影の人物

翌日、シュウと合流したあと、クリアスたちは博物館を訪れていた。

風雅な佇まいの建物はいつもと変わらないはずなのに、クリアスは妙な緊張感を抱かずにはいられなかった。

「ねえ、飛龍。館長さんの周りの人物を調べるって言ってここに来たけど、どうするの? まさか館長さんに直接問い質すわけにもいかないし……」

「可能性は低いけど、まずはあの影の人物が館長さんかどうかを確認しようと思う。それには君の友人のレベッカさんに話を聞きたいんだ」

「レベッカに?」

「うん。確か昨日、ここは休館日じゃなかったよね? となれば館長さんもここにいたはず。もし、僕らが遺跡にいた時間帯に館長さんがここにいたと分かれば、影の人物ではないことになる。それは受付をしているレベッカさんに聞けばわかると思うんだ」

「なるほど。いわゆる不在証明を確認しようというのだな?」

シュウの問いに飛龍は頷く。そんな飛龍をクリアスは不思議そうに見た。

一年戦争など常識的なことは知らない一方で、こういった状況を分析し、判断するという場面では飛龍は思いもよらぬ鋭さを見せる。どこか捉えどころがないという意味では、飛龍もアインも似たもの同士といえた。

そんな風に思われているとは露知らず、飛龍は「それじゃ話を聞いてみよう」といいながら博物館の扉に向かう。

館内に入り、受付に目を向けたところで、クリアスはいつもと違う点に気づいた。

受付に座っていたのは、暇を持て余していそうな一人の男性。何回か顔を合わせたことがあるこの博物館の学芸員の一人だ。クリアスはその男性に近づき、尋ねる。

「すみません。あのレベッカは?」

「ああ、君か。……って後ろの人は?」

例のごとく、男性が飛龍たちを不審な目で見つめる。

「彼らは私の友人です。こちらは警察隊隊長のシュウさん。えっと……」

そこまでいってクリアスは口ごもる。なぜ、警察隊隊長が同行しているのか。誰もが疑問に思うはず。しかし、その理由をそのまま話すわけにもいかない。どう説明していいかクリアスがまごついていると、シュウが前に出る。

「彼らがミッテル遺跡に行きたがっているんだが、知っての通り、あそこでは最近魔物が目撃されたとの話がある。私は警察隊隊長として、遺跡に行くことは勧められないんだが、彼らはどうしても行くといっている。それであの場所に行く危険性について、遺跡の管理者と魔物研究の専門家の立場から館長に意見を聞きに来たんだ」

そんな作り話、よくすぐに思いつくなあ、とクリアスは感心するが、すぐに思い直す。ここに来ることは決まっていたのだから、シュウが事前に準備をしていてもおかしくはない。逆に考えていなかった自分の不用意さを反省した。

男性はその理由を聞いて一応の納得を示す。

「はあ、そうなんですか。でも館長は不在ですよ?」

「不在?」

「ええ、何でも急な要件ができたからってことで……」

シュウの後ろで三人は目を合わせた。このタイミングで館長が急に博物館を離れるとは、果たして偶然か、それとも……。

「そうか。では出直すことにする。ところで彼女が受付をしている友人に会いたいらしいのだが、今、どこにいるか教えてくれないか?」

すると男性は淡々と答える。

「ああ、あのも今日は休みなんですよ」

「休み? レベッカが?」

クリアスが聞き返すと、男性は肩をすくめる。

「何でも急な用事ができたからってさ。今朝、急に受付を代わってくれって言われたんだ。全く俺たちがこんなことしなくてもいいようにあの娘を雇ったはずなのに……。俺だってこう見えて忙しいんだぞ。昨日だって……」

愚痴る相手を見つけたとばかりに話し出す男性。クリアスは生返事をしながら、頭では別のことを考えていた。

――急な用って何かしら? レベッカはこれまで休館日以外、休んだことはないって言ってた。悪いことじゃなければいいけれど……

と、その時、

「すみません。今なんて言いました?」

飛龍が突然、声を上げた。一歩前に出て聞き返す飛龍に、男性は戸惑いながら答える。

「何って……」

「昨日、館長さんと話をしたってところです。そこを詳しく聞かせてください」

クリアスはレベッカのことを考えていたので漫然と聞いていただけだったが、男性の愚痴の中で飛龍にとって気になる点があったようだ。

「昨日、珍しく館長が俺のところに尋ねてきたのさ。あの人はあまり口数が多い方じゃないんだが、昨日は何か饒舌だったな。何でも抱えていた仕事を終わらせる目途がようやく立ったってことで……。おかげでこっちの作業があまり進まなかったんだ。ただ夕方、帰るときには何か急いでいるようだったな。それが何か?」

