剣聖逃亡後の周辺の人々
龍頭家将軍の混乱
その日、その異常に気づいたのは、大防人頭による大龍穴の防衛報告を受けていた役人だった。
本人は知らないし、これから知ることもないが、この男が、星雨姫の次に異常に気づいたことになる。
大龍穴傍の出張所に行く前に、役所で雅人の手配書をぼぅっと見て、自分の手元にある前日に受けた報告から作った、提出予定の報告書を見た。
小鬼一匹討伐の報告書だった。
しかし大防人頭が犯罪者で手配犯か。これじゃあこの報告をしても無意味かな、なんて考えて考えて考えて――あれ? と疑問を覚えた。
小鬼が一匹、なんて報告を、して良いのだろうか?
雅人
いや、いやいやいやそうじゃない。
カタカタと手が震えてくる。恐怖。恐怖だ。自分が犯してしまった罪に対する。
自分は今まで
過去の記憶が蘇ってくる。
かつて、幼い頃の雅人様が引きずってきた大鬼や大業鬼の死骸。それを裏で夜想国の、龍頭家が兵を出している軍団に卸して金を受け取った記憶が蘇ってくる。
――なんで、自分は平気でそんなことをしたんだろう。
いや、それは思い出せる。下級貴族家の三男でしかない役人。そんな自分に貴族たちの大家たる龍頭家は、雅人に手柄を立てさせるなという命令をした。
だからといって、大業鬼? 大業鬼なんて伝説にしか出てこない化け物中の化け物だ。それを雅人はほとんど傷も負わずに討伐していた。それに対して自分は何をしたのだろうか。どうせお前が倒さずに死体を拾ってきただけだろうなんて難癖をつけて、子供の雅人を怒鳴りつけた記憶が蘇ってくる。
(大業鬼が自然死? どんなバカが考えた妄想だ)
大龍穴の防備を雅人が行っていたということは、雅人が倒したに決まっているというのに。
そうだ。剣技や術式を見せてもらったことがある。これでも武家出身の役人だ。剣舞祭も毎年見ている。雅人のそれは、若年ながらも、国一番の剣士と言われてもおかしくない剣技に術式だった。
自分はなんと言った。悔しげに雅人を怒鳴りつけて、力を自慢して嬉しいかと、見苦しいと強く詰った記憶が蘇ってくる。
だが、なぜ忘れていたのだろうか。こんな重要なことを。
「雅人様の……最後の報告は、なんだっただろうか」
――大業鬼一匹、大鬼三十匹、小鬼は無数。
毎週の報告だった。毎週が国家の危機だった。これが虚偽か虚偽じゃないかなんて知っている。雅人は嘘をつかない。つく必要がない。ふと思い出す。強烈な、けして忘れてはならないはずの記憶だ。
あるときの記憶だ。雅人が三日三晩雅人が戦っていた記憶だ。
ガタガタと、自分が、あの出張所から出ることもできずに震えていた記憶だ。
鬼どもが何かしらの呪術でも使ったのか。三日の間、結界を素通りした鬼の軍勢が大龍穴から溢れ出で続けた大事件。
そんなこともあったな、なんて言ってはいけない事件が、この国ではあった。
雅人の帰りが遅い自分が見に行った記憶を思い出す。大龍穴から溢れ出る鬼を、一匹も結界の外に出すことなく、雅人が防ぎきっていた。
そのときには自分は雅人の信頼を失っていたから、雅人は倒した大量の鬼の死骸を龍穴に落として処理してしまって、証拠は何一つ残っていないが、そんな事件があったのだ。
「……私は、それも報告していない……」
結局、最後には小屋で気絶して、自分が見たことを妄想だと思って、国の為に戦った雅人を放置して家に帰って、息子をあやして、妻の横でぐっすりと寝た。そうして壮絶な戦いをこなして帰ってきた雅人の報告を、小鬼一匹と書いて提出した。
小鬼一匹。小鬼一匹?
がたり、と立ち上がる。
「どうした?
