女神が守護する場所

 まだ、昇って間もない朝日が街を温め始めるころ、館長からもらった地図をもとに、クリアスたちは簡素な建屋が続く路地を歩いていた。

 このペオエクスは南側と東側には富裕層が多く、西側には比較的それほど豊かではない住民が暮らしている。ここは港街として街全体が栄えているので、貧富の差はそれほど大きくはないが、それでも街区の雰囲気からか、行く道筋には人気のない空き家もちらほらと目に入る。

「あっ、あそこね」

 指さす先には、こじんまりとしたかなり古い教会。その隣接する土地には野菜でも育てているのか、柵の向こうに小さな畑が見える。その畑を挟んだ教会の反対側に孤児院と思しき建屋とその入り口が見えた。孤児院は畑の向こう側を回ってぐるりと囲むように伸びていて、教会と繋がる形をとっていた。

 クリアスが扉を叩き、声かける。が、返事がない。

「こんな朝から留守ってことはないよね?」

「ここは勝手口みたいだから、教会の扉が表口になるんじゃない?」

 飛龍に従い、教会の入口へと向かう。扉のドアノッカーを叩こうとしたが、古びれて壊れたか肝心のノッカーがない。仕方ないので軽く扉を叩いてそのまま三人は中へと入った。

「すみませーん」

 礼拝堂の中は窓から差し込む光でそれほど暗くはなかったが、少し冷たい空気に満たされ森閑としていた。奥には燭台に照らされた簡素な祭壇がある。

 その祭壇の下で一人の女性が膝をつき、祈りを捧げていた。呼びかけに応じ女性が振り返ると、その姿にクリアスは思わず息を呑んだ。

 ――うわあ、きれいな人……

 輝くような空色セレストブルーの髪を頭の後ろで一つにまとめ、少し憂いを湛えたような煌めきを宿すその瞳は髪よりは少し深い海色マリンブルー。白のローブに包んだその体はすらりと細い。青と白。まさにこの街を象徴する女神のような美しさだった。

 しかし、その顔は何かを警戒するように強張っている。その険しさはクリアスを一歩退かせるほどだったが、まもなくその原因に気づいた。

 振り向くと、女性の視線の先にいたのは飛龍とアイン。二人は何やら「おい、あの……」「うん……」などと小声で話している。

 なるほど、とクリアスは合点がいった。礼拝堂の中は外よりも暗い。さらに二人のいる場所は窓の光が差し込むところから外れており、その表情は分かりにくい。取りも直さず、こんな怪しい見た目の人間がいきなり入ってきては警戒するのも無理はない。まずは誤解を解かなければと、クリアスができるだけ穏やかに初見の挨拶をしようとしたとき、

「あっ! あの時のお姉ちゃんとお兄ちゃんだ!」

 礼拝堂の横手にある扉からはしゃぐような声が上がった。見れば、わんぱくそうな顔に満面の笑みを浮かべた男の子が扉の傍に立っている。その後ろには遠慮がちにこちらを伺う少し年下の男の子がいた。

「あなたたちは、あの時の……」

 クリアスが言い終わる前に最初に声を上げた男の子が駆け寄ってきた。続いて年下の男の子がそろそろと扉の影から出てくると、その後から続々と子供たちが入ってきた。

「この人たちを知ってるの? ウィル、ジェレミー」

 祈りを捧げていた女性が先に入ってきた男の子たちに尋ねる。

「この人たちだよ! 僕らを助けてくれたのは!」

 やたら元気さを振りまきながらウィルと呼ばれた男の子が叫ぶ。

「僕ら、あの後、警察隊の人を呼びに行ったんだ。でも戻ってきたら煙だらけで、あの悪い奴らをお姉ちゃんたちがもうやっつけちゃったあとでさ。ほんと見たかったよ!」

 何かあらぬ話がついているが期せずして来た助け船。クリアスはすかさずそれに乗ることにした。

「あの、私、クリアス・ベンジェアンスといいます。警察隊のシュウさんから聞いてここに来たんですが、あなたはこの教会の人ですよね?」

 そういってクリアスが事情を説明すると飛龍とアインも追随して名乗り、軽く会釈する。

 そこでようやく女性の表情から硬さが消えた。

「そうですか、あなたたちが……。私はこの教会兼孤児院を運営していますシスター、フィール・トラクィルです。昨日はうちの子供たちを助けていただいたそうで、本当にありがとうございました」

