空洞

斗話

空洞


 心にぽっかりと穴が空いていた。

 比喩ではなく、本当に空いていた。サッカーボールくらいのサイズの穴が、みぞおちの辺りを中心に広がっている。不思議なことに、高校の制服を着ると、制服ごと胸が空洞になった(他の衣類はその限りではない)。食事や排泄器官にも何ら問題は無く、日常生活には支障がないというのも不思議だったが、一番の不思議は、「どこに落としたんだろう?」と、楽観的に空洞を見つめる自分自身だった。


 心(おそらくそうなのだと思う)に穴が空いてから一週間が経った。奏多は茹だるような暑さの中を当てもなく歩きながら、自動販売機の下や、道路脇の側溝を覗いていくが、どこにも心は見当たらない。カバンの中も、机の中も、探したけれど見つからない。

 夏休みで良かった、と思っていた。制服さえ着ていなければ空洞は見られないし、何だかこの空洞は恥ずべきものだという感覚があったからだ。奏多は暑さで噴き出すそれとはまた別の種類の汗を拭う。


 今日は八月三十一日。


 明日になれば、制服を着て学校に行かなければならない。そう考えると胸の鼓動が早くなる。空洞が、鳴っている。

結局、その日も心を見つけることができずに帰宅した。どんな状況であれ、お腹は空くものだな。奏多はそんなことをぼんやり思いながら、両親と共に食卓を囲む。


『本日未明、都内の高校に通う男子生徒が、首を吊った状態で発見されました。警察は自殺と断定して捜査を進めており……』


 バラエティ番組が始まる五分前、ニュースキャスターが神妙な面持ちでそう告げた。画面には男子生徒の顔写真が表示されている。

 人が死ぬニュースを見る度に、奏多の胸は痛んだ。厳密に言えば、蚊帳の外で胸を痛めてみせる自分自身に胸が痛むのだ。自分は幸せ者だなとつくづく思う。五体満足で、優しい両親がいて、親友と呼べる友達もいる。お金持ちと言えるほど裕福でなくとも、雨風が凌げる家と、暖かい食事を当たり前に享受している。この男子生徒は、どんなことを思いながら首を括ったのだろうか。自分には分かるはずもないもないかと思ったのと同時に、胸に空いた空洞を思い出した。もしかしたらこの穴は、何も欠陥が無いという、欠陥の現れなのかもしれない。




 相変わらず次の日も穴は空いていた。制服に着替えると、やはり制服ごと空洞になってしまう。寝坊したふりをして家を飛び出し、学校へ向かうバス停とは反対側に歩き出した。

 暫く歩くと、K駅という駅が見えてくる。奏多の住む街を通る最古の路線で、大手の鉄道会社が中心地へのアクセスがより良い路線を敷いてからは、利用客はほとんど皆無に等しい。電車が来るのも一時間に一回来ればいい方だ。

 奏多は慣れない手つきで入場券を買った。今日は、どこまでも遠くに行こう。


 緑、緑、緑、緑。

 銀色の枠から見える穏やかで退屈な景色を変えたのは、一人の乗客だった。

 その乗客は女子高生だった。見知らぬ高校の制服で、スカートから伸びる細くて白い足、胸の辺りまで伸びた黒髪、前髪は綺麗に切り揃えられおり、どこか神秘的な気配を纏っていた。

 そして、彼女の胸にもぽっかりと穴が空いていた。


 ――僕以外にも、穴が空いてる人がいたのか。


 奏多の感動をよそに、女子高生は奏多の斜向かいの席に座ると、スクールバックから紙の箱を取り出した。箱の中身はドーナツだった。女子高生はぼんやり窓の外を見ながら、ドーナツを食べ始める。


