蛙鳴館
川谷パルテノン
懺悔
懺悔室。 私は本物の神父ではない。信仰心を持ち合わせていないという点で本物ではないのだろう。そんな私が神父を騙るのは、誰かに救いを与えることで僅かな自己愛を獲得できるからだった。とんだ似非神父だと自ら懺悔してみせよう。神はお赦しくださるだろうか? それとも侮蔑を込めた高笑いを響かせてこの罪を誅伐なさるだろうか? 私は嗤ってしまう。信仰心がないと云いながら、その顔色を窺っている自分を。口寂しさから煙草を咥え、火を灯したところで告解部屋の扉が音を立てた。慌てて消したためかまだ少し煙たい。しまったと思った。迂闊だった。しかし私はそれで仮面が剥がれてしまうかもしれないことにさえ眩い光を見ていた。破滅願望。否、私はとことんに自惚屋であり、自己陶酔のためならば過程はどうあれ手段は問わないのだ。
ところが訪問者から部屋に篭った匂いについての言及はなかった。私は妙に残念な気持ちがした。訪問者は格子窓の前に立つと、何かを思案しているのか躊躇われるのかしばらく黙していた。私から声をかけると訪問者はようやく口を開いた。くぐもった低い声は聞き取りづらくどこか動物の鳴き声じみていた。電球照明がひとつぶら下がっただけの薄暗い部屋の中でその訪問者は黒染めの合羽を頭から被っており、こちらからはその口許だけが浮かんで見えていた。
夏の季節。九つに区画された町の中でも殊更暑さが厳しいこの地域では作物も出来がわるく、そのためか"神頼"は古くから住民の習慣であった。もともと別の地域からやってきた私にしてみれば、気候による不作を信心の深さで克服しようとする姿は愚かに見えた。ならば気候に合う種を育てればよいではないかと伝えてやることはできたが私はそうしなかった。代わりに簡易の教会を設立し、彼らの信仰心を食い物にしたのだ。おお! なんと傲慢な詐欺師か! しかし私は聖者と悪心を使い分けることで悦に浸ることができた。住民の疑いのない目を前にして獣である私を俯瞰して恍惚な気分を覚えていたのだ。ああ、神よ。この不徳な男をこれからも救い給え。
訪問者にもう少しはっきりと話すよう、私は云った。申し訳なさそうに頭を下げて謝意をみせた訪問者は先ほど迄より大きく口を開いてみせた。歯と歯の間に唾が糸を引くのを目の当たりにして私は思わず眉を寄せた。この辺りの住民にこんな奇妙な風態の輩がいただろうか? 当然、私はこの町すべての住民に精通しているわけではない。私と同じように信仰心など持ち合わせない者がいくらかいてもおかしくないだろうし、それらの理由から教会に赴かない者と私が接触する機会は極めて少ない。ともかく私が耳を傾けると訪問者はもう一度初めからから告白を始めた。
雨季の間は漁を行いませんでした。これを私たちは"神貢"と呼んで、寒くなる時期に荒れる海でも無事に漁を行えるように願かけとしたのです。実際には
私には妹がひとり。名を柑橘と云いました。柑橘は幼少から病弱であった私の面倒をよく看てくれておりました。気立てのよい娘で幾つか縁談をいただいたりしていたのですが、なにぶん父母を早くに亡くし、親戚もいない私たちでしたから不甲斐ない兄に代わって柑橘は私と家を守ると云って聞かないのでした。柑橘には自分の幸せを考えるように話していたつもりですが、どこかで妹を頼りにしている私自身が情けないのでした。
男衆なら漁に出るのが習わしの村で私は肩身も狭く、私だけならまだしも妹までが気の毒な目で見られることを辛く思っていました。柑橘は兄に足を引かれて幸せになれないでいるなどと申す方もいて、私は妹に何度も頭を下げては叱られました。「兄さんはそんなことを気にしなくていい。私の幸せは自分で決めているのよ」と云う柑橘に私は下げた頭を上げることが出来ず、有り難さと情けなさの混じった嗚咽を漏らしていました。
漁を行わない神貢では無論、漁で得ていた益は一切がなくなります。だから女衆は普段から山に入って山菜や果実をいくらか蓄えているのです。私たちには作物を拵える習慣がありませんでした。町外れの村などには当たり前のように伝わっていない技術というものがあるのです。だから私たちは余計に自然からの恵みを最低限という形で賜っておったのです。
