第30話 とびきりの変化は、自覚
祥香の言葉で、漸く正解にたどり着いた平良が、祥香を見下ろして相貌を崩した。
とろんと眼差しを甘くする。
真っ直ぐに見つめられて、とんでもない事を口にしたと気づいた。
「祥香」
平良が小さな声で呼んだ。
フロアなら聞き逃してしまいそうな小さな声だった。
けれど、今はふたりきり。
一歩で埋まってしまう距離だから、遮るものはなく、その声は祥香の心まできちんと届いた。
平良が一歩前に出る。
目の前に迫った彼からするのは、仕事用の香水の香り。
怯んだ時には平良の腕に捕まっていた。
背中に添えられた掌で閉じこめられた事を知る。
抱きしめるまで、抱き寄せるまでもいかない。
平良は腕を回して、祥香がそれ以上遠ざかることを阻んだ。
「っ!」
「ごめんねー」
囁き声が酷く弱くて、平良が目を眇めた。
「ち、ちが」
謝らせたいわけではないし、困らせたいわけでもない。
ただ、解って欲しいのだ。
だけど、それを伝える為には最初に言わなきゃいけない言葉が、ある。
淋しいって言葉を、他の言葉に置き換えれたらいいのに。
「あのね、祥香」
平良が頭をもたげた。
コツンと額がぶつかる。
内緒話の声。
返事をする直前に、着信音が鳴り響いた。
平良の会社用のスマホだ。
ポケットからそれを出した平良が、液晶画面を確かめて溜め息を吐く。
閉じこめられた腕の中から逃げ出そうと、祥香が片足を引いた。
途端、背中に添えられていた掌に力が加わった。
今度は抱き寄せられる。
平良が祥香の肩に頭を預けた。
甘えるように首筋に頬を押し付けてくる。
耳に触れる硬い髪がくすぐったい。
でも、動けない。
指一本動かせない。
息が苦しい。
「はいよー、どしたー?」
祥香の動揺を余所に、平良は悔しいくらいいつも通りの口調だ。
「お前今どこだ?もう戻ってくるよな?」
至近距離なので、祥香にも通話先の宗方の声が聞こえた。
「一服してたー、もう戻るよ、死んだパソコン特定出来た?」
「在庫管理用と、売上管理用は確定。レジ横に置いてる分は無事らしい」
さっき宗方の電話の相手は名古屋支社だったらしい。
報告を受けた平良は、祥香の肩に凭れたままでうーんと悩み始める。
当たり前のように彼は祥香を腕の中に留めたままだ。
本当は、電話が鳴った時点で暴れてでも逃げ出すべきだったのだ。
彼の腕が追いかけてきたとしても。
留まってしまったのは、驚いたのと、近づく距離が嫌じゃなかったから。
ここで考え込まないで!!
自分が一瞬だとバレるわけにはいかないから、声は出せない。
時折気まぐれに、平良の唇が耳たぶを掠めていく。
びくりと肩を震わせた祥香の横顔をちらりと見て、吐息で笑った平良が、再び肩に甘える。
「んー、じゃあ名古屋保管の予備のラップトップ持って現地入るわ。代替手配はお前に任せてもいい?」
「分かった。いま美青がすぐ動かせる在庫調べてる」
「助かる、俺のとこで止まってる申請案件も後よろしく。
至急対応の依頼は無かったからこっちは後でもいーよ」
「そっちは芹沢が掴んで代理決済に回してる」
「さすが、フォローが早いねぇ。じゃあ、すぐに出かけても問題なさそうだな」
声のトーンが少し下がった。
「なんだ、心残りでもあるのか?・・ああ、今井さんなら今席外してるけど?」
そんな気遣いはいりません!
心臓が猛スピードで走り出す。
祥香は胸元を押さえて息を殺した。
悪いことをしているわけじゃないのに、どこか後ろめたい気持ちになるのは、ここが仕事場だからか。
「ああ、うん、それはもう大丈夫。解決済み」
これのどこが解決済みなの!?
大問題の最中の間違いじゃなくて!?
思わず平良の方を見ると、こちらに視線を向けた彼とばっちり目が合った。
ね。と目で訴えられても困る。
「え、そうなのか?・・え、お前!」
何かを察した宗方の声に被せるように、平良が口を開いた。
「じゃあ、すぐ戻るよー」
それ以上平良に口を挟ませずに終話してしまう。
仕事を終えたスマホをポケットに戻して、平良が物凄く残念そうに言った。
「あーあー。名古屋行くの嫌になってきたな・・」
「あーあ、じゃなくて、離して下さいっ」
平良の胸に手をついて突っぱねようとしたら、試すように甘い声が降ってきた。
「えー。祥香、俺、腕離したほうがいい?ほんとにー?」
もうやだ、なんなのこの人!
顔を覗き込んで微笑まれると、引っ込んだ筈の涙がこみ上げて来そうになる。
「し、仕事、してください」
「一人にしちゃうけど、ごめんね。心細いなら、家中の電気つけたまま寝ていいよ。ああ、それより俺のベッドで寝れば?」
なんでそんな方向に話が飛ぶの!?
「あり得ませんっ」
「そう?まぁ、気が向いたらでいいけど」
吹き込む風が乱した祥香の髪を、平良の指が掬った。
そのまま梳き上げて、頬を撫でる。
平良が急に眉根を寄せた。
「あれ?ちょっと熱っぽい?祥香、平熱高い子なの?」
確かめるように額に触れられて、声を上げそうになった。
「っ!平熱は、高くないですっ!いま、体温高い時期なだけで」
微熱っぽいのは生理のせいで、いつもそうなるので異常ではない。
けれど、それをそのまま口にするのは憚られるし、遠まわしに病気じゃないとアピールするのは難しい。
大丈夫です、と続けた祥香の微妙な表情に、平良がああ、と頷いた。
「じゃあ尚更あったかくしないと。ごめんね、身体冷やしちゃったな・・こんなとこに引き留めとくんじゃなかった」
あっさり言った平良が、祥香の頭を優しく撫でる。
なんで平良さんは普通で、私だけこんなにどぎまぎしてるの!?
な、慣れてるからだ、女子の扱いに。
すぐ辿り着いた答えに、気持ちがへこむ。
祥香にとっては顔から火が出るくらい恥ずかしい事でも、これまで何人もの女の子と付き合ってきた平良にとっては、自然なことなのだ。
この人に好きと言おうと思ったら、相当の覚悟がいる。
これから何度もこういう気持ちになる。
それでも、負けないでいられる?
無意識に唇を噛みしめたら、平良が心配そうな顔になった。
「大丈夫?お腹痛い?」
「だ、大丈夫ですっ」
なんでフォローも完璧なの!?
嬉しいし、気遣いは有難いけど、物凄く悔しい。
ただでさえナーバスな時期なのに、堂々巡りの悩みを引きずるのは精神衛生上よろしくない。
「戻ろっか?」
平良がそっと背中から掌を離した。
優しい問いかけ。
今は、この人は私だけのものだ。
「はい」
頷いて、ゆっくり階段を下っていく。
先を歩く平良が、途中でこちらを振り向いた。
「さーちかー」
「はい?」
「俺が、出張から戻ったら、ちゃんと話しようね」
それはまるで、宣戦布告のように聞こえた。
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