をしたザッカがいた。

その姿にフィールは現実に引き戻された。ザッカの出現に戸惑う老婆と一瞬目が合う。だが、何かを訴えるその視線を振り切り、フィールは小さく言った。

「ごめんなさい!」

老婆を突き飛ばし、フィールは走った。一階に降り、ラウルとアルベルトに「箱は見つけた」「上に人がいる」と伝えると、二人も慌てて通風孔へと走り出す。

昏く狭い隘路に潜り込み、無我夢中で外に出る。フィールが外に出ると、ラウルとアルベルトも次々に出てきた。だが、ザッカが出てこない。

「ザッカは!?」

「お前が降りてきたときはいなかったぞ! 置いてきたのか!」

フィールの問いにラウルが答える。部屋を飛び出した時は一緒だったのだから、フィールは当然、ついてきているものだと思っていた。いったい何をしているのか?

しばらく待つが、ザッカがくる気配はない。ラウルが「もう、放っておくしかない! 行こうぜ!」と促した時、通風孔から這いずる音が聞こえてきた。

「悪い。手間取った」

ザッカの謝罪を捨て置くように、四人はすぐにその場を離れた。

目的のものは手に入った。だが、フィールは顔を見られてしまったという痛恨の失態をどうバーナムに取り繕うか、焦燥と不安に唇を噛みしめていた。

そしてそれ以上に、あの老婆の風のない月夜のような、それでいて温かい瞳と、自分の汚れた手を包んだ皺だらけの手がいつまでも頭に残って消えなかった……。


フィールはザッカたちと共に例の空き家の地下室に戻っていた。昨晩はここで過ごし、夜が明けるのを待っていた。もう朝日は顔を見せつつある。だが、フィールは一睡もできなかった。今頃はもう警察隊が動き出しているだろう。普段のちょっとした盗みなら、顔を見られてもしらばっくれれば、子供ということもあってか警察隊もそうそう強硬な手段はとらない。ただ、手元にあるこの手帳と小瓶が相当な価値のものであれば、警察隊も本腰を入れてくるだろう。警察隊に追われることになればその人間はもうお払い箱だ。だから、フィールは老婆のことは黙ったまま報酬を受けとり、その後はこの街を出るしかないと考えていた。しかし、いったいどこへ……? 他に逃げる当てがあるならとっくにそうしている。

バーナムとは朝一番にここで落ち合い、箱と引き換えに報酬を受け取る予定だった。だが約束の時間にはまだ早い。焦りと苛立ちを抑えきれないフィールはしきりに爪を噛んでいた。

すると、少し離れたところで横になっていたザッカが起き上がり、話しかけてきた。

「フィール、今いいか。大事な話がある」

正直、話す気分ではなかったが、ザッカの表情がいつになく真剣味を帯びていたので、仕方なくフィールは身を起こした。ラウルとアルベルトも同室にいたので場所を他の部屋へと移す。

「何? 話って」

「お前、あの婆さんに顔を見られたことを気にしてるんだろ? でも、そのことなら大丈夫だぜ」

フィールは眉根を寄せた。それを思い煩っているのは確かだが、一体何が大丈夫というのか。

「俺がちゃんと黙らせておいたからさ。俺たちが盗みに入ったことは誰にもばれていない」

見えぬ冷たい矢が心臓を射抜き、フィールの体に痺れが走る。

あの家から逃げるとき、ついてきていると思ったザッカが後ろにいなかった。二階で何をしていた? 『黙らせた』その意味するところは……、

血の気を失った指が細かく慄きだし、嫌な汗が掌に滲む。

「ま、まさか……こ、殺したの……?」

「俺も怖かったさ! だけど、俺もお前も顔を見られたんだぞ! 殺るしかないだろう。あのよぼよぼの婆さんなら俺でもできると思った。俺はやり遂げたんだ!」

あのお婆さんを? 私みたいな薄汚い子供に手を差し伸べてくれたあんな優しい人を……?