私も遠い昔はまだ身体の融通がききましたので、漁こそは出来ませんでしたが山菜採りくらいは女連中にまざってやっておりました。しかし日に日に病状がひどくなって、いよいよ床から立ち上がることさえままならなくなり、私は村の中で荷物と同じでした。漁にも出ない、山にも入らない。無能な私には村からの配分が殆どありませんでした。まだ父母と仲のよかった知り合いがいた頃は温情で裾分けをいただき、妹と二人くらいならなんとか生きてこれたのですが、世代も代わって若衆が村を仕切るようになるとそういったこともなくなってしまい、私たちの暮らしは貧しくなっていきました。
この男は私に愚痴を溢しにきたのだろうか。村のことやら妹のことやらと、話題が飛んで分かり難い。だとすれば私は面白くもない話をこれ以上聞くに堪えなかった。早々に救いを与えて引き取ってもらおうと私は男の話を制するように格子窓を前に手をかざし「もう少し端的に、罪だけを告白なさい」と今一度云った。ところが男は私が見えていないかのように先ほどからの口調を変えず淡々と話し続けたのだ。私は肩透かしを食らったようで暫く唖然としたが更に大きな声で男の言葉を遮ると男はようやく口を止めた。男はなぜか後退りして暗がりに入ってしまい先ほどまで見えていた口許も暗中へと消えてしまった。私が云うのもなんだが不満足から告白を途中で放って帰るとは不徳な輩がいたものだと呆れ、再び煙草に火を灯した。途端、ドンッと音立てて格子窓が揺れた。其処に男の目だろうか、ギョロっとして艶がかる何かが光って此方を向いており私の心臓は止まりそうになった。
「お聞きください……どうか……どうかぁ……今しばらくお聞きください」
身慄いがした。
「……よ、宜しい。続けなさい」
男は満足したのか初めの位置に戻る。咥えていた煙草は口から落ちて仄かに青い煙をあげていた。
山も朱づき神貢が明け、村では禁漁が解かれました。若衆は活気づき、外では舟出を祝う威勢の良い声が聞こえました。私はやはり惨めな思いでそれを聞いておりました。
ある朝、柑橘は云いにくそうに私に告げたのです。私に代わりに漁に出るつもりなのだと。村で女が海に入ることは長い間かたく禁じられてきました。海には嫉妬深い蛟の化身がおって、女を見かければ舟ごと水底に引き摺り込んでしまうなどと伝えられていました。事実、掟を破って行方知れずとなった夫婦がいたことを村の大人ならば誰もが知っておりました。私は必死に諫めました。なにより妹を危ない目に遭わせたくなかったのです。ですが妹はこのままだと暮らしが行き詰まりになるといって聞きません。私は私のことなどよいからお前は婿をもらって幸せに暮らせばよいのだと云いました。柑橘はそれ以上何も云いませんでした。その時は分かってくれたものと信じておりました。
普段の白粥に鯛の身が入っていたのに気付いた私は血の気が引くのを覚えました。信じ難いことでした。いくら妹が海に出ようなどとひとり宣うても、村のお偉方がそれを許す筈などございません。代々守られてきた習わしなのです。けれど妹の身体からは前にも増して潮の香りがするのでした。私は柑橘を問い詰めました。妹は涙を浮かべて何も云いません。それでも血が上った私は妹の頰を張ってしまったのです。今でも妹が私を睨んだその目を忘れません。良かれと思ってやった妹の善意を私は踏み躙ったのです。
私は弱った身体を引き摺って久方ぶりに外へと出ました。陽の光は私の身体を貫いて、そこへ押しとどめようとします。ですが私は確かめねばなりませんでした。掟を破り妹が漁に出ることについて村長や周りの連中が了承したことが私にはどうしても納得いきませんでした。
村長の屋敷に着くなり、私を出迎えたのは長の息子である鬱金でした。鬱金は爽やかで体格の良い、私とは正反対の男でした。
「村長殿はおられるか?」
「どうした橙さん? 悪いが親父は今おらん」
「今はどこに? 今日の漁はとっくに終わったろう。妹もそろそろ帰る頃だろうしな」