 フィールと名乗った女性はそう言いつつ、淑やかに礼をする。その丁寧さにクリアスも釣られて礼をしながら、ふと思ったことを口にする。

「あの、『私は』って言いましたが、あなたがここの責任者なんですか?」

 するとシスター・フィールは少し気恥ずかしそうに笑みをこぼす。

「はい。よく驚かれます。若輩者の私一人でやっていけているのかと。ただ、ここは小さな教会ですし、孤児院といっても子供たちはここにいる六人だけです。それに近所の方も色々と手を貸してくれていますので」

 話をしているうちに寄り添ってきたジェレミーという子の頭をフィールは愛おしそうに撫でる。クリアスはその様子を驚嘆の眼差しで見つめていた。

 孤児院も兼ねている教会というものだから、もっと年配の人が取り仕切っていると想像していたのだが、これほど若い女性が、しかも一人で切り盛りしているとは思わなかった。昨日の女性隊長に続いて、自身の常識を覆される出会いだった。

 子供たちは昨日の出会った二人を含め、男の子が四人、女の子が二人。皆十歳前後かそれより少し幼いぐらいだった。三人を――特に飛龍とアインを見る子供たちの目は、興味深げだったり、怯えていたり、恥ずかしがったりと様々だ。

 やがてそんな子供たちを優しく見つめていたフィールが申し訳なさそうに言う。

「すみません。せっかく来ていただいたのですが、今から朝の祈りなので、お話は少し待っていただけないでしょうか」

「あ、いえ、いいんです。どうぞ、いつもの通りに……」

 フィールが呼びかけると子供たちが集まってくる。フィールを中心に全員が祭壇の前に跪くと静かな祈りが紡がれ始める。内容は、はっきりとは聞き取れないが、その厳かな声音は、特定の宗教を持たず、信仰心というものから縁遠いクリアスにも敬虔な気持ちを抱かせた。

 そんな気持ちで祭壇を見上げていると、不意に不思議なものが目に入ってきた。

 祭壇の上で優しく微笑むのは一体の女神像。ブロンズ製で大きさは手に持てるほどの比較的小さなものだった。それ自体は変わったものではないが、その女神は片膝をつき、大地に両手を差し出すような姿勢をとっていた。クリアスは自分自身、それほど宗教関連に通暁しているとは思っていなかったが、このような女神像はこの地域ではあまり見たことがないものだった。

 そして、その女神像のすぐ横、祭壇の中に一冊の本が立てかけてある。よく見るとそれは子供向けの本のようだった。

 どうしてこんな本を祭壇に置いているのか。子供たちが置き忘れたのだろうか。それにしてはフィールは気にせず祈り続けている。

 やがて、祈りが終わり、フィールがこちらに向き直る。

「改めて御礼を言わせていただきます。昨日はウィルとジェレミーを助けていただき、ありがとうございました」

「いえ、そんな、私たちは特に何もしていませんから……」

「ですが、この子たちが有らぬ謂れで責められていたとき、最初に止めに入ってくれたのはあなただと聞きました。そういうことできる方は真の強さと優しさを持った方です」

 その柔らかな声で称賛され、クリアスは耳朶をくすぐられるような心地だった。なんとなくする必要もない面映ゆさを覚え、話の矛先を先の疑問へと変える。

「あの、あそこの女神像はこの地域では見ないものですね。フィールさんは別の国からここへ来たんですか?」

「ええ、私は三年前にここに移ってきたんです。あの像はイムル公国の地母神の像で、この街へ一緒に来た神父様から譲り受けたものなんですよ」

 その説明に頷きながら、クリアスは最後にフィールの口からでた神父様という言葉が気になった。さっきここを一人で運営していると聞いたばかりだ。ということは――

「ひょっとして、その神父さんは……」

「ええ、亡くなりました」

「そうなんですか……すみません、悲しいことを思い出させてしまって……」

「いえ、いいんです。最後は安らかに眠りについたので」

 故人を思い出しているのだろうが、遠くを見るようなその眼には優しさが浮かんでいる。おそらく言葉通り、幸せな最期だったのだろう。

「その神父様と一緒にこの教会で孤児院を開くことにしたんです。この街は、人の行き来が多い分、孤児となった子供たちが流れてくることもあります。その中には八年前の戦争で親を失い、ここへ連れられてきた子たちもいます。そういった子供たちを助けたいと神父様が言ったのがきっかけです。実はここにいる上の四人の子たちもそのうちの一人なんですよ」