フィールは戦慄し、恐怖した。起きてしまったことを。そして、それを間接的に自分が引き起こしたのだということに。

しかし、ザッカはまるで不要なものを片付けただけとばかりに、老婆の話はそれで打ち切り、急に話題を変えた。

「ところでさ、フィール。お前、今回の報酬が入ったらどうする気だ?」

「……?」

衝撃に胸が締め付けられ、フィールは震える首を小さく傾げるのがやっとだった。

「おいおい、何も考えてなかったのかよ。まあいいさ。実は俺、前からこの街を出ようと思ってたんだ。それでこの間、ようやくアルフォワースの首都、セントフォンティーナまで行ける乗合馬車の伝手を見つけたんだ。今回の報酬が手に入ればその馬車に乗れる。この街ともおさらばさ。それでさ…………お前も一緒に来て欲しいんだ」

熱を帯び、撫でるような声を上げるザッカにフィールは震える声で訊き返した。

「……そこへ行ってどうするの?」

「それは……向こうに着いてから考えるさ。でも、あそこは世界で一番大きな街だ。ここよりはましに決まってる。それに俺はお前と一緒ならきっと何とかなると思うんだ……俺にはお前が必要なんだよ」

言いながら少しずつ身を寄せてくるザッカを、フィールは異世界の生物を見るかのような目で見つめていた。

こいつはいったい何を言っているのか? 人一人殺しておいてそれをほとんど気に留めることもなく、全く何も考えていない計画を得意げに話し、挙句の果て、人の気持ちも考えずお前が必要? 理解できないという次元の話ではなかった。何かが根本的に壊れている。

「なあ、来てくれるよな。俺と……」

ザッカはフィールの手を取った。その瞬間、得も言われぬ怖気がフィールを襲った。

昨夜、全く見知らぬ老婆に手を取られたときには、羽毛のようなぬくもりを感じた。だが、よく見知っている少年が伸ばした手は、自分の体温をひたすら奪っていく冬の石のようだった。

「いやぁっ!!」

フィールはザッカを突き飛ばし、元の部屋に置いてあった箱を抱え、隠れ家を飛び出した。

行先はバーナムの住居。前に偶然、バーナムを見かけた時、後をけて調べたのだ。そのことを知ったらバーナムは激怒するだろう。だが、もう、なりふり構ってはいられない。箱を渡して分け前を貰い、この狂った世界から一刻も早く逃げ出したかった。

息も絶え絶えにバーナムの住居に辿り着いたとき、フィールの目に不思議なものが映り込んできた。家の前に馬車が止まっている。それもこんな裏町にはふさわしくない、かなり大型の豪華な二頭立ての馬車だ。

フィールがその馬車に目を奪われていると、バーナムの家の扉が開き、戸口に一人の男が姿を現した。きちっとした身なりの、一見して上流階級の人間と分かる紳士然としたその男は、いやに目立つ金の片眼鏡モノクルをしていた。その男の後ろから従者と思しき二人の男が現れ、さらに奥からバーナムが出てきた。バーナムはフィールを見ると一瞬驚いた後、すぐに顔を顰め、怒号を放ちながら、ずかずかと歩み寄ってきた。

「フィール! てめえ、何でここにいる!」

混沌と恐怖に捕らわれたフィールは、為す術もなくただ身を縮こまらせるしかなかった。バーナムが巨体を揺らして迫り、山のような影がフィールに覆い被さった時、その巨体を止めたのは紳士の一言だった。

「バーナムさん、その子は?」

「あ、その……例の盗みをさせた子供の一人です。そういえば、お前、例のものは盗ってきたのか!」

バーナムはその紳士に対してはあからさまに腰の低い態度をとり、フィールには尊大に振舞う。まるで違う人物を演じる芝居のようだった。

フィールは慌てて小袋の中から箱を取り出した。バーナムはそれをひったくると恭しく紳士に渡す。するとそれまで泰然としていた紳士は、わずかに興奮気味にその箱を受け取り、蓋を開ける。そして、中の小瓶と手帳を検めると、

「おお、間違いない、本物だ。よくやってくれた」

喜悦の表情を浮かべ、大事そうに箱を小脇に抱えた。

「では、約束の金は……」

「ふむ、そうだな……。だが、その前に一つ。ちゃんと偽装工作はしてくれたのかね?」

その紳士の発言にフィールは顔を曇らせた。偽装工作とはいったい……?

