第38話 とびきりの変化は、対面
平良の頬を打った感触が、いつまでも消えない。
好き、だった人に、手を上げるなんて。
当然の報いだと、すぐには笑えない。
そんなのは無理だ。絶対無理だ。
俯けば重力で涙がこぼれ落ちそうで、必死に窓の外の景色を眺めた。
平良の前で泣くのだけは絶対に嫌だった。
タクシーがマンションの前で止まる。
振り向くことなく先に降りてエントランスへ向かう。
エレベーターの前に人影が見えた。
着物姿の和服美人が、こちらに気づいて小走りでやって来た。
さっきのバスタオル姿の女性だ。
こんな所で鉢合わせするなんて。
さっきは失礼しましたと言うべきか、素知らぬ顔で横を通り過ぎるべきか迷っていると、後ろから平良が追いかけてきた。
「よかった!捕まえられたのね!」
祥香の後ろにいる平良に向かって、穏やかに微笑む。
この修羅場でなんでこんな余裕なの、この人・・ああ、そっか、私なんて眼中に無いからか。
地味なチョロい女は女の数にも入らないのか。
大して残っていなかった自尊心がいよいよぺしゃんこになった。
「俺、フラれそうだから。ちゃんと説明してよ、姉さん」
呆然とする祥香の隣で、平良が溜め息混じりにぼやいた。
聞こえて来た単語にえ?と耳を疑った。
恋人じゃなかったの!?
「へ!?」
ギョッとなって振り向いた祥香の肩を軽く押して、平良が頷く。
「さっきはごめんなさいね。あんな格好で失礼しました。いつも龍ちゃんがお世話になっております。龍司の姉の芳乃です。お茶のお稽古の前に、着物に着替える為に時々お邪魔してるのよ」
「は・・お、お姉さん、ですか・・」
そういえば面立ちがどことなく似ている。
整った顔は親譲りらしい。
この人はお姉さん、お姉さんっていうことは・・私の早とちり?
ど、ど、どうしよう・・
さっき平良に投げつけた酷い言動が蘇って来て、別の意味で泣きそうになる。
くしゃりと顔を歪める祥香に、芳乃は平良とよく似た笑みを浮かべた。
「ええ、正真正銘血の繋がった姉です。まさか彼女と一緒に暮らしてるなんて思わなかったから、突然お邪魔してごめんなさいね。いきなり見知らぬ女があんな格好で現れたら、そりゃあびっくりするわよね。でも、龍ちゃん、これまで一度も恋人を部屋に連れ込んだこと無いのよ、子供の頃からそりゃあモテる子だったけど、そういうところはシビアなの。だから、あなたの事は本気だと思うわ。どうか、信じてやって、別れないでいてやってね」
「あの・・いえ、付き合ってません」
嘘つくのもどうかと思って、そこは訂正しておく。
祥香の返事に、芳乃が目を剥いた。
「龍ちゃん!ちょっとあんた何やってるの!まずお付き合いしてから同棲するのが順序でしょう!外堀から囲い込むようなことして!全く」
「いや、姉さんこれには色々理由があって」
言い訳を口にしようとした平良の言葉に被せるように、芳乃が祥香に向き直った。
「弟の名誉の為に言っておくけれど、あなたが飛び出した後で、私が確認の電話を架けた途端、この子ったら泣きそうになってたわよ。あんなに取り乱した龍ちゃんを見たの初めてだわ。相当あなたの事が好きなのね。 これからちゃんとするでしょうから、見捨てずにいてやってね」
こんな風に平良の気持ちを再確認するとは思わなかった。
気まずいけれど、無視するわけにもいかなくて、恐る恐る後ろを振り返る。
平良と目が合った。
ばつが悪そうに視線を泳がせた平良が、ぽつりと呟く。
「もういいから、姉さん仕事行きなよ。
タクシー待たせてるし。
俺はこれから盛大に祥香を口説かなきゃならないし、ね?」
背中から回された腕が祥香を抱きしめた。
「ちょ!た、平良さんっ」
誤解は解けたけれど、肉親の前でこんな風に抱きしめられると困ってしまう。
腕を掴んで逃げだそうとするけど、いつになく強い力で抱きしめ返されてしまった。
しかも、嫌じゃないから本気で怒れない。
祥香の首筋に顔を埋めて平良が続ける。
「姉さん、待っててくれてありがとう」
「その姿勢で言うことかしら!もう。まあいいわ、ふたりとも、仲良くね。ええと、祥香さん?これから長い付き合いになることを祈ってるわ」
「あの、芳乃さん。色々と申し訳ありませんでした」
祥香があの場で芳乃に話をしていたら、こんな行き違いは起こらなかった。
とても冷静に話を聞ける状態ではなかったけれど。
でも、そうしていたら、祥香が平良の頬を打つ事も無かった。
今さらタラレバを言ったところで始まらないけれど。
仕方なく平良の腕の中から頭を下げる。
芳乃がにっこり笑って、祥香の耳元に顔を寄せた。
ひそひそ話でもするように声を顰める。
「この子の事を好きなら、龍ちゃんって、名前で呼んでやって。きっと凄く喜ぶから」
それは告白に並ぶくらいハードルが高い。
難しい表情で、それでも、はい、と返事する。
「それじゃあ、またね」
楚々とした足取りでタクシーに乗り込む芳乃を見送る。
「さてと、俺たちも帰ろっか」
平良がやっと祥香から離れた。
そのまま横に並んだ彼の手が、祥香の指先を握る。
本当にふたりきりになったことに気づいた。
もう、だれもこの間には入れない。
謝らなきゃ、話を聞こうとしなかったこと、叩いたこと。
家の話をして、それで、ちゃんと告白・・
どれから言い出せばいいのか分からない。
ほんの一時間ほど前に飛び出した部屋に、新しい気持ちで帰る。
帰る、でいいのかな?
何も言い出さないまま、平良が玄関のドアを開けた。
先に祥香を中へ通して、後から入って鍵をかける。
ガチャンという施錠音に、びくりと身体が震えた。
「ご、ごめんなさいっ、私・・!」
平良のほうへ振り返る。
顔を見るより先に平良の腕が背中に回った。
さっきよりもさらに強い力で抱き締められる。
「・・祥香」
聞こえてきた弱い声に、自分がどれだけ彼を傷付けたのか思い知らされる。
胸が締め付けられるように痛い。
「・・ごめんなさい」
「・・なんのごめん?理由次第では聞きたくないんだけど」
「勘違い、して・・叩いちゃって・・」
「それはいーよ。俺も悪いし、あの状況で冷静になれるわけもないと思うから」
「それと!」
「それとー?」
静かに平良が祥香の黒髪を撫でた。
指先が悪戯に項をくすぐって落ちていく。
「大嫌いって・・言って・・ひゃっ」
多分これが一番彼を傷つけた。
祥香の予想は大当たりだったようで、平良が耳たぶを甘噛みする。
ざらついた舌が輪郭を確かめるように這って首筋へと降りた。
首筋に鼻先を押し付けて、平良が囁く。
「うん、すっげー傷付いた」
「ごめんなさい」
「取り消して、やり直してくれる?」
「え?」
「祥香言ったよね?告白しようと思ったのにって」
「・・あ」
いきおいで口走った言葉を、しっかり平良は憶えていたのだ。
僅かに身体を起こした平良が、祥香の頬を包み込んだ。
とろんと瞳を甘くする。
「だから、取り消して、やり直して?俺の傷付いた心をちゃんと治してよ。祥香にしか出来ないことだよ」
思い切り傷つけた自覚がある。
だから、もう素知らぬ顔は出来ない。
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