流されゆく想いのなかで

嵯峨嶋 掌

進 路

 放課後にはできれば誰にも会いたくない、呼び止められたくない……それが、健太けんたの唯一の望みだった。終業ベルが鳴ると、まず、トイレへ駆け込む。このとき、通学カバンを忘れてはいけない。あまりにも急ぎあわてすぎて、クラスメイトの何人かがおせっかいにも校内を捜しまわってことが、何度かあって、それ以来、リュックサックにして、背負って走れるようにした。

 バタンとトイレのドアをしめ、そのままじっと息をひそめる。ときには宿題をしたり、課題図書を読んだりもする。電灯がつかないときにお役立ちなのが、なんといっても百均で売っているアウトドア用の懐中電灯だ。一番のお気に入りだった頭に鉢巻はちまきのようにかけるタイプは、いつの間にか値上がりしてしまって、いま、健太が使っているのが、園芸用ソーラー電灯だった。単三充電池内蔵で、日中、太陽の光で自動充電してくれて、が落ちると、ポッとともるのだ。

 この園芸用ミニ街路灯は、いまでは健太の必需品で、みんなが下校したあと、そっとトイレを抜け出し、薄暗い廊下を歩くには欠かせない。一度、用務員が、

「ひゃあ、な、なんだぁ!」

と、人魂ひとだまかなにかを見たかのように腰を抜かしたことがあった。

 そのときは、忘れ物を取りに来ました……と、平謝ひらあやまりした。でもそのおかげで、顔を覚えてくれたこともあって、たとえ不審に思われてたとしてもスルーしてくれる関係にまでなった。

 健太はいつものとおり小走りで西棟へ向かった。

 階段を駆け上る、音を立てないように。これにもわざがあって、かかとをつけず五本の指に力点りきてんを置けばいい。勢いが加速されて太腿ももへの負担も少なくなる。

 屋上に出れば、目の前に拡がった森が目に入る。立ち入り禁止区域になっているのは、そこが、県指定の文化財保護区であるからだ。

 森は……古代の古墳だ。

 被葬者ひそうしゃは不明だ。古代、この一帯に君臨した豪族、一地方いちちほうの長老、覇者らしかった。不定期に発掘調査が行われていたが、健太はそんな古いものにはまったく興味はなかった。

 いま、一番の関心は……が落ちる前にこの場所にやってくる女性のことだけだった。

 幽霊なんかではない。

 前学期、二か月間、その中学校にきた教育実習生。大学三年。長谷川京美きょうみ。ありふれた名字の、わりと素直に読める名……。

 美人でもグラマーでも、なんでもない。

 度の強そうな黒ぶちのメガネをかけ、ヘアスタイルにもそれほど手をかけず、そばかすが散らばる額や頬も、厚化粧で隠そうとはしない、生徒にもまったく人気のなかった実習生だった。いや、健太以外には……といっておかなければ、かれがかわいそうだ。いまでも、秘めた恋心で、階段を一気にかけのぼってくるのだから。

「あら、また、来たの」

 物音に気づいてちらっと振り返った京美は、すぐに視線を森へ戻した。

「え……えへへ」

 なんとも奇妙な笑いが、健太の口元に浮かぶ。これも、いつものことだった。

「センセ……よく、飽きないですよね」

 ほんのちょっぴり大人びだ物言いを健太がするのは、照れ隠し以外のなにものでもない。

 たぶん、おそらく、パファープス、京美は自分に向けられた健太の熱い視線の意味に気づいていたはずだ。けれど、露骨ろこつに迷惑そうな顔をしないのは、年上の配慮というものか、それとも、もともと恋とか愛とかオトコには関心がないのかもしれなかった。

 むしろ、だから健太も中2男子として、そこそこの謙虚さと節度ある態度で接することができたのだ。

「あなた……もね」

 ぼそりと京美きょうみは言う。視線は目の前の……前方後円墳。

「センセ、決まったんですか?」

 なにげに健太がいた。いま、一番、知りたいこと……京美が海外留学をするのか、しないのか……。

「うん、決めた」

「え……! んですか、行かないんですか?」

 するとようやく京美が振り向くと、ニコッと笑った。残陽の光のたばが、京美の顔にささって、まるで古墳から湧いて出た古代の女王のように健太には見えた。そのことをどうやって説明しようかと考えていると、京美が意外なことを言った。