「ああ、それはもちろん、こいつらのことですから、何から何まで盗んでいるはずです。おい、これ以外には何を盗んできた?」

フィールは戸惑いながら、か細い声で答えた。

「いえ、言われたのはそれだけですから、他には何も……」

「なんだと!! 他にも盗って来いといっただろう!! 何をやってる!!」

言われてフィールは思い出した。バーナムは他に金に換えられそうなものがあれば盗んできてもいいと言っていた。だが、あれはそうしていいと言っただけで、絶対に何かを盗んでこなければならないという指示ではなかったはず。

「困りましたな。それでは盗みの目的がこの箱であったことが誰の目にも明らかだ。ただの物盗りに見えるよう、君らのようなこそ泥を雇ったというのにこれでは意味がない」

紳士は鉄の冷たさを感じる声音でそう言い放った。そして、言葉に詰まるバーナムを尻目にフィールに歩み寄ると、身を屈めてその目を覗き込んだ。

「それとお嬢さん。この箱の受け渡しはここではなかったはず。まさか、他にも問題を起こしてここに来たのではないだろうね?」

一切の慈悲を感じさせないその追及にフィールは表情を凍り付かせた。その顔の強張りをバーナムが的確に読む。

「おい!! まさか何かあったのか!? あったのなら全部吐け!!」

もはやまともに思考することはできず、フィールは言われるがまま、あの邸宅で起きたことを洗いざらい話した。

「ひ、人を殺しただと!? ザッカの野郎……!」

すると紳士は先にもまして冷たい声でバーナムに告げる。

「バーナムさん。もちろん、あの邸宅に人がいないと言ったのは我々で、不測の事態が起きたのは間違いない。だが、それも含めて仕事をこなすのが君たちの役割だ。それを人死にまで出すとは……。これでは警察隊も本格的に動くだろう。我々はすぐにこの街を出る。あと、これだけの失態を重ねたのだから、私としてはもう報酬を払う理由はなくなった」

「そ、そんな。ラウルセンさん、そりゃ、あんまりだ……」

抗議しようとバーナムが詰め寄ろうとするが、二人の従者が前に出て、その歩みを止める。従者は見るからに屈強で、どことなく暴力の匂いがした。

どうにもできない悔しさにバーナムはわなわなとその巨体を震わせると、くるりと振り向き、その捌け口を別のところに求めた。

「このクソ餓鬼がああああ!!」

丸太のような腕がフィールの腹に叩き込まれる。棒切れのように吹き飛んだフィールは悲鳴を上げながら地面を転がった。呼吸ができず、体をくの時の曲げ、嗚咽を漏らす。バーナムはそれでも怒りが収まらず、さらにフィールを蹴りつけ、踏みにじる。

その様子を片眼鏡の紳士は冷ややかな目で見つめていたが、

「バーナムさん。せっかく望みの物を手に入れてくれたのだから、親切心からこれだけは言わせてもらうよ。あんたもそんなことをしている場合かね。早く逃げないとまずいことになるのでは?」

そういうと馬車に乗り込み、無機質に扉を閉じた。すぐに馬車は走り出し、貧民街から富裕層の住む街区へと消えていく。その様子を茫然と眺めていたバーナムは、

「くそっ! こうしちゃいられねえ!」

といって、すぐに自分の家に取って返した。

波が引くように辺りに静けさが満ちる。普通の街なら活気づく朝の時間も、貧民街にはただ茫漠とした無音の世界だけが広がっていた。清々しい朝日だけが皮肉にも、道を、家々を燦々と照らす。

その中でフィールはよろけながら立ち上がった。鉄と土の味を感じながら歩き出す。

フィールはすべてを失ったことを悟った。……いや、最初からここには何もなかったのだ。その中で唯一存在を感じるもの。それは懐を微かに圧迫する両親からもらった擦り切れた一冊の本だった――。


