#2 鹿嶋市郊外の空き家の話

 正面のソファに腰掛ける師匠は、俺たちのやり取りを眺めて遠い目になった。


「巽の文章能力がカスすぎて、フルカが読書をするよう勧めたんだよ」

「カスとまでは言われてねぇっすよ」

「本当のことだろうが偏差値37」

「巽よくユキ大に合格できたな……!?」


 俺たちの通う幸丸大学は受験当時、文系の学部に限れば偏差値は55前後だった(師匠の在籍する理系はもっと上)。どの時点で巽の偏差値が37だったか知らないが、短期間でずいぶん引き上げたことになる。

 巽はぶすっとした顔で文庫本を閉じた。


「夏に事故って入院して、姉御に出逢ってユキ大に誘われて、二学期から大騒ぎで勉強したんだよ。総長がめちゃくちゃ頭よかったから付きっきりで見てもらった」

「頭いい総長ってなにそれコワ」

「二個上の先輩だ。ちなみに現在、国立大学の建築学部三回生だ」


 ウワアアア……。きっと表面上はすっげぇ人畜無害なインテリ眼鏡で、生徒会長なんかもやっちゃって、先生方からの信頼も厚くて、でも実は裏で学校のワルどもを従えてたりするんだろうな……。なんだよそれヤンキーマンガの敵キャラかよ。

「巽の成績はともかく──」師匠はソファの肘置きで頬杖をついて、すらりと組んだ脚の上の雑誌をぱらぱら捲った。閑話休題。


「問題の空き家だが、鹿嶋市の外れも外れにある小さな家だそうだ。何年も前から放置されていて人が暮らしている様子はない。父親が家族全員を殺して自殺した家だとか、障害のある子どもが監禁されていたとか、女子高生の惨殺死体が発見されたことがあるとか、ちょっと信憑性の低い噂がいくつかある」

「ヤダ物騒……」

「八束隧道や藤沢台1踏切ほどではないがこの辺りの心霊スポットとしてはそこそこ知名度があって、最近は暇を持て余した地元のやんちゃ坊主や大学生が度々、肝試しに訪れるらしい」


 こちらを見もせずつらつら語る師匠の、伏せられた長い睫毛が、白い頬に翳を落とす。


「とりあえずはっきりとしているのは、その家を訪れると、どこからともなく声が聞こえてくるというものだ」

「声、ですか。わりとありがちですね」

「そう。嫌になるほどありきたりだ。だけどけっこうな人数が声を聞いたと証言している──らしい」


 つ、と師匠が顔を上げた。形のよい左目がこちらを向く。視線はかち合うことなく、俺の背後に投げられていた。

 色素の薄い眼球が、ゆっくりと、右から左へ移動する。

 まるで何かが俺の背後を通り過ぎていったかのように。



「『かえして』」



 鈴の転がるような声が放つその言葉に背筋が粟立った。

 師匠の薄い唇が動くのを見ていたはずなのに、彼の視線が辿った背後から聴こえてきたような気がする……。


「……ってね」


 思わず後ろを振り返った。

 俺たちがいつも集まる書斎には、窓際の読書スペースであるこの一帯以外は、天井まで聳える書架が迷路のように並んでいる。二人掛けのソファに腰掛ける俺と巽の背後にもやはり壁に沿って立つ書棚。大きな地震でもくれば生き埋め間違いなしの危険ゾーン。

 ソファと書棚の間には通り抜けできる幅が確保してあるが、当然、誰もいない。

 俺の隣には『羅生門』が進まない巽。ローテーブルを挟んだ向かい側には雑誌を捲る師匠。


「……と、まァそういう噂を数年前、ぼくの師匠が近所の子どもたちに吹き込んだそうだ」

「……へえ~~、師匠の師匠……」


 なんだこの人またビビリな弟子を揶揄って遊んだだけか……、と座り直して俺は師匠を見た。

 もう一度見た。

 しれっとした顔で雑誌を眺めている。今この人なんつった、『ぼくの師匠』?


「えっ、師匠、師匠がいたんですか?」

「あの人は心霊スポットの誕生過程に興味を持っていてね。その『小さな家』も長い時間をかけて経過を見守るつもりだったらしい。全くなんの謂れもない、ただ単に放棄されただけの空き家についてそれっぽい噂を流したらどうなるか、という実験だった。事実無根の噂として普通に廃れるか、それとも思いもよらぬ進化を遂げるか」


「やべー人じゃん」巽がぼそっと呟いた。

 慥かに。心霊スポットの誕生過程に興味を持つまではまあ……師匠の師匠なのだし然もありなんといった感じがするが、それを実際に行動に移して噂を流しちゃうのはやべー人だ。


にあるのはただ家主が二十年前に亡くなったという山の中の民家だ。独居老人の孤独死で発見に時間がかかった以外は特に不審な点はないし、当然一家心中も監禁も惨殺事件もなかったらしいよ。あの家を相続した親族がいたのかも謎だ。師匠自身、あの空き家がどういう理由で打ち棄てられたのかも知らなかった。──だというのに噂を流して七年が経った今、不思議なことに肝試しから帰ってきた人びとは『かえして』という声を聞いたと証言している──さあ、ここで問題です」


 師匠は雑誌をぱたりと閉じて、前髪に隠されていない左目を弓なりにして笑った。

 気付けば日が暮れて、書斎のところどころには深い闇が降り始めている。柔らかな夕陽は翳に飲み込まれて、正面にいる師匠の体にも濃い影を落としていた。


「もともと何もなかった鹿嶋市郊外の空き家には、『かえして』と言う霊が本当にいるのだろうか?」

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