「その館長さんが帰ったときの時間は、大体どのくらいだったか覚えていますか?」

「時間? ああ、あれは夕方の四時ぐらいだったな。時計塔の鐘が鳴っていたから間違いない。昨日、俺は早く帰るつもりだったし、館長も用ができたというんで、同じぐらいの時間に帰ったんだ」

「そうですか……、ありがとうございます。ちなみにレベッカさんがどこへ行ったか分かりますか?」

「さあ、何でも港の方に行くとか言っていたけど……」

レベッカも館長もいないのであればここに留まる理由はなく、四人は博物館を出ることにした。博物館の全景が拝める道の中ほどまで来たところで、クリアスは飛龍を振り返った。

「飛龍、さっきは何が気になったの?」

「うん。昨日僕らが街に帰ってきたとき、時計塔の鐘が五つ鳴っていた。つまり、五時ぐらいだった。遺跡から街までの道は歩いて大体一時間ぐらい。僕らが帰ってくるときは、少し急いだけど、それでも少なくとも三十分以上はかかっていたと思う。僕らは影の人物と戦ったあと少し話をしていたから、その時間も考えると影の人物と遭遇したのはたぶん四時近く。だから館長さんが影の人物ということはありえないということになる」

「ふむ。尋ねる相手は違ったが、図らずも館長の不在証明は成り立ったということか」

シュウの呟きに飛龍はわずかに苦みを堪えるような顔で答えた。

「そうですね。できればそうであって欲しかったのですが……」

「そうであって欲しかった?」

怪訝な顔をするシュウ。飛龍はじっと考え込んでいたが、やがて鋭い意志を乗せた表情をシュウに向ける。

「あの影の人物は館長さんと何か関係があると僕はいいました。でも、僕はずっと考えていたんです。それよりもあの影の人物が現れたのが、なぜ昨日だったのかってことを。僕らが遺跡に訪れた同じ日に影の人物も遺跡を訪れた。これを偶然で片づけるには無理があります。つまり、あの影の人物は僕らがあの遺跡に行くと知っていた人間ということになります」

飛龍が話すにつれてクリアスは何か不穏なものを感じずにはいられなかった。

「博物館の館長さんには僕らが遺跡に行くことは話してなかったですが、彼が気づく可能性はありました。クリアスに聞いたところ、遺跡にあった別館の鍵は館長さんが管理していたそうです。それをレベッカさんに頼んでこっそり持ち出してきたのですが、その鍵がないことに気づけば、誰かが遺跡に行ったのではないかと思うはず。でも、館長さんはあの場に来ていないし、誰かを差し向けたという様子もなかったようです」

飛龍が続ける。

「となると、あと僕らがあの遺跡に行くと知っていたのは、孤児院のフィールさん、レベッカさん。……そして、シュウさんと警察隊の人間ということになります」

真っすぐに向けられた視線をシュウは身じろぎもせず受け止める。しかし、やがて視線を逸らし、ふっと笑みを漏らした。

「そうか。お前は警察隊のことを疑っていたのか。だが、昨日の仮説からすると私はその影の人物ではないということになるのではないか?」

そういってシュウは両手を開いて掲げた。その手に嵌めた手袋は手首までしかなく、警察隊の制服はシャツもジャケットも半袖で、そこから白い腕が覗いている。その腕に飛龍が言うような傷跡はない。

「ええ、だからシュウさんのことは最初から疑ってはないです」

「しかし、警察隊内部の人間は疑っているということだな?」

飛龍は無言のままだったが、その眼は肯定の意を示していた。

クリアスは警察隊を疑うような発言にシュウが憤るのではないかと思ったが、予想に反してシュウは何も言わず、つと視線を逸らし、口元に手を当てて考え込む。

「お前の立場なら警察隊を疑うのも無理はない、か……しかし……」

シュウが下げていた視線を戻す。

「私はその可能性は低いと思う」

その意見に飛龍は沈黙で答える。それはシュウの発言が身内贔屓からきたものではなく、何か根拠があり、続く言葉があると思ったからだろう。

「お前たちは知らないだろうが、あの遺跡にはこれまでも何人かの人間が足を運んでいる。その大半は冒険者たちだ。この街はまだいるかどうか不確定だった魔物に対して、懸賞金などは掛けていない。しかし、冒険者たちからすると魔物を倒したという実績が手に入れば、冒険者ギルドから割のいい仕事を斡旋してもらえるらしく、ただ魔物を倒すだけでもそれなりにやりがいはあるらしい。あとはただの腕試しという奴もいるらしいが……」