そこから先はどこをどう歩いたかはほとんど記憶にない。フィールは元居た街を出て、いくつかの街を転々としていた。行く先々で盗みをして、何とか食いぶちは繋いでいたものの、常に空腹と寒さに震えていた。季節は冬へと移っていた。

流れるがまま辿り着いた先は小さな宿場町だった。狭い町はそれだけ身を隠す場所が少なく、人目に付きやすい。しかし、野宿などしていては凍え死んでしまう。フィールは思い切って宿の倉庫に潜むことにした。

白い息で手を温めながら、フィールはこれからのことを考えていた。次の街まではとても歩いて行ける距離ではない。そこへ行くには乗合馬車に乗る必要がある。そのためには金が必要だった。ここは街と街を繋ぐ宿場町であるせいか、夜は宿泊目的の客が多いものの、昼間は比較的閑散としていた。フィールはその時間帯に部屋を空けている客の手荷物を狙うことにした。

用心深く人目を避けて一つの部屋に忍び込む。この部屋に泊まっていたのは、体格のいい壮年の男で、それなりに身なりは小奇麗であったため、ある程度、価値のあるものは見つかるだろうとフィールは踏んでいた。しかし、部屋の中に置かれた大きく無骨な鞄には、旅に必要な最低限のものしか入っておらず、めぼしいものはなかった。

他に何かないかとフィールがこうべを巡らせたとき、ふと、机に上に置かれた一体の女神像が目に入った。青銅ブロンズ製のその女神像にどの程度の価値があるかは分からなかったが、とにかく少しでも金に換えられるものが欲しかった。フィールは何も考えずにその女神像に手を伸ばし――その手が途中で止まった。

女神像は微笑んでいた。何の変哲もない像のはずなのに、その微笑みからは包み込まれるような優しさを感じた。その瞬間、フィールはあの老婆の笑みを思い出した。その時に差し伸べてくれた細い手も。

深い悔恨と慙愧の念が湧き上がる。あの老婆は盗みに入った自分にさえ、労りの気持ちをもって接してくれた。なのに自分はいったい何をしているのだろう。ずっと生きたいと願ってきた。だが、何のために……? 物を盗み、人を死に追いやって、そうまでして生きて何がしたいのか。

どうすることもできない空虚さに覆われたとき、フィールは、はっと自分の頬に触れた。

濡れている。あれだけひどい生活を送ってきた中でも、流れることのなかった感情の発露が今になって溢れ出た。もう押しとどめることはできなかった。

フィールはその場に頽れ、そして泣いた。人に気付かれることなど気にもせず、ただ思い切り。そうして、泣いて泣いて涙が枯れ果てたとき、フィールは顔を上げ、横を向いた。

男が立っていた。この部屋の客の男だ。

「お前がこの部屋を伺っているのは分かっていた。おそらく盗みを働くつもりなのだろうということも。それで、その場を押さえて戒めるつもりだったが……」

男は大きな体を縮め、フィールの前に膝を折る。

「私は神父ではないが、告解の真似事はできる。何があったか話してみないか?」

低く深い、重みを感じさせる声だった。

フィールは名も知らぬこの男にすべてを打ち明けた。自分の生い立ちからあの老婆のことに至るまで、すべてを……。

男は話を聞き終えるとフィールに立つように言い、

「もし、お前が本当にこれまでの罪を、その老婆のことを懺悔したいのなら、私とともに来るか?」

そう問いかけた。泣き腫らした顔に不思議そうな色を浮かべるフィールに対し、男は続けて言った。

「私も過去に多くの罪を、それも大罪を犯した。それらは決して雪ぎ切れるものではない。ゆえに一度は死を選ぶことも考えた。だが、それは神の教えに反する。だから私は今、己の罪を償うため、旅をしている」

男はフィールに自分のことについて語った。

イムル国の神殿教団が擁する異端審問部。男はその中で『執行者エンフォーサー』と呼ばれる存在だった。『執行者』とは、異端審問官が神の教えに反すると認定した異端者を、その御名のもとに誅滅する、いわば処刑人であった。