「そうだったんですか……」

 クリアスは沈痛な面持ちで子供たちを見つめる。しかし、子供たちの眼に卑屈さや悲嘆は少しもなかった。

「でも、全然悲しくないよ。今はシスターがいるからね!」

 ウィルが力いっぱい叫ぶと、他の子たちもそれぞれに笑顔で頷く。純粋な瞳で見つめられ、フィールは恥ずかしそうに頬を赤らめる。

 クリアスは改めて祭壇の女神像を見た。それほど造りの良くないこの像から不思議な温かみが感じられるのは、彼らの互いを思いやる気持ちが宿っているからかもしれない。

「それにしても、イムル公国なんて随分と遠い国から来たんですね」

「そう……ですね」

 フィールは僅かに言葉に詰まる。その返事の裏に何か隠されたものがあるような気がしたが、聞いてはいけないような雰囲気を感じたので、クリアスはそれとなく話題を変えることにした。

「そういえば、あそこに本がありますけど、子供たちのものですか?」

 訊かれて祭壇の本に目を向けたフィールの表情に柔らかさが戻る。

「あれは私が子供のときに読んでいた本です。もう古いものなのですが、私にとっては大切なものなのであそこに置いているんです。子供たちもたまに読んでいるようですが」

 その本を見るフィールの眼は何かに想いを馳せているようだった。最初、祭壇には不釣り合いに見えたその本も、そうした特別な感情が詰まったものだと聞くと、不思議とあの場に置かれているのも当然のように見えてくる。

 クリアスがそうした感慨に包まれていると、不意にその肩を飛龍が軽くつついた。

「あのさ、一つ聞きたいことがあるんだけど……」

「え? 何を?」

「今の話の中にあった八年前の戦争って何?」

 それを聞いたクリアスはぽかんと口を開け、フィールは唖然とし、アインは嘆息する。

「どうして知らないの!? あの『幻惑の一年戦争』のことを!!」

 礼拝堂に叫び声が響き渡る。その反響の大きさにクリアスは思わず口を押さえた。

「いや、ほら、僕は辺境育ちだからさ、世事には疎いというか……」

「でも、それにしたって……」

 全く恥ずかしげのないその様子に唖然としながらも、クリアスは飛龍に対して説明する。

「今日、来る途中で魔物が生まれる『終の台地』については話したわよね……」

『終の台地』。そこは魔物以外の生者を拒む『死の帳』と呼ばれる霧に覆われた不可侵の地。

 しかし、十数年前、一人の冒険者が『死の帳』が薄まっていることに気づき、そのことを世界に知らせた。それが本当なら歴史上、類を見ない事態が起きていることになり、報告を聞いた世界の国々は結託して実態の調査に乗り出した。そして、その結果、早ければ十年以内に『死の帳』は消えるのでは、という結論が導き出された。

 霧が消えれば『終の台地』に乗り込み、魔物が生まれる源を断つことができる。俄かに湧き上がった希望に各国は一致団結し、連合国軍の編成を開始した。しかし、世界各国が『終の台地』攻略への準備をする中、予想外の事態が起きる。

 九年前、唯一、『終の台地』への討伐に賛同しなかったダーニオン帝国が、突如、全世界に対し宣戦布告。隣国のプロシス国に侵攻した。

 当時、ダーニオン帝国の軍事力は連合国に比べてあまりに規模が小さく、無謀の極み、狂気の沙汰と言われた。しかし、蓋を開けてみると、ダーニオン帝国は連合国の盟主であるアルフォワース王国並びに各国の軍を驚異的な力で圧倒した。特別な兵器が使われたわけでもないのに、連合国軍は局地的な戦場で悉く敗退し、逆に窮地に追い込まれる。

