流されゆく想いのなかで
嵯峨嶋 掌
進 路
放課後にはできれば誰にも会いたくない、呼び止められたくない……それが、
バタンとトイレのドアをしめ、そのままじっと息を
この園芸用ミニ街路灯は、いまでは健太の必需品で、みんなが下校したあと、そっとトイレを抜け出し、薄暗い廊下を歩くには欠かせない。一度、用務員が、
「ひゃあ、な、なんだぁ!」
と、
そのときは、忘れ物を取りに来ました……と、
健太はいつものとおり小走りで西棟へ向かった。
階段を駆け上る、音を立てないように。これにも
屋上に出れば、目の前に拡がった森が目に入る。立ち入り禁止区域になっているのは、そこが、県指定の文化財保護区であるからだ。
森は……古代の古墳だ。
いま、一番の関心は……
幽霊なんかではない。
前学期、二か月間、その中学校にきた教育実習生。大学三年。長谷川
美人でもグラマーでも、なんでもない。
度の強そうな黒ぶちのメガネをかけ、ヘアスタイルにもそれほど手をかけず、そばかすが散らばる額や頬も、厚化粧で隠そうとはしない、生徒にもまったく人気のなかった実習生だった。いや、健太以外には……といっておかなければ、かれがかわいそうだ。いまでも、秘めた恋心で、階段を一気にかけのぼってくるのだから。
「あら、また、来たの」
物音に気づいてちらっと振り返った京美は、すぐに視線を森へ戻した。
「え……えへへ」
なんとも奇妙な笑いが、健太の口元に浮かぶ。これも、いつものことだった。
「センセ……よく、飽きないですよね」
ほんのちょっぴり大人びだ物言いを健太がするのは、照れ隠し以外のなにものでもない。
たぶん、おそらく、パファープス、京美は自分に向けられた健太の熱い視線の意味に気づいていたはずだ。けれど、
むしろ、だから健太も中2男子として、そこそこの謙虚さと節度ある態度で接することができたのだ。
「あなた……もね」
ぼそりと
「センセ、決まったんですか?」
なにげに健太が
「うん、決めた」
「え……! 行くんですか、行かないんですか?」
するとようやく京美が振り向くと、ニコッと笑った。残陽の光の
「いまの言い方……いく、いかないって……他のひとが聴いたら、エッチなことかと思うわよ」
「あ……!」
そんなことを口にするようなタイプではないとおもっていた相手から、刺激的なフレーズが飛び出すとは、健太は想定してもいなかった。いや、むしろ、新鮮な驚きだった。
「ごめん、ごめん、変なこと言って。今日で見納めなの。この景色……」
「え……? じゃ、やっぱり行くんですね」
「ええ、行く行く、だわね」
地元の
「何年、ですか?」
「三年かな、ロンドンの博物館の資料整理室で二年、あとの一年は発掘……かな」
「じゃ、こっちの大学は卒業しない?」
「ううん、単位の振り替えができるから」
「あ、そうなんだ……」
健太の口調が急に湿っぽくなった。もう会えない……という実感が、ぽつんぽつんと小降りの雨のように、じんわりと襲ってきたのだ。
「そんな顔しないで。ね、戻ってきたら、一緒に発掘しようよ、この古墳、なんか出てくるわよ、すっごい壁画かも」
京美は言う。わざと面白げな言い方をしているのは、あるいは当分ここには来られないという感傷があったのかもしれない。
「そっすか」
健太は健太で、あえて素っ気なく言うしかできない。
二人はなにも言わない、言えない。
やがて
それをロウソクのように高く掲げた健太のおでこに、いきなり京美は唇をつけた。
チュッ。
それだけ。
チュッ。にこりと笑いながら、京美は自分の懐中電灯を
「あ」
健太は声をかけようとしたけれど、出なかった。喉奥に何かが引っかかったようで、重たく、ことばそのものが埋没してしまったかのようだった……。
それから三年が過ぎた。
高三になった健太は、もう進路は決めていた。
『考古学? それで食っていけるのか? 法学科とか、経済とか、もっと就職に有利な道があるだろうが?』
父はそう言う。
母も同意だ。
けれど、健太はこだわりを捨てなかった。
……夏の夜、かれは母校を訪れ、西棟の屋上に駆け上がった。
夏なのになぜか冷たい風が健太の頬を撫でた。
「おや、珍しいな……一か月ぶりか?」
振り返ると、中三時代の担任が笑っていた。「キミが古墳に興味を持ってくれて、週に一度は来てくれるものだから、生徒も関心を持ち始めてくれたよ」
「そうですか」
「考えてみれば、古墳に隣接している学校って、少なくはないんだ。ほら、むやみやたらと宅地開発を止めるために、あえて校舎を……といったこととあったみたいだぞ。おれも興味はなかったけど、キミのおかげで、いまじゃ、生徒から古墳センセと呼ばれてるよ」
「ああ、聴きました、それ」
「古墳センセと言えば、ほら、キミがいたころ実習に来てた、ええと、なんと言ってたかな……」
「長谷川……京美……センセ」
「おっ、そ、そうそう長谷川クンだったね、ほんと、残念だったね、まだ、若いのに……」
「ええ、ほんと」
ロンドンの地下鉄テロの煽りで亡くなった京美の事件は地元でも話題になったが、半年一年
健太には肉親の死よりも衝撃だった。
「でも……」
と、健太は言った。
「……ここに来れば、長谷川センセのにおいが……」
「ん……?」
「あ、ぼくの初恋のひとなんですよ」
そう言って、かすかに微笑む健太の顔はどことなく京美に似ていた。けれど、誰も、そのことには気づかない、気づきようもない。
それでいいのだ……と、健太はおもう。
誰もがいない屋上には、いまも、新鮮で、ひとの耳には届かない音が、いたるところに刻まれ、漂い続けているのだから。
チュッ……
( 了 )
流されゆく想いのなかで 嵯峨嶋 掌 @yume2aliens
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます