夜想国の絶望


 がつん、がつんという音がしてくる。

 夜想国の国主である夜想やそう、その成人していない姫である夜想瑞香みずかは憂鬱な気分で、昼間だというのに夜のように暗い神殿内部を歩いていく。

 板張りの廊下の各所には、昨夜から頭のおかしくなった巫女たちが柱に頭を打ち付けていたり、床に座り込んでぶつぶつと同じ言葉を呟いていたりする。

「なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ――」

「剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった剣聖いなくなった――」

「雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人雅人――」

「夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫帰ってきて夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫帰ってきて夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫夜姫帰ってきて――」

 充満している神気に頭がおかしくなりそうだ。夜想姫がこのような粗相をするなど、ここ三百年近くなかったことだ。

 最後の記録は、龍頭瑠人の前に剣聖だった男が死んだときか。

 そのときは予想できたことだったので、夜想姫の悲しみが癒えるまで神気に耐えられない弱い巫女たちは退避させたと記録にあったが、こうも突然に常人に耐えられない濃度の神気を振りまかれると逃げることもできずに巫女たちは心を壊してしまう。

(事態を把握できるのは、私だけか)

 側近たちも連れていない。

 本来は瑞香の姉たちが瑞香の先任の巫女としてこういった異常事態では動くはずだったが、姉たちは瑠人に純潔を捧げて以来、夜想姫に嫌われ、傍に侍ることができなくなっている。


 ――臭い、穢れていると、夜想姫は姫たちを拒絶した。


(なんなの? 夜想家の姫が魂鎮めの剣聖とまぐわっても、むしろ夜想姫は喜んだと記録にあったのに)

 内心の疑問を口にせず、本殿に向かっていく瑞香。巫女たちを回収したいが、未だ十四の瑞香の細腕では暴れる巫女たちを抑えることなどできない。もう少し時間が経てば巫女たちも消耗して気絶するかもしれないと期待してはいるものの――たぶん無理だろうな、という諦めもあった。

(……殺してやろうにも、死は穢れだから……)

 せいぜい、巫女たちが死ぬ前に事態が収束することを祈るのみだ。とはいえ、こうも濃密な神気に晒された以上、その精神がこれ以前のまともな状態に戻るなどと期待はできないが。

(静かね……まるで、何もかもが死んでいるみたい)

 巫女たちの自傷の音や、呪いのような言葉の他は、ひたひたと、瑞香の足音だけがこの場の音だった。

 夜想家が管理する夜想神社、その本殿は、本来はもっと気配が濃く、生命の音が響く場所であったはずだが、もはや何もかもが死に絶えたかのようであった。

(それに、昼間だってのに暗いわ)

 常ならば光の精霊や夜想桜の落とした花びらが淡い光を放ち、ここはいつだって明るいはずだった。

 否、そもそもこの時間なら、太陽の光が夜想桜の枝と枝の間から降り注ぐはずだ。

 だが暗い。夜よりも暗い、闇だけが、この領域には広がっている。

 瑞香は火の灯った燭台を持っていた。本来あまり火気を持ち込みたくない場だが、こうも神気が濃いと、呪力や霊力の火など灯すことが難しい。圧力で術式が維持できないからだ。

 だからなんの影響も受けない蝋燭の火だけを頼りに彼女は歩いていく。


 ――そうして、ようやく瑞香はたどり着いた。


 本殿奥、夜想姫の座所へと。

「姫様? 夜想姫様? 昨夜よりこうも騒がれては下々が落ち着きませぬ。夜想姫様、どうなさいましたか?」

 ゆっくりと語りかける。一瞬、侍女として神に侍っていただろう、現在は床に転がっている巫女たちを瑞香は見た。女たちの死体がごろごろと転がっている。ほぼ死んでいた。生き残っている者も目を見開いて、口から「剣聖剣聖剣聖」や「雅人雅人雅人」と呟いている。

 雅人……剣聖様を害した忌々しい男がその名だった。

 前当主に当主の業務を任せて、ほとんど姿を見せない龍頭家当主。小鬼一匹倒せない無能の剣士、術式一つ使えないカスの術士、まともな刀姫の一人もいない弟の絞りカス。龍頭雅人。

 なぜその名を巫女たちが呟くのか。

 それとも――龍頭軍の将軍より、前当主を飛び越え、先程夜想家に届けられた報告が正しいのか。


 ――龍頭雅人が魂鎮めの剣聖であった、などという戯言。


 その真偽を確かめるために、夜想家では会議と調査の真っ最中だ。本来なら笑殺すべきこの報告も、大業鬼の遺骸を用いて作られた具足とともに報告が届けられれば真偽を確かめる必要が出る。