上役の問いかけに「あ、あの」とどうすればいいのか悩みながら雅人について報告しようと決意する。
「あの! その!!」
「ああ、待て待て落ち着け。どうした? 龍頭雅人の逃亡先にでも情報があるのか?」
龍頭雅人の逃亡先? わからない。親しくない。同僚なら普通は呑みにでも誘うかもしれないが、無能だゴミだと徹底的に関わりを断っていたから、役人には雅人のことは何ひとつわからない。
わかるのは、自分がとんでもない不正をしていたことだけ。
来週にも大業鬼を頭とした百鬼夜行が出現するということだけ。
「ら、来週! 大業鬼を中心とした百鬼夜行が出現します!!」
それを聞いた上役を目を丸くした。大変だ! どうしたんだ、なんて言ってくれるかと期待していれば上役は役人を呆れたようにして「はいはい。そりゃ大変だ。だが加茂、飲むなら仕事が終わってからにな」とだけ言って、自分の机で書類を処理し始める。
「ち、違うんです! 本当に! 本当なんです!!」
「お前なぁ。剣聖様が毎年やってる結界強化の術式で、結界は維持されとるだろうが。加茂、お前先週の自分の報告読んだか? 小鬼一匹だ。十年前の大鬼の出現以来、ずぅっと小鬼一匹。異変なし。平穏平穏善き哉善き哉」
「ッ――そ、それは」
それは! それは自分が報告を螺旋曲げてたからだ。十年に渡って、大業鬼の出現や大鬼の出現報告を螺旋曲げてたからだ。
目の前の上司を見て、役人は思い至る。この上司は龍頭家の出身じゃない。そうだ。龍頭家の軍部ならばきっと把握しているはずだ。
自分はかつて大業鬼の死骸を一度あそこに卸しているのだから!!
◇◆◇◆◇
夜想国国軍の一軍である龍頭軍を率いる将軍は、自らの執務室で、内密かつ緊急だと軍部に駆け込んできた目の前の役人の報告を聞いて、顔を歪めた。
「……大業鬼を中心とした百鬼夜行が現れる、と?」
馬鹿らしい、とは言えない。
将軍にも何か、もやもやとした意識がずっとあった。
それが昨夜本家で起きた龍頭家当主による剣聖襲撃事件以降、どうしてかはっきりとしてきていて、ゆえにこの報告を馬鹿らしいと叫んで退けられなかった。
加茂と名乗った目の前の役人は「かつて私は、龍頭軍に大業鬼の死骸を卸したはずです!」
そう、そうだ。五年前に大業鬼の死骸。皮は自分の鎧に、爪は宝刀、目玉は術具、角は刀姫の素材、内臓は薬効高い秘薬と、全てが宝となったあの死骸。あれを持ち込んだのが、そう、この男だ。
だがこの男は龍頭家前当主から、龍頭家現当主であった龍頭雅人の大龍穴防衛報告を、小鬼一匹と改ざんするように指示を受けていた男でもある。
鬼どもの計らいで忘却され、隠蔽され、繋がりを失っていた記憶が蘇る。繋がっていく。
龍頭雅人は――
「あ? あ? な、なぜ? わ、儂は?」
将軍の脳に、とんでもないことをしてきた自覚が現れる。
そうだ。自分たちがカス剣士だと馬鹿にしていた龍頭雅人は、化け物染みた男だった。
毎週の百鬼夜行は、興味深いと軍部でも何度か観測したことがある。だがそれで絶望した。大業鬼は伝説以上の存在だった。思い出して身体が震える。勝てる個体など存在しない。雅人の戦いで何が起きていたのかもわからない。雅人と大業鬼の応酬は、常人では観測ができないほどに威力が大きく、高速で、彼らの視界に入らないように逃げるしかなかったからだ。
ただ、どの百鬼夜行も現行の龍頭軍を鎧袖一触で壊滅させて余りあるものであることはわかっている。
それが来週襲来する? 国が来週滅びるのか?
時間がない。一週間で大業鬼を殺せる剣士など育成できるわけがない。
だが時間はあった。十年もあった。ああ、でも、なんで、こんなに時間があって、自分たちは何もしてこなかったんだ?
そうだ。百鬼夜行の情報が広まらなかったのは、龍頭家の部隊には雅人の活躍を広めるなと箝口令が敷かれていたからだ。
そうだ。百鬼夜行の情報を忘れてしまったのは、カス剣士でゴミ術士の雅人が百鬼夜行を討伐できるはずがないと思ったからだ。
――
将軍は龍頭家の分家の名家出身である。原因には、すぐに思い至る。
「じゅ、呪術だ。ッ――忘却の呪術。隠蔽もかかってる。おい! 呪術師と術士を呼べ! 調査しなければ、だ、だが、な、なぜ気づかなかった」
そうだ。何か他にも、まずい術式が焔桜島全体にかかっていたはずだ。
「いや、そうだ。なぜ、なぜ今気づけた? 何が今までと違う。おい、加茂と言ったか。なぜ今気づいた? 気づけた?」
「そ、それは――ええと」
加茂は何かを思い出すようにしてあちこちに視線を彷徨わせ、将軍の手元にあった書類に目を留めた。
「剣聖襲撃事件? いや、関係がない――……ですよね?」
「いや、関係がある」
机を見る。そうだ。剣聖襲撃事件。犯人である龍頭家当主たる龍頭雅人は逃亡……逃亡……逃亡?
