陽炎の坂(登り坂と青空と風 改編版)

愚者

第1話

 陽炎が揺らぐ、目の前の長い上り坂を見上げると思わず心の想いが口から出てしまう。


 相変わらずだな。


 その坂には街路樹は無く、快晴の空の下にむき出しで、揺らぐ陽炎の中をずっとずっとその先に向かって伸びている。

 坂は黒いアスファルトに黄色い中央線を持つが、その脇に歩道は無い。

 その坂を中心に左右の宅地に次々の急速に家が建った少し前の新興住宅街で、今では色とりどりの屋根を持つ住宅が軒を連ねている。


 正直、今からこの坂を上らなければならないかと思うと気が滅入る。


 手をかざして見上げる空は、抜ける様な青などとは決して言いたくない程に青白く、その頂上にある太陽は容赦のない熱気の日差しをこの地上に降らしている。

 今、着ているシャツは薄い青だが、恐らく肩から背中にかけて、汗で身体に張り付きみっともなく透けているだろう。


 身体中から出る汗と言うしょっぱい液体は、体温が上昇すると出て来てそれが蒸発することで熱を逃す有難いもので、これは人体の構造上の体温の過剰な上昇を下げる自己防衛手段と言うことになっているが、本当は、その少し粘つく液体は宿主に不快しか与えてない様に出来ているのではないかと思ってしまう。