「なんだ? 随分ご立腹じゃないか」
私は思わず鬱金に掴み掛かりました。そのとき袖から覗いた枯木のような私の腕はなんとも頼りないのでしたが、気概だけは勇んでおりました。
「お前も知っていて見過ごすのか! 村が守ってきた戒めは何のためだ!」
「履き違えちゃいけないよ橙さん。柑橘はあんたのために願い出たんだ」
「私は、私のことなどどうなってもよい! しかし妹は違う!」
「……あんたこそ戒めだなんだと楯にして結局はてめえの都合じゃないのかい? 橙さん。今はもう古い因習に縛られる時代じゃないんだ」
私の腕は簡単に振りほどかれてしまい、鬱金は子供をあやすように私に云いました。確かに妹や鬱金のような若い世代は考えも違うのやもしれません。けれど村長やその周りが許す筈などあるわけがない。彼らは知っているのです。かつて掟を破り海に出て帰らぬ人となった夫婦、それが私たち兄妹の両親であることを。当時の妹はまだ物心つかぬ赤子で、そのことを私は伏せておりました。それゆえ説き伏せようと必死な私の態度が柑橘には常軌を逸して見えたのでしょう。全てを知る村長たちならば私と同じことを云う筈なのです。
「なるほど……そうだったのか……橙さん。親父には俺から伝えておこう。それはそうとあんたに会わせたい人がいるんだ。せっかくだ。あがっていってくれ」
私は鬱金に連れられて座敷に通されると、其処にはひとりの女が正座しておりました。枯草色の長い髪。両の眼は秋の紅葉の朱さでした。肌は透けるように白く、どこか現世離れした佇まいでした。
「お初に。私、金糸雀と申します」
「金糸雀さんはね、山向こうから薬を売ってまわっているそうなんだ。ちょうど橙さんの話をしておったんだよ」
「ではこの方が? なんでも心臓を患っておられるとお聞きしました。よろしければお試しいただきたい薬がございます」
私は金糸雀と名乗る女の垢抜けた美しさに見惚れていたのに気づき、慌てて言葉を継ぎました。
「薬……でございますか?」
私の病は心臓にありました。そこが弱って身体に上手く血を巡らすことが出来ぬというものです。村長が連れてきた医者も手放した難病で、ゆえに金糸雀の言葉には些か疑いを持ちました。皮膚を裂いて臓を弄ると云われたほうがまだ私には信じられた。それが薬ひとつでどうこうとは到底思えぬのでした。
「ええ。これはまだ世に出回らぬ貴重なものです。ですから訝しむ心中も私はお察しします。なのでおひとつ特別に差し上げますからよろしければお試しください。それできっと良い兆候が見られると私には自信がございます。そうでなければお忘れください。もし私の申すとおりであれば今一度お声かけくださいまし」
私は家に戻る道すがら、ずっと金糸雀の顔を浮かべておりました。恥ずかしながらこのような身体で色恋など遠に諦めた私でしたが、それがどこか疼くようでもどかしいのでした。
家に着くと妹が飯を拵えておりました。互いに交わす言葉もなく私は別の靄を抱えたまま床に就き、金糸雀から貰い受けた薬の包みを見つめておりました。
私は次第に男の独白に惹かれているのに気付いた。脅されて聞くより他ないといったつもりだったが、今や芝居の客のように固唾を飲んでいたのだ。さてこの男の罪とは如何なるものだろうか。私は推理を巡らせるも未だ不可思議に包まれて、次は? それで? と期待するのだった。懐から燐寸を取り出して火を灯す。咥え煙草のまま上目を遣るとぼんやり男の表情が前に浮かぶ。虚ろげで生気はない。だがその話術は私を虜にしていた。