シュウの話を聞いて、クリアスは昨日遺跡で出会ったあのジグマという冒険者のことを思い出した。彼も目的は魔物を倒すことだと言っていた。

「基本的に街の外のことだから何が起こっても自己責任だが、魔物がいるならその情報を把握するためにも、警察隊はそういった者たちの動向は一応押さえてある。しかし、これまで遺跡に行った人間で、お前たちのいう影の人物に遭遇した、または行ったきり帰ってこなかったという話はない。お前の言うように、警察隊に影の人物もしくはその仲間がいれば、なぜそういった人間には手を出さなかったんだ?」

今度は飛龍が視線を下げて考え込む。シュウの言う通り、警察隊の誰かがあの影の人物なら、なぜこれまで遺跡に向かった人間に何も行動を起こさず、昨日に限って現れたのか。いや、昨日という時間ではなく――、

「つまり、私たちだけが狙われる理由があったってことですか? そんなことって……」

「お前がいたからじゃないか?」

不安げなクリアスの声に答えたのはアインだった。

「あの遺跡の仕掛け。もし、古代語に通じたお前がいなかったら開けることはできなかった。あの影の人物は、お前が仕掛けを解いてしまうと危惧したからあそこに来たんじゃないのか?」

アインの言う通り、あの仕掛けはアルトリア文字が読めないと分からない。そして、アインの説にシュウが反応する。

「それだと警察隊の人間が影の人物である可能性はさらに低くなるな。クリアス、私がお前から古代語を理解できるということを聞いたのは昨晩のことだ。当然、他の警察隊員は知る由もない。まあ、別の経路からお前のことを知ったということも考えられなくはないが……」

そういえばとクリアスは思い出す。最初会った時、シュウには、別館に行くのは魔法の研究のためとしか話していなかった。

そのこと踏まえ、さらに先を考えたところで――クリアスの顔から血の気が引く。

影の人物は、昨日クリアスたちが別館に行くこと、さらにクリアスが古代語を読めると知っていた人物ということになる。飛龍が先ほど挙げた三人の中で、シュウは除外され、フィールには古代語については何も話していない。となると残っている人物は一人しかいない。そして、彼女は今日、急に博物館を休んだという。しかし、それはクリアスにとって到底信じ難い結論であった。

「例えそうと思えなくても、残った可能性がそれだけなら確かめるしかないんじゃないかな」

飛龍の呼びかけに、クリアスが弾かれたように顔を上げると、飛龍に加え、アインとシュウもクリアスを見つめていた。その瞳に宿る光から、皆、同じ考えに行きついたのだと分かる。

暗澹たる思いが胸を締め付ける中、クリアスは弱々しく頷いた……。


街の中央を南北に貫く大通りは港まで一直線に伸びている。これまでは歩きやすいと思っていたそれは、今はどこまでも果てのない、永遠に続く道に思えた。重い足取りで歩む中、クリアスは影の人物について考えていた。

あの人物の目的は何なのだろうか。あの遺跡の秘密を守りに来たが、飛龍たちの強さに怯み、諦めて逃げたのか。しかし、アインは、あの影の人物は最初からこちらを攻撃することを躊躇っていたと言った。

――それは、私たちのことを知っていたから? いえ、ただ知っているだけじゃなく……

そんな思惑にクリアスが捕らわれていると、

「あ、クリアスさん!」「お姉ちゃん!」

近くで二つの呼びかけが同時に発せられる。顔を上げると、目の前には二人の女の子――孤児院のメリッサとルーテルがいた。その手には籠があり、中からパンが覗いている。

「二人ともおつかい?」

「うん、シスターに言われて、昼ご飯を買いに来てたの。このパン、すっごく美味しいんだ!」

無邪気なメリッサの笑顔に、クリアスの胸の内に蟠っていた鬱屈した気分が少し和らぐ。

「そうだ。クリアスさんたちも孤児院うちで一緒にお昼ご飯食べません?」

「え?」

そう提案したのはルーテル。ルーテルはその利発そうな眼でクリアスたちを見回す。

「そうしようよ。昨日の夜はエノラおばさんが来てくれて、夕食にシチューを作ってくれたんだけど、けっこう余ってるの。今日中に食べないと腐っちゃうかもしれないから、できれば大勢の方がいいの」

