第29話 とびきりの変化は、出張
昼休みから戻ったら、フロアが酷く騒がしくなっていた。
いつもは自席で置物のように座って承認作業をしている部長まで、フロアの中ほどまでやって来て難しい顔をしている。
中心となっているのは、電話で誰かと話している宗方のようだ。
間宮がプリントアウトした書類を、宗方の元まで持っていくと、その周りに部長たちが集まった。
左隣に立っている課長が、宗方を挟んで反対側に立っている芹沢と真剣な表情で何かを話している。
なにがあったんだろ?
尋ねられそうな間宮と美青は忙しそうだし、ここにいるはずの平良の姿も見えない。
無意識にキョロキョロしていたようだ。
祥香の挙動不審に気づいた間宮が、チョイチョイと手招きした。
「さっちゃん、平良さんなら一服中」
バレてた!
「え、あ・・」
「戻ったらすぐに名古屋出張だと思うよー」
「名古屋?」
平良が長い間支社へ出向していた事は聞いていた。
また呼ばれたのだろうか?
怪訝な顔をする祥香に、美青が実はー、と回答を口にする。
「うちの店が入ってる名古屋のビルで火災が発生してたのよ。
消火作業は終わってるけど、サーバー、パソコン関係全滅だから、平良さんが緊急出動。
最低でも二、三日はあっちに滞在すると思う」
つまり自宅には戻らないということだ。
視線を下げた祥香に、間宮がこっそり囁く。
「会いに行くならいまのうちだよー?」
不安そうな顔になっていることは自分でも分かっていた。
「っ!き、給湯室行ってきます!」
あの部屋に来てすぐは、一人のほうが落ち着くと思っていたのに。
「いってらっしゃーい」
間宮と美青の笑みを含んだ声に見送られてフロアを抜ける。
平良の部屋で暮らし始めてからもうすぐで一ヶ月。
彼について、いくつか分かった事がある。
食べ物の好みや、生活リズムが夜型だということ。
煙草は会社でしか吸わないこと、誰かと一緒の時は喫煙ルームに向かうけれど、一人の時は大抵裏通りに面した非常階段の踊り場に行くこと。
ひとりでボーッとしたい時はそっちのがいいんだよねー、風で匂いも飛ぶしね。
いつも来てくれてる掃除のおばちゃんに言ったら、古い灰皿置いて貰えたし。
これは祥香と俺だけの秘密ね。
就寝前の短い時間、リビングでアイロン掛けをしている祥香の隣で、ソファに寝転んでテレビを見ていた平良から聞いた。
祥香が起きている間は、平良も同じようにリビングで過ごす。
祥香が和室に引き上げると、入浴して、自室に戻っているようだった。
廊下に出て、日陰になっている突き当たりのドアから非常階段に出る。
自分から教えて貰った踊り場に向かうのは初めてだ。
ドアを開けると強い風が吹き付けた。
スカートだったら大惨事、本日も安定のパンツスタイルで本当によかった。
今日は綺麗に巻けたので、下ろしたままにしていた風に舞う髪を押さえて、視線を上に上げる。
見つけた。
手すりにもたれている見慣れた背中に、気持ちが緩んだ。
錆び付いた階段を上がっていくと、平良と目が合った。
「あれ、どしたの?祥香がこんなとこ来るなんて初めてじゃない?」
キョトンと首を傾げられて、気づいた。
ここに来る理由なんて、何一つ用意していなかった。
指に挟んだ煙草から出た紫煙が、空へ上っていく。
どうしよう・・
ただ、会いに行かなきゃと思ってフロアを飛び出したなんて、言えない。
口を開いては閉じて言葉を探す祥香から視線を逸らさずに、平良が真横にあった灰皿に煙草を押し付けて捨てた。
「煙草、まだ・・」
火を付けて間もなかったらしい煙草は、十分な長さがあった。
決して安くない嗜好品なのに。
「うん、いいよー。それより何かあった?」
惜しげも無く言って、平良が手すりから離れる。
本当に吸い始めて間がなかったらしく、平良から煙草の匂いは一切しなかった。
「あ、の・・」
向き合っているだけで心臓が早鐘を打つ。
いつから?いつからそんな風になったの?
平良の隣は緊張するけれど、居心地がいいと知ってしまったからだ。
誰かの肩に凭れて眠ってしまったのなんて、生まれて初めてだった。
あの日以来、恋心は急激に加速している。
平良は決して祥香を急かさない。
必死に平良の目を見つめ返す祥香に、優しく相槌を打った。
「うん」
「名古屋の火災のこと」
「ああ、話聞いたの?うん。もう火は消えてるし、燃えたのって、一部だけだから、大したこと無いんだけどね」
「すぐに、名古屋に向かうって・・間宮さんから聞きました」
「うん、とりあえず分かる人間が現地に入ってないと、機材の手配も出来ないし。多分、ラップトップは何台か急ぎで出荷して貰うことになるかも」
もっと別のことを言うかと思ったのに、平良はいつも通りの口調で、仕事の話を始めてしまった。
「火災は初めてだから、みんな対応に追われてバタバタしてるけど、そのうち落ち着くよ。不安だろうけど、祥香はいつも通りに仕事してたら大丈夫」
なんで、なんなの?
悔しさともどかしさがない交ぜになって押し寄せてくる。
彼は綺麗に祥香の感情を読み違えていた。
あんなに女の子から人気があって、私の数十倍恋愛経験豊富なはずなのに、なんで、わかんないの!?
何も言えない自分が悪いのは分かってる。
ちゃんと自立するまではと線引きしたのは自分だ。
でも、平良は祥香の気持ちをきちんと汲み取っていた。
だから、時々試すような事を言って、祥香を困らせる。
この間の飲み会の帰り道のように。
私がどれだけの勇気で、あの手を握ったと思ってるのよ!
繋いだ手から、気持ちが全部伝わればいいのに。
駅までの道を歩きながら何度も何度も思った。
平良を思う気持ちと、彼のもとへ飛び込んでいけない臆病な自分が抱える不安な気持ち。
聞いて貰えたら、きっとすぐに答えが出るのに。
私はその一言を口にするのが物凄く怖い。
始まりは終わりへの第一歩だ。
安心させるように微笑んだ、文句のつけようのない整った平良の顔を思い切り睨みつける。
こんな風に誰かを睨んだのなんて初めてだ。
悔しくて、涙までこみ上げてくる。
この状況で平良を詰る権利なんてないと分かっていても、剣を帯びた声になった。
「違いますっ」
ああ、そっか、拗ねてるんだ。
まるで子供みたいだ。
言わなくても分かって欲しいなんて、全部甘えだ。
今、わかった、私はこの人に甘やかされたい。
子供をあやすみたいに、何もかも許されて、守られたい。
心に答えがストンと落ちて、猛烈に恥ずかしくなった。
涙目になって、急に声を荒げた祥香に、平良がたじろぐ。
「え、なにが?な、なんで祥香泣きそうなの?」
「私が不安なのは、仕事の事じゃないのに!」
怒りと羞恥心にまかせて放った言葉が、静かな非常階段に響いた。
やっと慣れたふたり暮らしなのに、急にひとり残される事が不安なのに。
いつも私が眠るまで、リビングにいてくれる平良さんがいないから、不安なのに。
まるで捨てられたみたいな気分になって、淋しいって、心は泣くのに。
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