 坂の中盤を過ぎた辺り。

 一つ溜息をつくが、その吐いた息すら熱く感じるはの気のせいなのだろうか。

 しかも、この身体を支える二本の脚は、一歩も前に出ようとはしてはくれない。


 仕様がない。


 膝を折り、腰を屈め、両足を保護する革靴の紐でも結びなおしてやろうか。と、下を向いたら、今度はとてつもない熱波が下を向いた顔に向かって登って来る。


 信じられない量の汗が、髪の隙間と顔面から吹き出だす。

 考えも無しに、炎天下の下で立ち止まった事を後悔する。

 汗は、額から頬を伝い顎の先で集まり、大きな粒になる。

 少しずつ大きくなったその粒は、その内自分の重さに耐えきれず落ちていって、革靴のつま先で小さく砕けた。


 少しだけ変色した、そのつま先を見にため息を吐いから、漸くの思いで重い一歩を踏み出す。


 溶けたアスファルトは、靴底にへばりついてその一歩一歩をより重くする。


 それでも登るしかない。

 その脚にズボンがまとわりついてかなり気持ちが悪い。

 様は、登り難い。


 良くあんな事が出来たな—。

 自分がもっと若く、毎日この坂を上り下りしていた頃を少し思い出す。


 その昔。


 徒歩で、自転車を立漕ぎして、歳と共にその手段は変わったがこの上り坂を登っていた。

 毎日。

 軽々と、軽快に、難なく。

 面倒だったと思う時も沢山あったが、それが当たり前だとも思っていた。


 その頃は矢張り下りの方が好きだった。

 駆け下りれば自分の足は早くなったような気がし、自転車で下ればそのスピードのスリルに歓喜した。

 顔に当たる爽快な風と、何をしなくても良いと言う少しの罪悪感に酔った。


 下に辿り着いたら、また昇ればいい。

 それを繰り返せばいい。

 何度でも。


 その頃はそれで済んだ。




 重い足で上る坂は続く。


 旗が見えた。

 この先に、民家を軒先を改造した小さな店がある。

 旗は目印だった。

 そこで休憩をしよう。


 そこには、色褪せ、端がほつれた宅急便の幟が倒れそうになりながら立っている。

 昔はもう少しシャンとしていたんだ。


 小さな店の入り口はカーテンが閉まり、もう店じまいをしていた。

 そこで動いているのは、軒の日陰に隠れた二台の自動販売機だけ。

 その隣に、あの頃よりくすんでしまった青色のベンチが置いてある。


 その影の中、ベンチに三人の女の子が座っている。


 一人は、茶色のローファーを脱いでベンチの上で胡坐をかき。

 一人は、ベンチに浅く座り、その長い足を前に投げ出している。

 二人共、髪の毛は見事な茶色で、ピアスを幾つかつけ、手首にピンク色のシュシュをしている。

 その、二人に隣に申し訳なさそうに、もう一人の女の子が膝をそろえ座っている。

 その女の子は、髪の毛は黒色で、ピアスもシュシュもしていない。

 三人とも白いシャツに紺色の短めのスカート。


 三人は三人とも下を向き、黙ってスマホの画面を見ている。


 感心したのが、その三人の内の二人のスマホをいじる指の爪は長い。

 キラキラして長い。


 器用なものだ。


 その隣の自動販売機の前でズボンのポケットに手を入れ小銭を探る。

 そのポケットの中さえ手に纏わりつき、小銭を探すのに苦労する。


 ようやく、ポケットの中で探り当てた小銭を握り、ポケットからそれを引き出すと、手から漏れた小銭がポケットから飛び出し、アスファルトの上に音を立て落ちて転がって行く。


 その行先は、脱がれた二つの茶色い靴の前。


 多分、それを見る目は随分と恨めしそうなものだっただろう。


 正直、諦めようかとも思った。

 けど、ぶつぶつと小さな声で言い訳を呟きながらその小銭を拾う。


 なるべく、ベンチの方を見ない様にしながら。


 ベンチからは一言の言葉も聴こえては来ない。

「嫌だ」とも、「大丈夫ですか」とも、「どうしたの」とも、何の言葉も無い。

 当たり前の事だが。


 その時、汗ばんだうなじがじりじりと痛かったのは夏の陽のせいだろう。


 小銭を無事拾い上げ、自動販売機に小銭を押し込み、恒例の音がするのを俯きながら待つ。

 その音のあと、自動販売機が提供してくれたものは、冷えたジュース。


 顔を上げる時、一瞬。

 そのベンチに座る、三人目の女の子。

 黒髪で、ピアスもシュシュも着けていない子と目が合った。

 なんか、とても不安そうな目をしていた。

 僕はその見覚えのある目から、自分の視線を外す。

 少し胸が締め付けられた。


 素早く、冷えたジュースを取り上げ、足早にその影の中から脱出する。


 お約束で、汗だくの首筋に冷えたジュースを当てる。

 冷たい水滴が気持ち良い。

 これが本当の体温調整だろう。


 冷えた首を上に向け、坂の頂上を見る。

 その頂上の上に、嫌味なくらい青い空が大きく広がって見える。




 急な体温変化の所為だろうか。

 立ち眩みがした。


 倒れそうになる身体を、両手でバランスを取り、ふらつく脚を懸命に踏ん張った。

 頑張ったんだよ、これでも—。

 何とか姿勢を立て直し、恐る恐る目を開ける。


 長い登り坂は続いていた。

 立ち昇る陽炎かげろうが坂を飲み込んでいた。


 その坂を上る人の群れと下る人の群れが陽炎の中で揺らいでる。


 坂のアスファルトは所々へこみが出来て少しくたびれていたが、中央の真新し塗り直された黄色線が、くっきりと上りと下りのレーンを分けている。

 人の群れはそのレーンを守って進む。


 あの中を進むと思うと重い一歩目が出ない。


 あのベンチに座る子達はこの先を上るのだろうか、下るのだろうか。

 あの三人目の女の子はちゃんと出来るのだろうか。


 私にはもう、振り返る勇気は無い。

 私にはもう、この坂を下る勇気は無い。

 私にはもう、この坂をもう一度上る勇気は無い。


 もう二度とこの坂を下りたくは無い。


 その永い登り坂の向こうに、相変わらず青白い空が見える。

 立ち昇る陽炎の向こうに、その青空の中をゆっくりと流れる白い雲が見えた。


 登り坂の上には、涼しい、心地良い風が本当に吹いているのだろうか—。




     了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

陽炎の坂(登り坂と青空と風 改編版) 愚者 @trashpigg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