 だが戦争開始から一年後、ダーニオン帝国は国境付近のプロシス国の領土を支配下に置くと、有利な戦局を築きながら突如として停戦協定を申し出る。不利な状況であった連合国はこの申し出を呑まざるを得なかった。

 開戦から終戦まで終始得体の掴めないこの戦いは、あらゆる面で世界を惑わしたことから『幻惑の一年戦争』と呼ばれている。以降、アルフォワース王国を始め、連合軍に加わった国々は、ダーニオン帝国と未だ冷戦状態の最中にある。

 連合国は敗戦の原因を分析し、一つの結論に達した。ダーニオン帝国が連合国軍を圧倒した理由、それは古代文明の遺産の力を用いたのではないかということだった。

 遥か古代から、世界には年代の異なるいくつかの文明が存在していたことが分かっている。その古代文明が残したとされる、石板から書物に至る記録は以前から発掘され、その言語を解読することによって、現文明は新たな知識を獲得していた。また、古代文明の遺産の中にはクリアスが博物館で話した超常的な力を宿す『創造の花リグレッタ』というものも発見されている。

 古代の遺産は世界に大いなる恩恵を授け、人々の生活を豊かにし、魔物に対抗する新たな力をも与えた。しかし、一部の文明の言語は未だ解読に至っていない。

 ダーニオン帝国は、そうしたまだ世界に知られていない古代遺物の発見と言語の解読及びその実用化に成功し、圧倒的不利な戦局を覆したのではないか、そう推測された。だが、実状は不明である。

 それ以降、連合国はダーニオン帝国以上の古代文明の力を手に入れようと、それまで以上にその探索に力を入れ始める。そして、そうした動勢の中で各国々が目を付けた者たちがいた。それが冒険者だ。

 古代遺物が隠されているのは、大抵は誰も立ち入った事のない未踏の地。そこには野生生物や過酷な環境、そして、『厄災の時候』から生き残った魔物が障害として立ちはだかる。このような状況を打破できるのは、酔狂な人間が戯れに人生の道として選ぶと言われてきた職業、いわゆる冒険者と呼ばれる者たちだった。

 各国が古代遺物の発見に高額な報奨金を定めると、冒険者たちはこぞって探究の旅へと身を乗り出した。一部の者が幸運にも富を手に入れると、それを夢見て、さらに多くの者が名乗りを上げた。かくして世は一大冒険者時代の幕開けとなったのである。

「こんなところかしら。ちょっと余計なことまで話しちゃったけど」

「そんなことがあったんだ……。それに冒険者ってそういう人たちだったんだね」

 クリアスの説明に飛龍は感嘆の吐息を漏らす。一方、アインは聞くまでもないと礼拝堂の長椅子に腰を掛け、あらぬ方向を見ており、子供たちはというと小難しい話はつまらないとばかりにだらけ始めていた。