私が目の覚める頃、柑橘は家にいないということが続いておりました。無力な私はそれを見過ごすしかありませんでした。枕元に置かれた、以前よりも彩りの豊かな食事が私には忌々しく、荒んだ心持ちは感情のままにそれをひっくり返しました。またそれも私が眠ってしまったうちに妹が片付けておりました。同じ屋根の下に住みながら、妹との姿形はおぼろげになっていきました。事情を汲んで村長を説得すると云った鬱金は一体なにをしているのか。そもそも村の連中はどういうつもりなのか。何故私以外の誰ひとりとして禁忌、女の漁を悪しとしないのか。それらを確かめようにも私の身体はあまりに衰え過ぎていました。床に伏せたまま長い長い時間を過ごしていた気がします。ゆえに誰とも会うことはありませんでした。唯一の依処であったはずの妹でさえ。そのことに気づくと同時に私の元から離れていこうとする柑橘の幸福を願って「嫁に行け、私のことなど気にするな」などとかけた言葉の数々が単なる虚栄心だったと気付かせるのでした。私はひとりぼっちでした。その孤独の中で寸分残された誇りが今か今かと私を消滅させるべく囁くのです。楽になりたい、それが私の本音でありました。
そんなときでした。ただ生きてそこに在るだけの私を訪ねて彼女は戸を叩いたのです。金糸雀でした。妹は漁に出ていたために私はその日も一人で留守をしておりました。訪ね人などあっても到底もてなす技量などありはしなかったのです。私は眠ったふりをして表にいる金糸雀が立ち去るのを待ちました。やがて呼び声は止み、私もほっとしたのか知らぬ間に眠っていました。夢うつつ、何故か枕元では金糸雀の声が再び囁きました。これは夢だなという心地が私には備わっておりました。夢の中ならまだ相手も出来ようと私は金糸雀の呼び声に応えました。
「お薬は飲まれなかったのですね」
「面目無い。まだ懐にしまっております」
「いえいえ。よいのです。見ず知らずの女に渡された得体の知れぬものなど口にしようとは私とて戸惑います」
「そのようなことは……いえ、正直にお話ししましょう。私はまだ生きたがっているようです。妹との別れが惜しい。まして今のような仲を違うようなままでは尚更のこと。金糸雀殿にいただいた薬、幾度と口に運びかけては万に一つを怖れてしまいました」
「よいのです、よいのです。橙様の柑橘様を想われる気持ち、私の胸にもしかと刻まれました。私にも兄がおりました。まだ私が小さい頃に戦さ場で命を落としたゆえ顔も薄っすらとしか覚えておりませんが……きっと柑橘様は橙様のことを今も愛していらっしゃいます。私が私の兄に対してもそうであるように」
私は言葉を継ぐことが出来ませんでした。久しく触れていなかった人の優しさが肌に染む思いでした。
「橙様。橙様はときに"蛙鳴館"というものをご存知であられますか?」
「アメイカン?」
聞き覚えのない言葉でした。
男はそこまで語ると少し黙った。私がどうしたのか? と聞くと申し訳なさそうに頭を下げた。何か厭なことを思い出す、そんな様子だった。蛙鳴館。私もそんなものは聞いたことがない。男が教えた字面から何やら建物かというくらいの想像は出来たがそれが男の話にどんな影響を与えるものかは見当もつかない。兎角、私は男に話を続けるよう云った。すると男は水を一杯くれという。私は話の続きが聞けるのなら二杯でも三杯でも汲んでやるという気で、男に少し待つように伝えて裏手から水を汲みに行った。再び部屋に戻ると相変わらず男は具合悪そうにしている。格子の隙間から水を渡すと男はそれを一気に飲み干した。かと思うと途端えづき始め、床に思い切り吐き出した。暗がりでよく分からないが胃液に混じって血の匂いがした。私は男に大丈夫かと聞くとまたもや申し訳なさそうに水のことを感謝して続きを語り始めた。
げこ……
男の話す声に混じって蛙の鳴き声が聞こえた気がした。確かにこの辺りは田畑があり、蛙なども寄ってくるのだろう。だが私は教会の中から蛙の鳴き声など今迄一度も聞いた記憶がなかった。だからその時になって蛙がこの辺りにいてもおかしくないということを想像させられた。しかし私の中で些末なこととして興味はすぐさま男の話へと移っていったのである。
私は金糸雀が教えてくれた蛙鳴館を金糸雀と共に目指しました。何せ蛙鳴館には不可思議な医術が精通しており万病を治癒するどころか凄まじいほどの滋養を与えるという話でした。私は初めこそ眉唾で聞いておりましたが、金糸雀が嘘を宣うとも思えず、次に浮かぶは柑橘の顔。私に足りないのは生命たる活力であると、それがものになるならと重い体を奮い起こして旅に出ることを決意したのです。家には書き置きを残しました。妹よ、再び