「つまり術式の効果範囲から、雅人様が外れたのか?」
恐らく、外れた術式がメインのものだ。全員の認識をおかしくするもの。あらゆる脅威を、雅人はゴミだから大したことがないと誤認させたもの。
情報の矮小化か? 雅人の実像の陳腐化? いや、そんなものじゃない気がする。そういった害のあるものならば、自分たちは気づいたはずだ。
だが見ていたのに忘れさせるなど、認識をおかしくさせるなど尋常の術式ではない。どうする? どうすればいい?
いや、まずは雅人の確保だ。大業鬼を殺せるのは雅人だけ。まずは雅人を確保し、百鬼夜行の対処に当たらせる。結界も強化しなければ、剣聖様に――思い至った瞬間に、将軍は全てのからくりを理解した。
「そうか。そうか! 雅人様が、魂鎮めの剣聖だ」
目の前の役人が目を丸くした。
「魂鎮めの……え、ど、どういうことなんですか?」
「入れ替えだ。入れ替えの術式だ! 雅人様と瑠人様の実際の評価と名声を入れ替えた。だから瑠人様が剣聖扱いされた。アレは剣も術も修練なんぞしてないのに、二人の評価が入れ替わったから、なぜか剣技に優れ、術式に優れたと評判を得たんだ」
無論、単純な入れ替えの術式でないことはわかる。
でなければ評判は平均化しないとおかしいからだ。最近の雅人は悪評ばかり言われていたから、それなら今度は逆に瑠人が悪く言われなければおかしい。
対象は本来得るはずの名声や評価だろうか。それとも――いや、そんなことは今は、どうでもいい。あとで術士に調べさせる。
問題は、
無論、
(鬼、どもか)
将軍が内心で唸る。こんな大規模で、複雑な大呪術。人間の術士が構築できるものではない。仮にできても、発動の瞬間に夜想国の国家呪術士が感知する。
だから、これは敵の策だ。敵。大龍穴より現れる敵。
将軍は机を強く叩いた。武人でもある将軍の一撃で、木製の執務机の中央が陥没する。
わなわなと巨体が揺れる。怒りだ。極大の憤怒が、その身体を覆っていた。
「があああああ! 鬼どもの計略だ!
将軍は理解した。全部理解した。主家への批判になるからこの場で口には出せなかったが、雅人の評判が悪くなった全ても理解した。
――剣聖たる兄が、凡人たる愚弟の評判を身にまとっていたのだ。
瑠人がゴミ剣士だから、ゴミ剣士と言われた。瑠人がカス術士だからカス術士と言われた。
瑠人の霊力が凡人以下だから、凡人以下のお飾り当主と言われ、瑠人が小鬼一匹倒せないから、小鬼一匹倒せない雑魚だと侮られた。
そして。
瑠人自身は、雅人の偉業を全て背負っていた。
雅人の行いは、隠蔽されているものの、龍頭家の関係者は全て観測していた。それらは実際に見られていなくとも、人々の印象として残ったのだ。
だから、剣技に優れ、新たな術式を開発し、何度も百鬼夜行を討伐した雅人が得るべきだった名声と評判を瑠人が引き継げた。
(それだけではない。それだけではない。
刀姫どもが瑠人に惹かれるのも当然だ。貴族の姫どもが瑠人に惹かれるのは当然だ。
魂鎮めの剣聖が持つ問答無用の、人外の魅力を瑠人が身にまとっていたならば、凡人がそんなものを纏っている矛盾すら重ねがけされた忘却の呪術が忘れさせるならば、純潔を維持しなければならない貴族の女たちが軽々に身体を許すのも当然である。
――気分が悪くなってくる。
そして、どうすればいい、と将軍は困惑した。
大業鬼を殺せるのも、大結界を修復できるのも、現状、本物の剣聖である雅人だけだ。
だがどうやって連れ戻す? 交渉しようにも居場所がわからない。
無論、どこにいるかは推測できる。
双子の類感呪術の効果範囲から離れたということは、雅人はかなり距離を離しているはずだ。
焔桜島は一千万の国民が住む巨大な島だが、陸
恐らく、概念としても成立する巨大な間隙が効果を減じさせたはずだ。
間隙……環境として容易なのは谷か、山か……いや、別にあるだろう。
(大陸、か。それで、そこから雅人様を見つけ出す? どうやって?)