 するとその退屈さを解消するため、元気印の男の子、ウィルが眼をつけたものがあった。

「ねえ、お兄ちゃん、この剣ほんもの? 持ってもいい?」

 ウィルが興味津々といった眼で指さしたのは、飛龍の背にある漆黒の双剣。この年頃の男の子なら冒険譚などを読んで、剣に憧れを持っていても不思議ではない。

「いいよ。でも、周りに気を付けるんだよ」

 その好奇心の塊に飛龍は躊躇うことなく、背中の剣のうち一本を抜いて手渡す。

「あっ、ちょっとそれは……」

 剣はあくまで人を傷つける武器。それを子供に握らせるという行為にフィールが驚き、慌てて制止しようとするが――、

「うわ、やっぱり重い……。あれ、でもこの剣なんかおかしくない?」

「この剣は鞘から抜けないんだ。だから切れることはないけど、人や物を叩いちゃだめだよ」

「えー、変なの」

 そう言いつつ、めったに見ることのないだろう本物の剣に、ウィルは興奮を抑えきれない顔で宙に向かって剣を振る。いやその姿は剣に振られているというべきか。

 その様子を少しの不安と驚きが入り混じった表情で見つめながら、フィールが呟く。

「あれは……」

「大丈夫ですよ。飛龍の剣は刃が出てないですから、触る分には危険はないはずです。でも、変な剣ですよね」

 クリアスがそういうと、フィールはその一風変わった剣をじっと見つめていたが、危険はないと判断したのかそれ以上は何も言うことはなかった。

 一人が踏み出せば残りも踏み出す。例によって、他の少年たちも一斉に群がり、剣の奪い合いになったので、飛龍はもう一本の剣も子供たちに手渡していた。

 一方で、二人の女の子たちは、さほど興味はなさそうでフィールの側に寄り添っていたが、そのうち一番幼そうな三つ編みをした女の子が、とある方向をちらちらと伺っていた。その先には、特に何の感慨もなさそうに祭壇を見つめるアインがいた。

 アインがその視線に気づき目を合わせると、女の子はびくっとフィールの背後に首を引っ込ませる。しかし、再び顔を出すと、勇気を振り絞るようにつつっとアインに歩み寄る。

「………ねえ、お兄さん。その顔と目、どうしたの? 怪我したの?」

「メリッサ」とフィールが小声で注意する。その質問にはクリアスもドキッとした。

 アインの顔の右半分を覆う火傷の痕。そしてそのためと思われる白く濁った右の瞳。なぜこんな傷を負うことになったのか、クリアスも気にならなかったわけではない。本人は周囲の目など関係ないとばかりに堂々とその傷を曝しているが、気にしていないはずはないだろう。触れられたくないことであれば、子供相手とはいえど、アインがどう出るか……。

 アインが色の違う二つの瞳でメリッサと呼ばれた女の子を見つめる。だが、メリッサは動じることなく、答えを待っている。やがてアインの方が視線を逸らし、抑揚のない声で答えた。

「これは子供ころ、家が火事になった時に負った傷だ。そのせいで右眼はほとんど見えない」

「そうなんだ……治らないの?」

「ああ」

 するとメリッサはなおもアインの顔をじっと見つめる。しかし、それは単に奇異の目で見ているのではなかった。その表情は悲しげに歪んでいる。

 そんな視線を疎ましくというより、苦手だと言わんばかりに、アインはさらに横へと顔を背けた。すると、その向いた先にいたクリアスと目が合う。

「なんだ?」

「ううん、ただ、子供の時にそんな大怪我したなんて、大変だったんじゃないかなって……」

 言ってしまってからクリアスは後悔した。これほど重い傷を負ったアインがどんな子供時代を送ってきたのか。おそらく簡単ではない境遇だったに違いない。それに対して下手な同情は相手を傷つけるだけで何の解決にもならない。続ける言葉を失い、胸の前で右手を握るクリアスにアインが言う。

「そうでもない。この傷のおかげで得たものもあるしな」

「得たもの?」

 これだけの怪我の代償にいったい何を得たのというのか。クリアスには見当もつかなかった。

 すると思案顔のクリアスに代わってメリッサがぱっと顔を明るくし、声を上げる。

「そうだ。その傷が治るように女神さまにお祈りしようよ。きっとよくなるよ!」

 そういって女神像がある祭壇へと強引にアインの手を引くメリッサ。アインはしばし引かれる手を見つめていたが、やがて渋々といった感じで立ち上がる。

 それを見ていたフィールが「迷惑をかけてはいけませんよ」といって、やんわりとメリッサを引き剥がす。申し訳なさそうに頭を下げるフィールに手を繋がれながら、メリッサはしょげた顔で指をくわえていた。

 その光景にクリアスの顔に自然と笑みが浮かぶ。

 迷惑そうにはしていたが、顔のことを聞かれたときも腕を引かれたときも、アインはメリッサという子に対し、怒ったり、邪険にしたりすることはなかった。クリアスはそこにアインの人柄の一端を見た気がした。