「あの……」


 奏多が声をかけると、女子高生はゆっくりと顔を上げた。奏多の胸の穴を見ても、表情は変わらなかった。


「君も探してるの?」


 女子高生が不思議そうに首を傾げたので、奏多は自分の胸の辺りを指さした。


「ここの空洞」

「君は探してるの?」

「そりゃもちろん」

「見つからないと思うよ。あ、食べる?」


 女子高生がドーナツを差し出してきたので、有り難く頂戴する。


「見つからないってどういうこと?」

「だって、その穴はあなたの一部だから」


 そう言うと、女子高生は最後の一口を食べた。


「そのドーナツにも穴が空いてるでしょ? それと一緒。触れることはできないけど、その穴がドーナツをドーナツたらしめてる。あなたも私も、胸に空いた穴を含めて、あなたと私なの」


 奏多はドーナツを見つめた。お腹が空いていたけれど、何だか食べることができなかった。


「そういうものなのかな」

「そういうものだよ」




 どれくらい時間が経ったのだろうか。相変わらず二人しか乗客のいない電車に揺られながら、時々思い出したように一言二言、会話をする。女子高生の名前は春香というらしい。奏多が自身の名前を名乗ると「どこまでもいけそうだね」と、春香は微笑んだ。そう言われると、確かにどこまでも行けそうな気がした。彼女はどこに向かっているのだろう。

 当たり前だが電車には終点がある。電車を降りると、眼前には海が広がっていた。鼻腔を抜ける潮の香りが心地いい。


「そういえば、春香は何をしにきたの?」

「目的は何も無いよ、何となく遠くに来たかっただけだから。奏多は?」

「僕も何も無い」

「じゃあ、あのテトラポットまで行こう」


 三日月のような形状の海岸の先に、小さく堤防が見える。歩けば相当な時間がかかりそうだが、断る理由はなかった。




 二人は海沿いの道をひたすらに歩いた。


「なんで私たちの胸に穴が空いたんだろうね」


 奏多が思っていた疑問を口にしたのは、春香の方だった。


「分からないな」

「もしかしたら、この世界に生きている人はみんな、胸に穴が空いていたんだと思うの。けど、知らないうちに穴は塞がって、存在さえも忘れてしまう」

「僕たちはたまたまそれに気がついたってこと?」

「そう」

「だとしたら、僕たちは相当生きづらいね」

「……そうだね。本当に、そうだね」


 そのまま無言で僕らは歩き続けた。




「そんなとこに立ったら危ないよ」


 目的地に到着した頃には、空がオレンジ色に染まってきていた。春香はテトラポットの上に立ち、海(あるいは空)を眺めている。

夕日が海に沈んでいく。

 海を眺めながら立つ春香。その胸に空いた穴から、夕日が見えた。まるで、初めからそうあるべきだったかのように、すっぽりと空洞にオレンジが収まっている。

 それは、これまでの人生で一番美しい景色だった。欠陥のように思えた胸の穴も、悪いものではないのかもしれない。


「あのさ、私たちは生きづらいって言ったよね?」


春香は背を向けたまま奏多に尋ねた。


「うん」

「じゃあ、胸に穴が空いてなければ生きやすいのかな? 私はこの空洞を忘れて生きるくらいだったら、死んだ方がいいと思うの」


 奏多は自身の胸に目を落とした。そこに空洞は無かった。

 恐る恐る触れてみる。

 空洞は埋まっている。

 テトラポットに激しく波が打ちつけた。

 奏多が顔を上げると、そこに春香はいなかった。

 テトラポットの上に一人取り残された奏多はそのまま暫く夕日を眺めていた。

 

 彼女は何を失っていたのだろうか。いや、むしろ何も失っていなかったのかもしれない。何も失っていない状態で居続けるには、あの決断をしなければならなっかたのかもしれない。

奏多の思考はそれから何日も同じところを行ったり来たりした。けれど、それまでのように奏多の胸は痛まなかった。


 ――私はこの空洞を忘れて生きるくらいだったら、死んだ方がいいと思うの。


 彼女が最後に残した言葉は、奏多の頭の中をグルグルと回り、やがて、胸の奥底、かつて空洞だったそこに、深く、深く、思い出せないほど深く、沈んでいった。

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