第37話 とびきりの変化は、しっぺ返し

普段通りしなきゃとは思っても、不意打ちのキスの余波はかなり大きく、結局平良とまともに会話しないまま定時になった。


名古屋出張の報告と、関わった部署への挨拶回りで、平良が殆どフロアにいなかったせいもある。


けれど、それが逆によかった。


話し掛けられてもどんな顔をすれば良いのか分からない。


あのキスは事故ですから、忘れます。なんて、割り切れるほど恋愛経験を積んでいない。


まして、自分からキスを受け入れた事もあって、さらにどうすれば良いのか分からない。


営業部との会議に出ている平良が戻る前に、逃げるようにフロアを後にした。


最寄り駅まで戻ると、少しだけ気持ちが落ち着いて、駅近くのスーパーに買い物に行くことにした。


冷蔵庫の中身が空っぽだったことを思い出したのだ。


今日こそ平良さんの好きなもの作ろう。


それで、一緒にご飯食べて、部屋の事を相談して、ちゃんと告白しよう。


祥香はこれまで平良に作った料理の中で、好評だったメニューを思い出す。


レパートリー自体多くないし、手軽なものしか作らなかったけれど、平良はいつでも喜んで食べてくれた。


「あ、あんかけ焼きそば!」


祥香の部屋から荷物を運んだ日の夜、初めて平良の部屋のキッチンで作ったメニューだ。


お米を炊く時間が無かったので、帰り道にスーパーで買い込んだ食材をフル活用して、具だくさんのあんかけ焼きそばを出した。


中華あんじゃなくて、溶き卵のチリソース味のあんにしたら、平良がとても喜んだのだ。


ビールに合うからまた作って、と言われて嬉しかった。


きっと、あの時から、平良さんに惹かれてたんだ・・


いつもはスーパーの中をうろうろしながらメニューを決めることが多いけれど、今日は必要な食材だけを買って帰る。


いつもの半分の時間で買い物を終えて、マンションに戻った。


平良はシフト勤務でなければ祥香の40分後くらいに帰宅する。


宗方が、出張帰りの平良を気遣って1週間シフト勤務から外すと言っていた。


すぐに夕飯の準備しないと!


急ぎ足でエレベーターに乗り込み、平良の部屋へ向かう。


合鍵を見る度違和感を感じていたけれど、いつの間にか慣れていた。


シルバーの鍵を差し込んで回す。


「ただいまー」


誰も居ないと分かっているのに、つい癖で言ってしまう。


玄関に入って、スーパーの袋を靴箱の上に置こうとした時、脱衣所から物音がした。


「あら!?龍ちゃん?」


脱衣所のドアが開いて、中からバスタオルを巻いた妙齢の女性が出てきた。


驚いた拍子に、スーパーの袋を離してしまった。


タイルの上に袋が落ちる。


卵が割れる音がした。


祥香の知る現実が壊れる音にも聞こえた。


どういうこと?


声も出せずに目を白黒させる祥香に、濡れた髪を手で纏めながら、目の前の美人が首をかしげる。


「あなた、どなた?」


「っ!し、失礼しました!」


ここにいちゃいけない。


踵を返して、祥香は廊下へ飛び出した。


「え?ちょっと」


背中にかかる声を振り切るように走り出す。


また?またなの?


絶対違うと思ったのに、平良さんは大丈夫って思ったのに。


嘘つき!!!


やっぱりちゃんとした恋人がいたんじゃない!


私とは正反対の華やかな美人が!


それなのに、キス・・・・


触れた唇の感触がまざまざと甦って来て胸を締め付けて来る。


「もぅやだぁあ!」


止まっていたエレベーターに乗り込んで、エントランスへ向かう。


もう二度とここには来ない。


避難場所は、避難場所でしかなかった。


こみ上げてくる涙を掌で拭う。


泣くな、泣くな。


こんなの何でも無い、私の日常はここにはない。


祥香は唇を噛みしめながら、嗚咽を堪えて駅に向かった。


いつもな苦手な人ごみが、今日は苦痛じゃない。


ざわめきの中にいないと、子供みたいに泣きじゃくってしまいそうだ。


合鍵を持ってるのは私だけじゃなかった。


あのシルバーの鍵が、本物のガラスの靴に思えたのに。


今回もニセモノだった。


また勘違いして、一人で空回りして・・


帰ろう、私のいまの居場所はあのハイツにしかないんだから。


あのハイツにひとりで帰る怖さより、平良の部屋で突きつけられた現実の方が、よほど大きく祥香を傷つけた。


信じられると思ったのに。


今回も違っていた。


これから、自分のなにを指標にして現実と向き合えばいいんだろう。


もうなにも信じたくない、考えたくない。


眠って、起きたら忘れてしまっていたい。


あの日にはじまった、すべてのことを。



ノロノロ歩いてハイツの前まで辿り着いたら、敷地の前にタクシーが止まっているのが見えた。


住人の誰かが呼んだのだろうか?


不思議に思いながらタクシーの横を通り過ぎる。


「祥香!」


名前を呼ばれることがくすぐったくて、恥ずかしくて、あんなに嬉しかったのに。


今は一番この人に名前を呼ばれたくない。


ハイツの前で立っていた平良が、こちらにやってきた。


「何しに来たんですか・・?」


「迎えに来た。びっくりさせてごめん」


「帰りません!帰る訳ないじゃないですか!あの人から連絡貰ったんでしょう!?綺麗な人でしたね、平良さんには、私なんかよりあの人のほうが似合いますもんね。荷物は送り返して下さい。訳あって、一時期だけ居候してたって話して貰って構いませんから」


そうやって無かったことにしてくれたら、この先引きずらなくて済む。


「違うよ、祥香、あの人は」


平良が伸ばしてきた手を振り払う。


「聞きたくない!嘘つき!!!ちゃんと告白しようって決めたのに!」


「・・・祥香」


平良が必死に祥香の手首を掴んだ。


いつだって優しかった彼の手が、今は重い手枷に思える。


「大っ嫌い!!!」


力任せに平良の手を解いて、そのまま彼の頬を叩いた。


渇いた音が響いて、はっと我に返る。


誰かをひっぱたいたのは生まれて初めてだった。


自分の手も痛くなるんだ。


急に罪悪感が湧いてきて、祥香は手を引っ込めた。


打たれた平良が、ごめん、と初めて謝る。


認めるんだ。


潔いといえばいいのか、馬鹿にするなと詰ればいいのか、もう、何もかもどうでもいい。


「祥香、とりあえず一緒に戻ろう。すぐに必要な荷物だってあるだろ?お願いだから」


勢いで送り返して、なんて言ったけれど、あの部屋には着替えや化粧品もある。


シャンプーやトリートメントも全部持ち込んでいた。


「・・・・わかり・・ました」


どうせもう、これが最後だ。


小さく頷いて、平良が待たせていたタクシーに乗り込む。


今までで一番気まずい空気だった。


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