 少し温かい気持ちを抱きながら、クリアスは飛龍との会話を再開する。

「ねえ、それじゃあ、飛龍は今まで冒険者ってどういう人か分からず話していたの?」

「う~ん、まあなんとなくで……。でも流石だね、クリアスは。魔法学院の魔導士候補生となると、いろんなことを知ってるんだね」

「一般常識だと思うけど……。故郷はともかく、これまでの旅先でも聞いたことなかったの?」

 いったいどういった人との関わり方をすれば、こんな万人が知る事実を知らずにこられるのか。何とも言えない表情でクリアスが訝っていると、

「待って! 今、魔導士って言った!?」

 突如、年の割に少しハスキーな声を張り上げて叫んだのは、二人の女の子のうち、年上の眼鏡をかけた子だった。戸惑うクリアスにフィールが女の子の肩に手をかけ、紹介する。

「この子はルーテル。この子は魔導士に憧れていて、ずっと前からいつか魔法学院に入ると言ってきかないんです。でも、そうですか……、あなたは魔法学院の生徒さんだったんですね」

 ルーテルという少女はまるで運命の人に出会ったかのように頬を上気させている。そして、一度、唾を飲み込むと、両手を胸の前で組み、祈るように懇願した。

「あの、お願いがあるんです! 一回でいいので魔法を見せてもらえませんか!」

「えっ!?」

 クリアスはぎくりとした。まさかこんな形でとは……。全く想定していなかった事態に嫌な汗が頬を伝う。

「その、私まだ魔導士候補生だし……」

「でも魔法は使えるんですよね!」

 勢い込んで体ごと迫ってくるルーテルにクリアスは身を仰け反らせる。さらに魔法という言葉に好奇心の塊といっていい、他の子供たちも後に続く。

「僕も見たい」「わたしも!」と次々に上がる声に、クリアスはもはや一歩下がれば崖下に真っ逆さまという心境に追い込まれていた。

「別にいいんじゃない? ちょっとぐらいなら見せてあげれば?」

 最後の一突きを加えたのは飛龍だった。

 もはや逃げ場はない。クリアスは観念して大きく息をつき、

「わかったわ。一回だけね」

 そう答えると子供たちから歓声が上がった。

 一同が注目する中、クリアスは眼を閉じて精神を集中し、呪文を唱える。

「大気に潜む光の素子よ。その結束をもって我が前の暗闇を照らし、進むべき道を示し給え――『導きの灯火ティム・ライト』!」

 クリアスは人差し指と中指を揃え、眼前へと振りかざす。伸ばした指先に魔法力の集積を示す青い光が宿り、次の瞬間には指先大の薄黄色の光球となる。

 光球は仄かに明滅し、食い入るように見ていたルーテルの顔の陰影をわずかに濃くする。

「わぁー、すごい、すごい!」

 しばし魅入られるようにその光に見とれていたルーテルから歓声と拍手が沸き上がる。しかし、クリアスの意識は他の観客に向いていた。そおっと伺うように視線を巡らせる。

 開口一番、気弱そうなジェレミーから発せられた言葉は次の通りだった。

「これだけなの?」

 ルーテルを除く、他の子供たちもその表情を見れば同様の感想を抱いているのは明白だった。

「なんか、もっとすごいと思ってたけど……」

「これってろうそくとどっちが明るいのかなあ」

 物足りなさを隠そうともしない声が次々とクリアスの胸に刺さり、暗然とした気持ちが湧き上がる。その気持ちを表すかのように指先の光が消えると、ルーテルが「ああ……」と名残惜しそうに中空に手を伸ばす。