時間は昼時前。食事にはちょうどいい時間。しかし、食欲よりも少しでも気分を紛らわせたいという思いから、クリアスは三人に努めて明るく尋ねた。

「ねえ、少し寄っていかない? 港に行ってもレベッカが見つかるとは限らないし、時間を置いて博物館で待ってた方が確実に会えるんじゃないかな。彼女、あそこで寝泊まりしてるし……」

しかし、クリアスの提案にアインは渋面を作る。

「そんなことをしている場合か。あの女は今日、急に姿を消した。もしあの女が俺たちを襲った奴だったとしたら、このまま姿を眩ませるつもりかもしれないんだぞ」

アインの言っていることは確かにあり得る。しかし、クリアスはどうしても彼女があんなことのできる人間だとも思えなかった。

「でも、彼女はか弱い一人の女の子よ。とてもあんな風にアインや飛龍たちと戦えるとは思えないわ」

「最初会った時に言っただろう。見かけで人の強さなど分からない。強い奴ほど己の力を隠すことに長けている」

クリアスはなおも食い下がる。

「それによく考えてみて。彼女は別館の鍵を渡してくれたのよ。もし、あそこのことを秘密にしたいなら、そんなことしないんじゃない?」

「そんなことは俺に聞かれても分からん。それこそ、本人に確かめるべきじゃないのか?」

容赦ない正論にクリアスは俯く。と、そこへ横から擁護の手が差し出された。

「まあ、別に寄り道してもいいんじゃないかな。だって、もしアインの言う通りならほぼ手遅れだよ。あの遺跡での遭遇からもうかなり時間が経ってる。その気ならとっくに逃げてるよ」

飛龍がそういうと、アインは少し考え込むように沈黙し、小さく頷いて言った。

「……わかった、好きにしろ。元々この件はお前が言い出したことだからな」

それを聞いた少女二人は諸手で喜びを表した。

「やったー!」

「それじゃ、行こう!」

メリッサがアインの手を、ルーテルがクリアスの手を引き、その後ろを飛龍がついていく。しかし、その輪の中からシュウだけは距離をとった。

「そういうことなら私は港へ行く。私にとって、これは街の治安を守る上で重要な案件だ。一刻も早く事実を確かめる必要がある」

そう言い放ち、歩き出すシュウにルーテルが不満そうに叫んだ。

「えー、シュレリーヌさんも一緒に行こうよ!」

「なっ! 馬鹿! その名を呼ぶな! というかなぜその名を知っている!」

慌てて辺りを見回し、詰め寄るシュウにルーテルはしたり顔で答える。

「私、魔法のことを調べるために色んな人に話を聞いてるんだ。それで噂で聞いたんだ、隊長さんの名前のこと。このことは他の人には話してないけど、もし来てくれないなら、みんなに言いふらしてやるんだから」