旅は辛いものでした。何度も命を落としかけた。体を動かすだけで痛みで軋む。もう長くはないとの悟りさえございました。それでも金糸雀に励まされながら私はついに、大蓮の繁る沼地の向こう、蛙鳴館に辿り着いたのでございます。
中は薄暗く足下は深淵のようでそのまま奈落に転げ落ちるような心持ちでした。私は金糸雀にここが蛙鳴館で間違いないのかと問いかけた時、彼女が既に居らぬことに気づきました。私は金糸雀を探そうとするのですが体がうまく動いてくれない。足を前に出そうとするけれど足がどこにあるのかもわからなくなっていたのです。急に寒気がしてきたかと思うと、先ほどまで深淵のように暗かった屋敷の床が一つの大きな目玉になってこちらを睨んでおりました。私は悲鳴をあげて助けを呼んだ。金糸雀、金糸雀。けれど返事はございません。柑橘、柑橘。どうか莫迦な兄を赦してほしい。私はその目玉がぱかっと半分に割れて口のように開いたところで丸呑みされてしまったのです。そのあとのことはよく覚えておりません。気がつくと水辺に倒れており、先ほどまでいたはずの蛙鳴館は影も形もなくしておりました。私はそこで身を捩るようにして起こした時、自身に起きた違和感に気づきました。病に伏していた頃に比べてひどく体が軽いのです。立ち上がってみても血を吐くどころか痛みさえない。金糸雀の話は本当だったのだと小踊りしながらぴちゃぴちゃと水を跳ねさせました。ですが
男は口をつぐんだ。
「どうした。先を話せ」
私は気になって仕方なかった。そのような不可思議な体験で命が助かるならばそんなうまい話はない。ない話だが男はこうしてここにいる。私は男からその蛙鳴館の場所をなんとしても聞き出したかった。
「足下の水たまりに私の姿を見ました」
「それで」
「もう妹には会えませぬ」
「なぜ」
「あのクソ女め! 私を騙しやがったんだ! 妖怪め! クソクソクソクソッ!」
「落ち着け! どうした!」
「こんな姿にされて! 落ち着いてなどいられるものか!」
ただ目の前を描写する。ここは告解の間で、格子の向こうに男が倒れている。それが男であると認識できるのは、先ほどまで話していた声と内容からである。しかし男はもう何一つ言葉を発しない。微かに煙がたつ。私が咥えていた、今は床に落ちた煙草の煙ではない。その煙は私の右手から登った。鉄砲の先の穴から登っていたのだ。私は神父でありながらそのようなものを懐にしまっていた。いつ何時身の危険に晒されるやと思えば何よりの護符であった。そして私は身の危険を感じた。男の話にのめり込み、やがて語られる"蛙鳴館"なる謎。そして男がこの告解部屋に至る理由を私は聞くべきではなかったのだ。そうであったことを予見できなかった私はいまや人殺しに身をやつした。男を生かしておくことは私の死を意味したからだ。
さて私はこの後どうするべきかを迷った。男の死体を始末して普段の生活に戻るか、それともこの愚行を告白し日のもとに晒して神の命に従うか。生憎の深い夜だ。人は甘えに走るに容易い状況である。私は裏手から周り男の遺体を調べることにした。蝋に火を灯し男に近づける。黒い布に覆われて姿ははっきりとしないが、要所に剝きだした肌は青黒い。妙に血管の浮き出た皮膚に私は死を嫌悪する。思い切って顔に被さる布をめくった時、私は悲鳴を圧し殺そうとして吐き気を催した。涙袋や鼻腔から溢れるものを堪えきれなかった。こんなに醜悪なものを私は今の今まで人と認識していたのだろうか。その面構えは目や口こそあれど人間と呼ぶには遠い様子だった。男の話では彼は病であれど他人と接し、人と認められていたはずである。よもや生まれつきこの顔つきであれば誰も近づきはしないだろう。しかし私にはそれも想像できた。なぜなら男の話の結末を聞いたからである。男がいつこのような
蛙鳴館 川谷パルテノン @pefnk
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