 いや、その報告でようやくわかったというべきだろうか。昨夜から続くこの異常事態に。

 剣聖たる瑠人が傷つけられたから、夜想家では夜想姫が怒り狂ったのだと判断していたが――座所の御簾が上げられた。

 座所に沈む、巨大な女の頭が、瑞香を見ていた。

 床に転がった巫女たちの口からケタケタと狂したような笑い声が満ちた。


 ――この巨大な女の頭が大神霊、夜想姫である。


「瑞香かえ?」

「はい。夜想姫様」

「巫女どもに混乱を移して落ち着いたわ。はぁ、瑞香。瑞香。雅人を、雅人を連れてきておくれ」

 雅人と夜想姫が口にして、瑞香の記憶がはっきりしてくる。

 龍頭将軍の言ってきたことが頭に入ってくる。今まで入れ替わりの大呪術に加えて、認識阻害や忘却の大呪術が鬼たちによって、この島の島民に使われていた、と。

 自分たちは、雅人を剣聖だと認識できないようになっていた。瑠人を剣聖だと思うようにされたと。

 証拠に、今までは夜想姫が語る剣聖は、雅人とは聞こえなかった。

 剣聖を連れてきてくれと言われていた。だから瑠人を連れていき、違う違うと夜想姫に癇癪を起こされていた。

 どう違うのかわからないままに困惑と混乱は続き――その困惑と混乱さえ、忘却させられていたが――それでも五年前に落ち着いた夜想姫から、夜姫という分霊を剣聖の元へと送り込んだと姉が聞き出したときから、ようやく剣聖と夜想姫は仲直りしたのだ、と思ったのに。

 雅人のもとに、送っていたのか。

 夜想姫は、彼とともに、鬼と戦っていたのか。

 それでも瑞香はその真実を認識しないようにして口を動かす。真実の味を噛みしめれば絶望で自殺したくなるから。

「……雅人様は、その――居場所もわからず」

「くく、くくくくくく、あははははははははははは。ダメかやはりか。雅人に本気で逃げられたらどうにもならぬわなぁ」

「夜想、姫様?」

「終わりじゃあ終わりじゃあ何もかも終わりじゃあ! 鬼どもにしてやられたわぁッ!! ははははははッ!!」

 夜想姫がそう叫ぶ。座所の奥にある巨大な女の頭がばたんばたんと暴れて叫んでいる。恐ろしくて瑞香は耳も目も塞ぎたくなる気持ちを堪えて、じぃっと夜想姫の癇癪が終わるのを待った。

 すとん、となにかが床に落ちた。

 瑞香はそちらに視線を移す。

 枝だ。夜想桜の、もっとも若い枝だった。

 目を戻せば、じぃっと巨大な女の頭に睨みつけられている。今までの無能を責められている気がして、瑞香の口から悲鳴が漏れかけた。

「瑞香、それなりの神霊を宿してやったそれを術具に鍛え直し、大陸に向かうが良い。そしてほどよき地でその地の神と交渉し、その地の神木に接ぎ木・・・せよ」

「……どういう、意味でしょうか?」

「夜姫の視点を借りて、大龍穴より溢れる鬼の戦力はわかっておる。結論として、国の滅びは必定ゆえな。お主だけでも逃げよ。すぐに逃げることもできぬようになるゆえ、手早くな。そして大陸で雅人のを貰い、我が愛を再建せよ」

 神が、この島を守護する神が諦めている?

 その意味を考え、瑞香は絶句した。馬鹿な。滅ぶ? 本当に? 焔桜島には夜想軍三十万の精兵があるのに? どうして?

 この二千年で生まれに生まれた大量の刀姫たちに、それを携えた剣士の集団。加えて夜想姫の分霊たる数多の樹霊たちが宿る術具も豊富だ。自分たち夜想家の人間も戦場に出られる。

 それに大陸から機関銃とやらも大量に購入している。本来は大陸国家と戦うためのものだが、人間を瞬時にひき肉に変えるあれは鬼に対しても使えるはずだ。

 そんな瑞香の考えを知ってか知らずか、夜想姫は夢語るようにして「我がこの地に来たのは、大陸で出会った凄まじき剣士が鬼どもを殺してみたいと言い出してのぅ」と昔語りを始めてしまう。

 聞き続けていたいが、状況を考えたら、戻るべきでは、と考えている瑞香に対して、はっと・・・した顔の夜想姫は言う。

「おう、瑞香。瑞香。雅人はどこにおる? 雅人を連れてきておくれ。鬼どもがやってくるのじゃ。我を滅ぼしにやってくるのじゃ」

 周囲に転がっている巫女たちが一斉にケタケタと嗤い始めた。

「滅ぶ滅ぶ――」「終わりじゃ終わりじゃあ――」「おおお、鬼王が来るぞ炎鎧童子じゃあ世界を燃やす炎の鬼じゃあ雅人に一度殺されたというのに呆れたものよ――」「神姫めが油断しおって呪い刀に堕ちたか、じゃがのぅ雅人が――」「ああ、雅人、雅人ぉぉ。置いていくなぁ。妾も連れて行っておくれぇ」「夜姫ぇ――なぜ視界共有を切っておる。雅人はどこじゃあ」

 先の正気は、一瞬だけだったのだ。愛する剣聖を失い、神霊は狂いに狂っていた。

 神に狂気を押し付けられた巫女たちを助ける術はないだろう。

 瑞香は、絞り出すようにして言った。

「夜想姫、様……雅人様を、探してまいります」

 途端、しんと空間が静かになった。座所の女の頭がにこりと微笑んでいた。

「――そうか、瑞香。息災での」

 直後、大量の嗤い声が座所に響き渡った。

 怖い怖い怖いゲタゲタゲタ怖い怖い怖いゲタゲタゲタ怖い怖い怖い。

 精神が破壊されそうだった。それでも瑞香は理解する。今の一瞬、精一杯の正気で、夜想姫に送り出されたのだと。

 だから瑞香は涙を流しながら、神殿から立ち去ることしかできなかった。

 あとはもう、狂した女の声しか聞こえなくなった。


(――この国は、終わるんだ……)


 目を背けていた真実を覚悟することしか、できなかった。


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