「おい」

 そして、さらにもっと辛辣な響きがクリアスの胸を射抜いた。

「今の『導きの灯火ティム・ライト』は魔法の中でも最も基本的なものだろう? なぜ、この程度の威力なんだ?」

 見ればアインがこれまでにない、冷たい視線で見降ろしてくる。その眼が語るのは明らかな不信。そして、さらに容赦のない一撃が飛んできた。

「お前、ひょっとしてほとんど魔法が使えないんじゃないのか?」

 ついに核心をつかれ、クリアスは項垂れる。その様子にアインが放つ不信の気配は軽蔑へと変わった。

「となると魔法学院の研修生というのも嘘か……」

「そ、それは本当よ! ……ただ、私は実技がちょっと苦手なだけで……」

「『ちょっと』? あの程度の魔法しか使えないのがか?」

 全く手加減のない詰問にクリアスは再び下を向く。

「まあまあ、アイン。彼女にも事情がありそうだし……」

 アインを押しとどめ、その場を取り持つように割って入る飛龍。その心遣いに感謝しながら、クリアスは訥々と話し始めた。

「魔導士には、大きく分けて実践魔導士と理論魔導士というのがあるんだけど……」

 前者は文字通り、実際に魔法を行使して活躍する魔導士であり、一般的に魔導士といえばこちらになる。後者は、魔法の威力を増すための新たな呪文の配列を考えたり、魔力を宿した道具――魔導具を開発したりする魔導士のことだ。資料から古代の魔法を再現する方法を見つけ出すのも理論魔導士が行っていることが多い。ただし、魔法に関連するものを扱うという意味では両者には共通する部分も多く、明確に分かれるわけではない。

「なるほど、それでお前が目指しているのは、その理論魔導士というやつか」

「ううん、私がなりたいのは実践魔導士なんだけど……」

 それを聞いて、アインが顔を顰める。

「意味が分からんな。で、結局お前は本当に魔法学院の研修生なのか?」

「うん……、今話した実践魔導士と理論魔導士のどちらになるにしても、基礎知識や魔法理はしっかりと押さえていないといけないの。それで魔法学院で研修制度を利用できるかの評価の対象となるのはあくまで筆記試験だけなの。だから、その成績さえよければ……」

 飛龍が納得いったとばかりに頷く。

「なるほどね。ちなみにその筆記試験って難しいの?」

「魔法学院は一学年に百人ぐらいいるんだけど、その中で成績の上位五位以内に入れば……」

「それってすごいことなの?」

 飛龍はその質問をアインに向ける。

「さあな。まあ、そうなんだろう。だが、実践魔導士とやらを目指すと言っていたが、さっきの魔法を見る限り、お前に見込みがあるとは思えんぞ」

「アイン、ちょっとそれは言い過ぎじゃないかな」

 歯に衣着せぬ物言いを飛龍が咎める。だが、それに強く反論できないことはクリアス自身が分かっていた。

「魔法学院の生徒ならお前も当然知っているだろう? 魔法を使えるかどうかは完全に才能の問題だ。いくら努力しても才能のない奴には一生使えない」

 クリアスは静かに目を伏せる。そう、魔法には才能が必要。それはこれまでの歴史の中で明確に証明されている。それに抗うというのは、風車を巨人と信じて突撃した騎士と同じと蔑まれても仕方がない。

 以前にも同じようなことを言われたことがあった。しかし、そのとき考え抜いた末、行きついたのは、これまでのすべてを棄ててその先に何があるのかということだった。魔導士になることを諦め、別の道を進む。クリアスにはその未来が想像できなかった。

 ならば進もう、そう決意した。いずれは諦めざるを得ない時が来るかもしれない。だが、少なくとも今は自分の意思で信じた道を歩むことができる。そうすれば、いずれは芽すらないその枝先にささやかながらも花が開くかもしれない。その可能性を信じてここまで来た。

 ――そして、クリアスにはその努力というものの可能性を信じられるがあった。

「でも私は魔導士になるって決めたの。だから……私はこの道を進むの」

 クリアスはその大きい瞳で真っすぐにアインを見つめる。譲れぬ決意を乗せたその視線を、アインは鳶色と白色の瞳で受け止める。沈黙の中、その意志のやり取りは果てなく続くかに思われたが……、