「いまの言い方……いく、いかないって……他のひとが聴いたら、エッチなことかと思うわよ」

「あ……!」

 そんなことを口にするようなタイプではないとおもっていた相手から、刺激的なフレーズが飛び出すとは、健太は想定してもいなかった。いや、むしろ、新鮮な驚きだった。

「ごめん、ごめん、変なこと言って。今日で見納めなの。この景色……」

「え……? じゃ、やっぱり行くんですね」

「ええ、行く行く、だわね」

 地元の国訛ほうげんをまじえて、京美が答える。

「何年、ですか?」

「三年かな、ロンドンの博物館の資料整理室で二年、あとの一年は発掘……かな」

「じゃ、こっちの大学は卒業しない?」

「ううん、単位の振り替えができるから」

「あ、そうなんだ……」


 健太の口調が急に湿っぽくなった。もう会えない……という実感が、ぽつんぽつんと小降りの雨のように、じんわりと襲ってきたのだ。

「そんな顔しないで。ね、戻ってきたら、一緒に発掘しようよ、この古墳、なんか出てくるわよ、すっごい壁画かも」

 京美は言う。わざと面白げな言い方をしているのは、あるいは当分ここには来られないという感傷があったのかもしれない。

「そっすか」

 健太は健太で、あえて素っ気なく言うしかできない。

 二人はなにも言わない、言えない。

 やがてが落ちると、一気に暗闇のとばりが立ち込めてきた。健太自慢の園芸灯の出番だ。

 それをロウソクのように高く掲げた健太のおでこに、いきなり京美は唇をつけた。

 チュッ。

 それだけ。

 チュッ。にこりと笑いながら、京美は自分の懐中電灯をけ、そのままくるりときびすを返した。

「あ」

 健太は声をかけようとしたけれど、出なかった。喉奥に何かが引っかかったようで、重たく、ことばそのものが埋没してしまったかのようだった……。




 それから三年が過ぎた。

 高三になった健太は、もう進路は決めていた。両親おやには猛反対された。

『考古学? それで食っていけるのか? 法学科とか、経済とか、もっと就職に有利な道があるだろうが?』

 父はそう言う。

 母も同意だ。

 けれど、健太はこだわりを捨てなかった。

 ……夏の夜、かれは母校を訪れ、西棟の屋上に駆け上がった。

 夏なのになぜか冷たい風が健太の頬を撫でた。

「おや、珍しいな……一か月ぶりか?」 

 振り返ると、中三時代の担任が笑っていた。「キミが古墳に興味を持ってくれて、週に一度は来てくれるものだから、生徒も関心を持ち始めてくれたよ」 

「そうですか」

「考えてみれば、古墳に隣接している学校って、少なくはないんだ。ほら、むやみやたらと宅地開発を止めるために、あえて校舎を……といったこととあったみたいだぞ。おれも興味はなかったけど、キミのおかげで、いまじゃ、生徒から古墳センセと呼ばれてるよ」

「ああ、聴きました、それ」

「古墳センセと言えば、ほら、キミがいたころ実習に来てた、ええと、なんと言ってたかな……」

「長谷川……京美……センセ」

「おっ、そ、そうそう長谷川クンだったね、ほんと、残念だったね、まだ、若いのに……」

「ええ、ほんと」


 ロンドンの地下鉄テロの煽りで亡くなった京美の事件は地元でも話題になったが、半年一年てば、風のように消え飛んでいった。

 健太には肉親の死よりも衝撃だった。

「でも……」

と、健太は言った。

「……ここに来れば、長谷川センセのにおいが……」

「ん……?」

「あ、ぼくの初恋のひとなんですよ」


 そう言って、かすかに微笑む健太の顔はどことなく京美に似ていた。けれど、誰も、そのことには気づかない、気づきようもない。

 それでいいのだ……と、健太はおもう。


 誰もがいない屋上には、いまも、新鮮で、ひとの耳には届かない音が、いたるところに刻まれ、漂い続けているのだから。


 チュッ……



              ( 了 )

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流されゆく想いのなかで 嵯峨嶋 掌 @yume2aliens

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