「わ、私のことを脅迫する気か! そんなことをしてただで済むと思っているのか!」

朱が差した顔で憤るシュウにルーテルはジト目で見つめ返し、

「わたし、単に隊長さんの名前を言ってるだけで何も悪いことしてないですけど。そんなことで逮捕なんかしないですよね。シュレリーヌさん」

最後にとどめとばかりに笑顔で名を呼ばれ、シュウは歯噛みしながら身を仰け反らせる。

ルーテルが勝利を確認する。しかし、折れるかに思えたシュウの表情から、すっと躊躇いの色が消える。

「……悪いが私にはやるべきことがある。個人的事情と任務の優先順位を履き違えるようなことはしない」

その研ぎ澄まされた視線に、ルーテルは強張った表情で身を引く。それを見下ろすように一瞥すると、シュウは顔をクリアスたちに向ける。

「それではお前たち、私は先に港へ行く。お前たちも後から来てくれ」

そう言い残し、シュウは歩き出す。しかし、そのまま立ち去るかに見えたシュウは、二、三歩踏み出したところで足を止め、ルーテルに向き直った。

「ルーテルといったな」

「は、はい……」

シュウはそのまま少し怯えた様子を見せるルーテルの前まで来て、しゃがみ込む。

「今日は行くことはできない。ただ誘ってくれた事は嬉しく思う。今調べている事件が一段落したら、その時は一緒に食事をしよう。約束だ」

そういうとシュウはその肩に手を置き、軽く微笑んだ。

その澄んだ笑みにクリアスはどきりとする。一方、ルーテルはその顔に明るさを取り戻し、シュウの手を取りながら答える。

「はい、必ず来てくださいね。約束ですよ」

「ああ」

そうして互いに笑みを交わすと、シュウは一転して先ほどとは違う真剣さをその瞳に宿し――

「その代わり……私の名のことは他言無用だ!」

確約を促す。その本気の眼差しにルーテルはにやりと笑う。

「はーい、わかりました」

一度は拒否したのにそのために約束を交わすとは、そんなに本名で呼ばれることが嫌なのかな、とクリアスは一瞬苦笑いするが、

――ううん、きっとそうじゃないよね

先ほどシュウが浮かべた笑みを思い返し、すぐにその考えを訂正する。

シュウはもう一度「約束だぞ」と念を押すと、立ち上がり港の方へと歩き出す。するとその背を追って飛龍が駆け寄る。

「シュウさん、ちょっと……」

「なんだ?」

飛龍はシュウと横並びになって話し出す。

少し離れていたので、クリアスにはその内容は聞き取れなかった。ただ、話している間に、シュウがその眼をわずかに見開き、それから何かを了承したかのように頷くのが見えた。

話は終わったのか、シュウが立ち去り、飛龍は踵を返して戻ってくる。

「ねえ、シュウさんに何を話したの?」

「この街の港は広いからね。入れ違いになったら困るから、夕方には博物館に戻るつもりだってことを伝えたんだ。あと、何かあったときは警察隊の庁舎に行くってね」

確かに、もしもの時の待ち合わせ場所は決めておく必要があった。しかし、本当にそれだけなのだろうかとクリアスは飛龍の横顔を見る。

この温厚な顔立ちに不釣り合いな怪しい黒服を着た青年は、見た目と同様、どこか掴めないところがあり、時折、他人が見えていない物事の裏側が見えているような気がする。そして、それは今後、大きく物事を転換させる鍵となるような気がした。

そんな予感を覚えながら、クリアスは子供らに連れられ、小さな教会を目指し、歩き出した。


入り組んだ道が開けたその先に、一人の女性と子供たちが慎ましく暮らす神の家が見えてきた。近くまで来たところで敷地の中央を彩る畑から元気な声が飛んでくる。

「昨日の剣士のお兄ちゃんだ! ルーテルが連れてきたのか?」

「そうよ。大通りでちょうど会ったの」

声の源であるウィルにルーテルが答えると、それに反応して、元気な顔が次々と畑の中から伸びあがる。どうやら野菜の収穫していたようで、子供たちが摘んだ葉物やら胡瓜やらをフィールが受け取っていた。

「あら、みなさん。どうしたんですか?」

「私が誘ったのよ、シスター。お昼はみんなで食べようって。いきなり連れてきたけど……いいよね?」

ここにきて急に不安になったのか、その声が尻すぼみになる。そんなルーテルにフィールは優しく笑いかけた。

「ええ、もちろんよ。それじゃ、食事の準備をしましょう」

教会から反対側にある建屋は、入るとすぐそこが炊事場という変わった造りだった。そこから先に進み、畑の向こう側に見える、建屋と教会を繋ぐ母屋まで行く。その中にある一室が、フィールたちがいつも食事をとっている部屋だった。さすがにフィールに子供たち六人、そしてクリアスたち三人が入るとかなり手狭だったが、何とか身を寄せ合うようにして席に着いた。

食事は簡素ながら十分に舌を楽しませるものだったが、何よりその時間は怒涛のような騒がしさだった。

クリアスは魔法のことが聞きたくて仕方がないルーテルに質問攻めに遭い(このために呼ばれたのではないかとクリアスは勘ぐった)、飛龍は男の子たちに剣術についてあれこれ聞かれ、そして、アインはなぜか懐かれているメリッサに食事の世話を焼かれる始末。

そんなひと時はあっという間に過ぎ、皆が食事を終えるとフィールが片付けのために席を立った。子供たちも普段の教えがいいのか、それぞれの食器を炊事場まで運んでいく。ただ十人分の食器となるとそれなりの量で洗うのは大変だ。

クリアスが手伝いを申し出ると、フィールは最初やんわりと断ったが、せめてこれぐらいはと食い下がると、最終的にはその好意を受け入れた。普段は子供たちも手伝うらしいが、今は滅多に来ない珍客に興味津々で、飛龍とアインはその好奇心の格好の標的ターゲットとなっている。

植物から抽出された洗剤で食器を洗う。この洗剤も古代の記録から再現されたもので、什器だけでなく洗濯や入浴にも使用され、今や世界中に普及したこの発見は人々の衛生環境を飛躍的に改善した。こうした日々の生活にも古代遺産は大いなる恩恵を与えている。

井戸から汲んだ水で洗剤を洗い流しながらクリアスは尋ねた。

「でもフィールさん、今更なんですが、御呼ばれされて良かったんでしょうか。この孤児院を維持していくだけでもそれなりに大変でしょう? 何かお返しをしたいんですが……」