歴代最強と噂されていた男は、審問官が指示するまま、異端とされた人間をその剣で葬った。それらは邪教を信じ、人々を残虐に殺めた者、あるいは貧しい者から不当に財を取り立て、私腹を肥やした者など酌量の余地のない罪人たちであった。

ある時、男は邪教を広め、不法な薬物を世間に流布させたとして、神殿教団から異端認定された一人の女の刑を執行した。しかし、その女は斬られる間際に言った。「あなたは何も分かっていない」と。

その女には娘が一人おり、母親が斬られるその場に居合わせた。「人殺し!」と罵る娘に対し、男は母親の罪の重さと正しい道を歩む大切さを説いたが、娘は聞き入れなかった。絶望に打ちひしがれた娘は、その後、入水し、自ら命を絶った。

そして、男はのちに真実を知る。その母親は敬虔な信者で、むしろ薬物を信者に流布し、不当な金を得ていた首謀者を告発しようとしていたことを。そして、その首謀者とは神殿教団の上層に位置する者だった。さらにこれまで男が手を下してきた人間の中には、そういった教団にとって都合の悪い人間が少なからず含まれていたことを知った。

教団を信じられなくなった男は、ただただ寡黙な旅に身を投じた。教団は真実を知る男を野放しにすまいと刺客を差し向けたが、その悉くが返り討ちにあった。歴代最強と呼ばれた彼を止められるものは誰もいなかったのだ。

男は旅に出るとき、一体の女神像を持っていた。教団は見限ったものの、男は教団が教え説く本来の神については、その信仰を捨てていなかった。男が持つ女神像は、その教えの中で、この世のすべてに対して慈悲と愛を与えるという地母神であった。

話を聞き終えたフィールはしばし茫然としていたが、男がもう一度「来るか」と尋ねると、一条の涙を流し、ゆっくりと頷いた。


旅は当て所なく続いた。

男の名前はフェルディナンドといった。フェルディナンドは時に貧しい人々に施しを与え、また、暴虐を働く山賊を切り捨て、困窮する人々を助けて回ったが、ほとんどは街から街へと渡り歩くだけだった。己の罪を償うといっていたのに、これといって何もしないフェルディナンドにフィールは最初落胆した。しかし、すぐに気づいた。彼も過去の罪の贖い方が分からないのだということに。フィールがあの老婆への罪をどう贖えばいいのか分からないのと同じように――。

旅をしながらフェルディナンドは、フィールがこれまで身に着けた以上の読み書きを、旅や生活に必要な知識を教えた。一方でフィールの方からフェルディナンドに教示を求めたものがあった。それはフェルディナンドが『執行者』として身に着けた戦闘術だった。理不尽な暴力が蔓延る貧民街に暮らしていたフィールは、それらを跳ね除ける絶対的な力を切望した。だが無論、フェルディナンドは許さなかった。他者の命を奪うことの真の恐ろしさを知らぬ少女に、人を殺めるための技術を教えるなど以ての外だった。

しかし、それからしばらくののち、フェルディナンドは考えを改める。いずれ二人には別れのときが来る。そのとき、一見平和に見えて混沌としているこの世界を、少女が一人で生き抜くには、暴力を退ける強さが必要となるかもしれない。それにこの少女なら無為に人を傷つけることはないだろう、そう考えたからだ。

フェルディナンドの指導は厳しく妥協は許されなかった。体には常に青痣が浮かび、一日の終わりには疲れ切って動けないこともあった。そんな中でも旅の歩みは変わらず続けられた。

しかし、フィールはそれを辛いと感じることはなかった。むしろ、あの生きながらに死んでいるような暮らしに比べれば、傷だらけになる日々の方が充実していた。そして、もう一つ、フィールの心を支えたものがあった。