「ところで、いつまでここにいるつもりなんだ?」

 唐突に話を変え、アインが日の差す角度が変わった礼拝堂の窓を見る。

 その時になって初めて、クリアスはそれなりに時が過ぎているのに気づいた。今日はこの後、ミッテル遺跡の別館に行く予定で、あまり長居している時間がないのは確かだった。

「お前が魔法を使えようが使えまいが、別館に行く理由がなくなったわけじゃないからな」

「……そうね。そろそろ行こっか」

 もういとまをすると聞いて子供たちからは不満の声が上がるが、フィールがそれをやんわりと言い聞かせる。

 長閑な優しい光景に少し笑みを浮かべながら、クリアスはちらっとアインの方を伺う。

 いつもと変わらぬ愛想というものが感じられないその表情を見ながら思う。気のせいだったのだろうかと……。今の先を促す声がこれまでになく親密な感じに聞こえたのは……。

「では、私たちはこれで失礼します。すみません、最後は変な感じになっちゃって」

「いえ、そんなことはありません。私も信じることの大切さを改めて教えられました。あなたと私たちが信じているものは違いますが、その心の強さは私たちも見習いたいです」

「そういっていただけると嬉しいです……でも、やっぱりちょっと恥ずかしいですね」

 苦笑いをするクリアスにフィールが優しい笑みを送る。

「もしよろしければまた寄ってくださいね」

「ええ、そうします。ああ、それと館長さんにも伝えておきますね」

「館長?」

 フィールが眉を顰める。

「私、今研修でこの街の博物館にお世話になっているんですよ。そこのラウルセン館長のことです。ここの場所は館長さんから聞いたんですが、お二人は知り合いじゃないんですか?」

「………いえ、面識はありますが、知り合いというわけでは……」

「そうなんですか……」

 てっきりある程度見知った中だと思っていたが、そうでもないらしい。ただクリアスは改めてフィールを見て、館長の方だけ強く記憶に残っていても不思議じゃないなと思った。男は美人には目がない。それは世の常である。

「ところで皆さんはこれからどうするおつもりですか?」

「私たちはこれから博物館の別館があるミッテル遺跡に行くつもりなんです。魔物の噂もあるんですが、私の研究と飛龍の剣について調べるために、どうしてもそこに行きたくて」

「……そうですか、気を付けてくださいね」

「はい。ありがとうございます。それじゃ」

 手を振る子どもたちに見守られながら、クリアスたちは教会を後にした。

 街の南にある門へ続く道を歩きながら、飛龍が少し気まずそうにクリアスを横目で見る。

「なんていうか……、その……」

「魔法のこと? いいのよ、気にしなくて。もう言われ慣れていることだから。ここに来る前も魔法のほとんど使えない私が、どうして奨学金までもらって研修できるんだって、やっかみもあったし」

 ただ、クリアスはそういうことを言う人間を責める気にはなれなかった。

 彼らの気持ちもわかる。やはり魔導士とは魔法が使えてこそと考える人は多い。逆の立場なら自分も同じ心情を抱いていたかもしれない。クリアスはそう自問する。

「お前が何をしようがお前の自由だ。ただ一つ訊きたいことがある」

 飛龍を挟んで向こう側からアインが疑問を投げかけてくる。

「お前は『理の魔法』というものを実現したいんだろう? だが、魔法をほとんど使えないお前がその魔法を発動させる方法を見つけ出したとして、それをどうやって確かめるんだ?」

「それはね……。私には『理の魔法』を共同で研究している友だちがいるんだ。だから……」

「なるほどな。そいつは魔法の方も使えるというわけか」

「うん、彼女はすごく優秀で、知識も魔法の実力も折り紙付きだから……」

「そうか、しかし、そいつはここに来ていないのか?」

「えっ?」

「そいつは優秀なんだろう? だったらお前と同じ研修制度とやらでここに来ることができたんじゃないのか?」

 その問いにクリアスは内心、乾いた笑みを浮かべていた。なぜアインはこうもを的確についてくるのだろうと。

「彼女は事情があってね、来れなかったの。だからここには来たのは私だけ」

 すると、アインはもう一度「そうか」と呟き、この話はそれで打ち切りとなった。

 クリアスは複雑な気持ちを抱きながら、一方で安心感も覚えていた。もう魔法のことを誤魔化すために余計な気苦労をする必要もなくなった。それに飛龍もアインも、魔法をほとんど使えないことを知っても、それでも遺跡へは同行するといってくれた。クリアスの中でこの不思議な二人は信頼できるという気持ちが大きくなり、魔物がいるかもしれない場所に向かう前に、一つ心の整理がついたような気がした。

 その意味であの教会に立ち寄ったことは幸運だったのかもしれない。フィールと子供たちとの良き出会いもあり、勝手と思いつつ、このときクリアスは普段信じぬ神様に感謝した。

 ――ただ、教会でクリアスは一つだけ気になったことがあった。それはラウルセン館長の名前を出した時、一瞬、その名を拒絶するようにフィールの表情から感情の色が消えたように見えたのだ。あれは一体何だったのだろうか。

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