「そんな、いいですよ。子供たちが楽しい時間を過ごせたのですから。お礼をいうのは私の方です。ここの運営も結構余裕がありますし」

気に病むクリアスにフィールは洗い終わった食器を拭きながら柔らかく微笑みかける。その優しさにクリアスも笑みを返したが、それがこちらに気を遣ってのことなら、やはり何かしなければと考えていた。

と、意識が手先から逸れた途端、洗い終わった皿が手から逃げるように滑り落ちる。

「あっ!」

クリアスが反応するより速く、床に落ちるすんでのところでフィールがその皿を掴んだ。クリアスは安堵の溜め息を吐く。お返しどころか迷惑をかけるところだった。

「ありがとうございます。フィールさ……」

礼を言いかけて――クリアスは言葉を途切れさせた。白い修道服から伸びた手。その右手に包帯が捲かれている。

「フィールさん、その手……」

「ああ、これですか。昨日、夕飯を作っているときに怪我をしてしまって……。大したことはないんですけどね」

「そうなんですか……」

修道服の袖を戻しながら、何事もなかったかのようにフィールが片づけに戻ると、クリアスも目線を手元に戻した。ただ、その眼は手に持つ食器を認識してはいなかった。

――ただの偶然……なの?

全身を走るちりちりとした痛みの中、クリアスは目まぐるしく思考を回転させていた。

――でもフィールさんがあの場所に来る理由はないわ。アインの説が正しければ、あの影の人物は私が古代語を理解できると知っている人間のはず……

しかし、次の瞬間、ある光景が蘇り、クリアスは電撃が突き抜けたような衝撃に襲われる。

――そうだ。あの遺跡の壁に書かれていたのはアルトリア文字だった。もし、この人があの壁に書かれている文字を見たことがあったとしたら……。そう、同じものをこの人はこの教会で見た。を。そして、私はここを出る前「遺跡に行くのは魔法の研究と調」と言った。それなら、アルトリア文字を文字と認識できていなくても、同じ紋様が入ったものについて、私が何らかの知識があると思っても不思議じゃない。

クリアスは食器を片づけながら、そっとフィールを伺った。一緒に居て初めて気づいたが、その美しさと身に纏う淑やかな雰囲気とは異なり、フィールの手は節々が太く、荒れていた。それはこれまでの苦労を刻んでいるようにも見えたが、同時に何かで鍛え上げられたような手にも見えた。

フィールはその手に鍋を持ち、片づけを続けている。その鍋を見て、クリアスはさらにあることを思い出した。

「あの、フィールさん……」

クリアスはフィールから手に持つ皿に目を移す。皿には欠けた部分があった。

「さっきフィールさんは、夕飯を作っているときにその手を怪我したって言いました……。でも、私、ルーテルちゃんから食事に誘われたときに聞いたんです。『昨日の夜は、エノラおばさんがシチューを作ってくれた』って……」

それは確認のつもりだった。もしかするとフィールも別の料理を作っていたのかもしれない。あるいは昨日と言ったのが単なる言い間違いだったかもしれない。クリアスはその可能性も考え、そして、そうであって欲しいと願っていた。だが、その切実な思いが前のめりになり、つい突き刺すような言い方をしてしまった。

「昨日の夕方、本当はどこにいたんですか? どうしてその腕を怪我したんですか?」

皿を置き、顔を上げて横を向く。フィールと目が合った。炊事場は窓からの採光がよく、明るかった。にもかかわらず、フィールの顔だけが陰っているように見えた。いや、その陰の中で海色マリンブルーの瞳だけが爛々と異様な光を放ち、こちらを見つめていた。

「フィ……!」

声を上げようと一歩後ろに下がった刹那。クリアスの口はすでにフィールの右手によって塞がれていた。そして、クリアスの理解が追いつくよりも早く、次の瞬間には左手で腕を取られ、後ろ手に極められる。声を上げようにも振り解こうにも全く体が動かない。凄まじい速さと力だった。恐怖に顔を歪ませるクリアスにフィールがか細い声で囁く。

「お願い、静かにして。ちゃんと説明はするから……」

その声に悪意の響きはなかった。クリアスは混乱しながらも、徐々に落ち着きを取り戻し、体から抵抗の意思を消した。それを感じ取ったのか、フィールがゆっくりとクリアスの口から手を下げる。ただし、背中で捻った手はそのままだった。

