第36話 とびきりの変化は、反省その2

平良の唇が、祥香の唇に触れる。


啄むでもなく、ごくごく軽く一瞬だけ触れて、すぐに離れた。


物足りなく感じるくらいの短いキス。


うわ、いま、私・・・


色んな思考が一気に動き出して頭の中をいっぱいにしてくる。


目を開けた瞬間、真顔の平良と目が合った。


「っ!!」


どくん、と心臓が鳴った。


今のは避けるとこでしょお!?


なんでそこで目を閉じたのかと言われたら、そうするべきだと思ったから。


けれど、それは絶対に今じゃなかったはずだ。


焦った祥香が後ずさった直後に、平良が無言で立ち上がった。


追いかけられる未来が予想できて、勝手に身体が先に動いていた。


踵を返して祥香はその場から駆け出した。


「祥香!」


「ごめんなさい!」


二人の声が見事に重なる。


「待って、祥香!」


追ってくる平良に捕まる前に、廊下に飛び出してそのまま脱衣所へ逃げ込んだ。


内鍵をかけると同時に平良がドアの前に辿り着いた。


危なかった・・・


ズルズルとドアに背中を預けてしゃがみ込む。


ふやけてしまったように、足に力が入らない。


「ごめんなさい、大丈夫です」


自分でもなにがごめんでなにが大丈夫なのかさっぱり分からない。


けれど、ここで黙り込んだらドツボにはまる事だけは分かっていた。


ドアの向こうで彼が何度も祥香の名前を呼ぶ。


「なんで謝るの。大丈夫ってなに?今のは俺が悪いよ、土曜といい今といい、ほんとごめん。でも、軽はずみとかじゃないから、祥香がそばにいると、なんかもう、ちょっと駄目だ俺。あ!祥香のせいじゃないよ!違うよ、ただ俺の問題で」


こんなに弱り切った平良の声は初めて聞いた。


「ごめん、ほんとに。頼むから出てきて、ちゃんと話させて」


「あの、大丈夫です!・・私、今すっごく動揺してるから一人にしてください。平良さんも、そろそろ行かないと遅れちゃうし」


絶対いま顔を合わせるわけにはいかない。


納得して決めた答えを裏切ってしまいそうだから。


「祥香・・・」


懇願するように平良が名前を呼んだ。


いまその声で呼ぶのはずるい。


脱衣所から出て彼の顔を見たらきっと泣いてしまう。


ここにいたいというのは、私の勝手な願いだ。


自分で立てない私じゃ、平良さんを幸せにしてあげられない。


好きだからこそ、甘えたままではいられない。


恋は永遠だと心の底から信じられるような少女じみた夢を抱けない現実主義の私には、自分を丸投げして飛び込む勇気は、やっぱりまだない。


だから、ちゃんと踏み止まるつもりだったのに。


自分に自信を付けてから、ちゃんと話をしようと思っていたのに。


目の前に平良の顔が迫った数秒間。


キスされると思った。


分かってて、目を閉じた。


だって私がそうして欲しかったから。


こんな風に思うなんて、自分で自分が信じられない。


もっと慎重で冷静な性格だと思っていたのに。


恋煩いは暴走するととんでもない行動を引き起こすのだ。


唇に僅かに残った苦味がキスの余韻を伝えてくる。


平良は家では絶対に煙草を吸わない。


祥香が来てからずっとそうだ。


だからこの苦味は、コーヒーの苦味だ。


こんな形で彼の好きな味を知ることになるとは思わなかった。


ブラックコーヒーが飲めない祥香には、大人すぎる味だ。


それなのに、不思議と嫌じゃなかった。


触れた唇がすぐに離れてしまったことを残念がっている自分がいる。


いつの間にそんな積極的になったの?


好きの感情ひとつで、こんなに自分は簡単に変わってしまう。


見たことのない自分が次々生まれる。


「平良さん、お願いですから、一人にして下さい」


もう一度頼むと、平良の声が少しだけ遠くなった。


「分かった。行くよ。でも、約束ね、今日帰ったら絶対ちゃんと話しよう」


念を押す彼の言葉に、見えないことを承知でこくんと頷く。


それからすぐに平良は部屋を出ていく音がした。


かなり急がないと間に合わない時間になっていた。


コンビニに寄る時間はないだろうから、渡した朝ごはんが役に立つはずだ。


一人になった後で、洗濯機を回して、ようやくリビングに戻った。


まだ出勤まで時間がある。


誰も見ていない事を知りながら、それでも背後を確認して、そっと唇に触れた。


触れたのは一瞬で、熱なんて移るわけがないのに、まだそこに平良のぬくもりが残っているような気がした。














・・・・・・・・・・・・・・・・












ホームに滑り込んできた電車に飛び乗って、慌ただしく会社に向かって、何とか予定時間ギリギリにパソコンを起動させた。


遅刻したら、遅刻したでよかったはずなのに、どうしてもいつもと同じ朝のようにしなくてはいけない気がした。


ぐるりとフロアを回って、自席に腰掛けた途端、一気に現実が押し寄せて来た。


「うわぁあああ!」


もう穴があったら入りたい。


こんなつもりじゃなかった、なかった、なかった!


祥香が当然みたいな顔で、賃貸情報誌とか出してくるし、出て行く気満々だから、ちょっと悔しくなったのもあった。


しかも祥香があんな近くに来るから!


土曜の夜は唇にしたかったけど、我慢したんだよなとか思っちゃって、そうしたら、もうなんか、ストッパーが飛んだ。


祥香がゆっくり目を閉じたのも見てた。


だから、あれは、合意の上のキス。


でも、だからって許される事じゃない。


キスの後俺のことを見た祥香は、驚いてた。


その顔に拒絶の色が浮かばなかったことだけが救いだ。


その後思いっきり逃げられたけど。


あれは混乱て思ってていい?


帰ったら、ちゃんと話しようね。


きみに、ちゃんと告白させてよ。


祥香は俺の一番大事な女の子だよって。


今日は絶対に返事を貰うよ。


俺の部屋を出て行くなんて言わせない。


居候じゃなくて、これからはちゃんとふたり暮らししよう。


祥香の事をもっと教えて。


俺のことも何でも訊いてよ。


それで、別々の部屋で眠るのは終わりにしよう。


いい加減ちゃんと抱きしめさせて。


朝も昼も夜も、ずっと一緒にいようね。


あんな事故みたいなのじゃなくて、ちゃんとキスさせて。


祥香の唇、憶えさせてよ。


祥香は俺のキスを覚えてね。


おはようのキスも、おやすみのキスも、好きだよのキスも、祥香を頂戴のキスも。


全部全部きみにだけあげる。


あー早く帰って祥香と向き合いたい。


俺はお手製のバゲットサンドを食べながら、ただただ時間が早く過ぎることを祈った。

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