それも一週間以内に見つけて連れ戻す?
将軍は冷静に考える。雅人の所持品は龍頭家にあるだろう。それを触媒に呪術を使えば位置はわかるかもしれない。もちろんここで雅人に対抗呪術で邪魔されないという前提は必須条件だ。
しかし絶対に邪魔されるだろう。
雅人はバカではないから、自分が剣聖を斬ったことを理解している。罪人であると、追われていると自覚しているのだ。
だから活動するにしても、大陸内でも、焔桜島から離れた場所になる。
(ただ、仮に雅人様が自分が剣聖であると気づいているのならば、国家防衛のために駆り出されると理解して、やはり捜索の呪術は邪魔するだろうな)
思えば雅人に十分な報酬が払われた記憶はない。
命を掛けて無報酬で国を守るために戦えと強制されると思われたなら、やはり断られるだろう。
無論、貴族として、将軍として、今後は十分な報酬を用意するし、国とも交渉をする。絶対にする。しなければならない。
無論、夜想国だって払うに決まってる。真相が判明した以上、否とは言わないだろう。
今後もずっと剣聖たる雅人に国を守ってもらうためにはするしかないからだ。
で、と考えをすすめる。居場所がわかったとして、だ。
(交渉役には親しい人間を用意するしかないが、そんな人間はこの国にはいない)
全く関係のない人間を送り出すべきだろう。
(だが、どうやって交渉する?)
剣聖襲撃事件に関しては無罪は当然。今までの不遇に謝罪もする。婚約者も新しく用意すべきだが、年齢の近い姫は瑠人に食い荒らされている。だから女はそもそも用意できないから除外するしかない。
刀姫どもはまぁ、言わなくても群がるだろう。貴重な昇華の機会だから。
だが、今まで刀姫にも冷たく接せられた雅人は簡単には刀姫を受け入れないだろうことも想像がついた。
そもそも愛刀たる鉄姫だけで十分と言うかもしれない。あの最新の
(交渉。交渉か……儂ならこの国に忠義があるが、あの方はどうなんだろうな)
忠義とは、強制されて出せるものではない。それなりのものを貰ったからこそ、捧げられるものだ。
だが瑠人の評判を纏っていた雅人は本来瑠人が受けるべきゴミ扱いをずっと強いられてきた。夜想国に親しみなどないだろう。
だから、そもそも今まで戦ってくれていたことが奇跡だったのだ。
雅人はたった一夜で海の先の大陸にまでたどり着ける人間だ。
いつでも逃げられた。
去勢されると聞いてようやく雅人は逃げる気になった。
で、そんな人間をどうやって連れ戻せばいい。
待遇改善? 美女を用意? 本来受けられた全てを与える?
(笑ってしまう。我々は、あの方がほしいものを何も知らない。何も用意できない)
だが将軍はなんとなくわかる。雅人が欲する物。それは恐らく、
逃げたということは、そういうことだ。地位だのなんだのがほしければ去勢されようが龍頭家に残っただろう。
唯一手に入れたかったものを手に入れた人間から、それをどうやって奪えというのか。
さぁて、と唸るしかない。
一応、捜索と交渉の人間は送るが。無駄だろうなという確信が将軍にはあった。
どうやっても追い着けない大陸の内陸部まで移動されていたらそもそもが終わりである。
そして、将軍が雅人であったなら焔桜島から一番近い港町でちんたら活動するわけがない。
空を高速で移動できるのだから、限りなく遠くまで逃げおおせる。
つまり雅人は内陸部に移動している。結論として頼れない。
この国は滅ぶのだ。滅んでしまうのだ。
では、滅ぶと仮定したなら、やることは決まっている。
「
夜想国は焔桜島だけが領土ではない。いくつか離島や大陸の先端にあるちょっとした規模の港町の土地なども所有している。
滅ぶと決まったら、少なくとも、鬼に奪われた困るものをできうる限り島の外に送り出す必要があるだろう。
神姫七刀が一本でも鬼の手に渡って、鬼神の佩刀とされたなら、仮に雅人がやる気になったとしても、この島を奪還するのは限りなく難しくなる。
「忙しくなるな」
そう呟く将軍の目には、自分を黙ってみている役人の姿など一切映らなかった。
◇◆◇◆◇
そんな将軍が意識的に考えなかったことがある。
彼らが本当に守りたいもの、逃したいものは絶対に守れない、ということ。
この国の象徴たる枯れずの神木である夜想桜。
そこに宿る土地神にして大神霊、この国を二千年もの長きに渡って守り続けてきた夜想姫。
土地に根付いてしまった彼女は、けして逃げられない。
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