「フィールさん、あなたは……」

体は動かない。そのため、肩越しにクリアスが話しかけようとした時――

軋む音とともに廊下に面した扉が開く。フィールとクリアスが一斉に目を向ける中、そこには黒い姿が一つ。扉の向こうに佇んでいたのは飛龍だった。

フィールとクリアス、両者が驚く中、飛龍が後ろ手で静かに扉を閉めながら口を開いた。

「フィールさん、やっぱりあなただったんですね……」

飛龍の態度はあくまで冷静で、拘束されたクリアスを見ても動揺はなかった。その様子に驚いたのはむしろクリアスだった。

「飛龍……あなた、このことを知って……」

そう言いかけた時、廊下を駆ける軽い足音が近づいてきた。

「飛龍さん! そっちはトイレじゃないよ。そこは……」

扉を開けて入ってきたのはウィルだった。そして緊張した面持ちで密着するクリアスとフィールを視界に捉え、扉から一歩踏み込んだところで時が止まったかのように静止する。

フィールの息を呑む気配が背後から伝わってくる。それに対してクリアスは自分でも驚くほど素早く反応した。

「ど、どうですか、フィールさん。背中に何か入ってます?」

多少ぎこちないながらもクリアスが顔を向けると、フィールは一瞬の逡巡あと、ゆっくりと体を離した。

「……いえ、特に何も……」

「よかった、気のせいで。虫でも入ってたら私、絶叫しちゃってましたよ。あ、ウィルくん、もう洗い物は終わったから、これを片づけたら私たちもそっちに行くよ。向こうで待っててね」

クリアスは机に置いた皿を手に取りながら、笑いかける。

「……そう…なの……?」

ウィルは不穏なものを感じながらも、それに触れまいとするかのように踵を返し、広間へと戻っていく。扉が閉まった後、小さく力ない声がクリアスの耳に届いた。

「ありがとう……」

振り向き、クリアスはフィールを見る。その感謝の言葉とは裏腹に、苦悩を刻むその表情から、クリアスはその深奥に秘められた、ただならぬ想いを見た気がした。


昨日、三人が来たばかりの警察隊庁舎の二階にある一室。その中央にある机の椅子の一つにフィールが腰をかけている。飛龍とクリアスは、フィールから斜め向かい側にある椅子に座り、アインは部屋の壁際に立っていた。

あのやりとりの後、飛龍がアインにフィールのことを告げ、事情は警察隊庁舎で聞くことになった。シュウにも同席してもらう必要があったからでもあるが、何よりフィール自身が子供たちのいない場所を望んだからだ。

フィールは、近所のエノラという中年の婦人に、連日の世話になることを陳謝したのち、子供たちのことを任せてきた。フィールは子供たちに「少しお話をしてくるから」と何気ない風を装って言い聞かせたが、子供たちも何かを感じたのか、皆、不安そうな顔で見送っていた。特にウィルは普段の元気さは鳴りを潜め、神妙な顔で黙りこくっていた。

「すまない。待たせてしまったな」

遅れてシュウが入ってくる。四人が警察隊庁舎に着いたとき、ちょうどシュウも港から戻ってきたところだった。飛龍が話をすると、シュウは「わかった」といって先にクリアスたちをこの部屋に通したきり、席を外していた。結局、レベッカは見つからなかったそうだが、なんでも港でちょっとした騒ぎがあり、その処理をする必要があるとのことだった。

シュウは扉のところで一度立ち止まり、顔を巡らせると、その眼差しを鋭くする。

クリアスはその仕草に眉を顰めた。もちろん飛龍からおおよその事情を聞いているのだから、これからする話に厳として取り組むのは分かる。ただ問題はその眼差しがフィールではなく、壁際に立つアインに向けられていたからだ。

クリアスが奇妙な違和感を覚える中、シュウはフィールの正面にある椅子に腰掛け、一息置いてから話しかけた。

「まさか、本当にあなただったとは……飛龍からあなたを疑っていると言われたときには半信半疑だったが……」

それを聞いてクリアスは、大通りで飛龍がシュウに何かを伝えていたことを思い出した。

「あのときから飛龍は気づいていたの?」

問うクリアスに飛龍はかぶりを振る。

「あの時点では、根拠と呼べるものは一つしかなかった。でも、食事の後、子供たちと話をしていた時に思い出したんだ。あの教会で僕の剣を見せたことを。それで僕の中で疑いは一層濃くなり、フィールさんと二人きりになっている君が気になって、様子を見に行ったんだ」