ある街で宿に泊まったとき、宿の主人が二人を見つめ、尋ねてきた。

「このとあなたはどのような関係ですか?」

あまり容姿の似ていない二人を不審に思ったのだろう。不徳な関係ではないかと疑いの目を向ける主人に、フェルディナンドはそれでも短く言い切った。

「娘だ」

それまでも要らぬ誤解を避けるため、そう口裏を合わせてきた。しかし、なぜかその時強く発せられた一言は、不思議な温もりを伴っていつまでもフィールの心の内に残った。そして、その時からその一言はフィールにとって嘘ではなくなっていた。常に側に居て、見守ってくれるその大きな背中。それは過去の記憶に残る姿とは別のもう一人の――。

それを想うだけでフィールはいかに苦しい時でも耐えられた。

フェルディナンドは、フィールがそんな風に思っているとは知らなかったが、そのころを境に、フィールに笑顔が見え始めたことには気づいていた。

月日は流れても二人の旅は変わることなく続いた。途中、人づてに、イムル国にて教団に対して暴動が起き、それまでの権力者がすべて粛清され、教団が一新されたとの話を聞いた。しかし、二人の歩みは止まらなかった。そして、二人が旅を始めて九年目の年、二人は最後の地、ペオエスクに辿り着いた。

フェルディナンドはこの地で、古びて打ち捨てられた教会とそれに隣接した土地と廃屋を買い取り、孤児院を開くと言い出した。唐突な提案にフィールは戸惑ったが、フェルディナンドに迷う様子はなかった。教会は傷んだ箇所を整備し、再び神が住まう家として蘇らせ、隣接した廃屋は人が住めるよう改築した。その費用の出どころは、かつてフェルディナンドが『執行者』として神殿教団に仕えていた時に受け取っていた報酬だった。無実の人間を殺めて手に入れた血に塗れた金ではあったが、ただ、捨てるのでは何者も救えない、何か人のために使うべきだと考え、フェルディナンドはずっと隠し持っていたのだ。

そして、ダーニオン帝国による戦争によって親を失った子供たちを、院に迎えることになった。フェルディナンドは神父として、フィールはシスターとして子供たちを慈しんだ。忙しいながらも笑顔の絶えぬ日々。しかし、その生活は長くは続かなかった。

フェルディナンドは不治の病に侵されていた。本人はそれをペオエスクに着いた直後に知った。フェルディナンドがここに孤児院を開いた理由。それは最後にフィールに生きる道を示すためだった。子供のころ、同じく親を失ったフィールなら、子供たちの気持ちが、彼らが何を欲しているのかが理解できる。そして、孤児となった子供たちを救うことは、フィールの記憶に残る、少女であった頃の彼女自身を救うことにもなる、そう考えたのだ。

過去の愚かな自分が切り捨てたあの信心深い女性。さらにそれによって死に追いやってしまったその娘。その娘の代わりに、今、目の前にいる成長した一人の娘とも思える女性に未来を見せること。それが旅の果てに見出したフェルディナンドの贖罪であった。

子供らがここの生活に慣れ、フィールがシスターとして子供たちを守り、導いていく人間として十分にやっていけることを見届けて間もなく、フェルディナンドは最後の時を迎えた。

子供らが寝静まり、静謐な空気が流れる夜。小さな蝋燭が揺らめく部屋で、フェルディナンドはフィールが未だ持っていたあの本を指さして言った。

「フィール、お前は昔、その本の話をくだらないといった。だが、本当にそう思っていたのなら、そんな本はすぐに捨てていたはずだ。字を覚えるためなら他の本でもいい。だが、その本だけは手元に残した。それは、お前の心の底に人として正しく生きる道を信じたいと願う気持ちがあったからだ。お前はその輝きを失わなかった。それはお前とともに歩んだこの十年で私が見つけた最も美しいものだった。おそらく話に聞いた老婆もお前の中に同じものを見たから手を差し伸べたのだろう。その輝きを持っている人間が許されないはずはない。今、ここで、お前の罪は私が許そう」

その許しの言葉はフェルディナンドがフィールに与えられる最後の贈り物だった。

フィールは溢れる涙を落としながら頷き、その大きな手をとって最後に声をかけた。

「ありがとう。お父さん」

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