フィールは諦観を滲ませた笑いを飛龍に向ける。

「あなたたちがルーテルと来た時、こうなる予感がしていました。飛龍さん、それにアインさん。あなたたち、出会ったときから私のことに気づいてましたね?」

訳が分からず、クリアスは二人とフィールの間で視線を行き来させる。飛龍はクリアスに一度視線を送ってから、フィールに向けて答える。

「最初に出会ったとき、あなたは一目見ただけで、僕とアインの実力を見抜いて身構えた。それは僕らがどんな動きをしようと即応できるほどの隙の無さでした。たぶん、普通に出会っていたならあそこまでの反応はみせなかったとは思いますが、突然のことだったんで、つい体が動いてしまったんでしょう。あの反応を見て、僕らはあなたがただのシスターじゃないとは思っていました。そして、遺跡の前で影の人物と戦った時、あれだけの動きができる人物の候補者として、あなたのことがすぐに浮かんだんです」

クリアスは初めて教会を訪れた時、一瞬、フィールから何か鬼気迫るかのごとく気配を感じたのを思い出した。あの時のフィールはクリアスにも別人のように見えた。

「フィールさん、あなたがあの場所へ来たのは、やはり……」

「ええ、以前あの遺跡に行ったとき、あの壁に書かれた文字のみたいなものを見たんです。そして、あなたの剣にも同じものが刻まれていて、クリアスさんがそれを調べるようなことを言っていましたから、もしかしてと思って……。でもいきなりその壁が崩れて、あなたたちが出てきたときは驚きました。そして、身を隠す暇もなくあなたたちが向かってきたので、やむなく戦ったのです」

「すみません。てっきり魔物だと思ってしまって……」

頭を搔きながら苦笑いをする飛龍。

「でも、そうするとあなたはあの扉の中に何があるかは知らなかったんですね? それならどうしてあそこに?」

フィールは強い意志を宿した瞳で飛龍を見つめ返した。

「それは、あの男、フィリップ・ラウルセンから取り返したいものがあるからです。そして、それは私にとって贖罪すべき過去だからです」

唐突に出た館長の名にシュウが反応する。

「取り返したいものとは? それにシスター。その言いぶりだとあなたとラウルセン館長は以前からの知り合いのように聞こえるが?」

「……知り合いではないです。過去に彼と私はたった一度、顔を合わせただけですから。ただ、私にとっては忘れられない顔と名前でした……」

俯くフィール。その瞳には過去の因縁を映すかのように暗い影が落ちていた。

「この街で彼と再会した時、私はこれが運命だと悟りました。私はその後、ラウルセンの周辺を探りましたが、結局目的のものは見つかりませんでした。そして、あるとき、偶然彼が外出するのを見かけ、その後を尾けたのです。しかし、あの遺跡に入ると彼は忽然と姿を消しました。その時にあの壁の文字を見たのです。おそらく何かの仕掛けがあるのではと思ったのですが、私には全く見当もつきませんでした。あの場所へ行く道は開けていて、離れた森からしか追跡できず、中で何をしているかは見えなかったんです。それ以後は、彼がいつ、あの遺跡に向かうかも分かりませんでしたし、魔物の噂が広がり、警察隊の人があの道に配置されてしまったので、後をけることも難しくなりました。何より、彼はもう、あれを持っていないかもしれない。そう思い、諦めかけていたのです。でも、その時、皆さんが現れた。そして、あの文字の意味が分かるかもしれないと期待し、後を追ったのです」

その説明にシュウが質問を投げかける。

「しかし、今回も遺跡へ続く道には警察隊を配置していただろう? どうやって飛龍たちの後を追ったんだ?」

「私が飛龍さんたちと戦った時に用いたのは、細かく編まれた金属製の鎖です。あれを使って隊員の方がいない離れた場所から塀を乗り越えたのです。そして、ラウルセンをけた時と同じように森の中を通って行きました。もちろん、見つかる危険はありましたが、この機は逃してはならない、そんな気がしたのです」

その答えを聞いたシュウは小さく数度頷き、飛龍も淡々と話を聞いている。

クリアスはそんな二人を交互に見る。二人ともフィールが話した手段をある程度予期していたようだった。考えてみれば遺跡に来たのが誰であろうと、門にいた警察隊に姿を見られるわけにはいかなかっただろうから、正規の経路ルートを使ったはずがなかった。

アインからも何も言葉が出ないことから、ひょっとして気付いていなかったのは自分だけかもしれない。そう思い、クリアスはちょっとした劣等感を覚える。

ともあれ今の話からフィールが遺跡に現れた経緯は分かった。しかし、最も重要なことがまだ分からない。それをシュウが尋ねる。

「シスター、結局、あなたが取り戻したいものとは何なのだ?」

「最初から説明しないと分かりませんよね……。すべてお話しします。彼と私の間にあったことを……」

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