第21話 とびきりの変化は、優しさ

「俺が言ったこと、覚えてる?」


膝立ちになった平良が、祥香の方へ身を寄せた。


伸びた手が、適当に後ろ頭で結んだだけの髪を撫でる。


頬に零れるおくれ毛を掬った指が、ほんの僅か肌に触れた。


不意打ち過ぎて、身動きひとつ取れなかった。


祥香は必死に両目を閉じて訴える。


「ちゃ、ちゃんと全部覚えてますっ」


覚えてるから、それ以上踏み込まないで!


何も選べない今の私に、出せる答えなんてない。


祥香の返事に目を伏せた平良が、よし、と呟く。


なんの、よし、なのか分からない。


けれど訊くのも怖い。


心の奥で見え隠れする弱い自分には永遠に目隠ししていたい。


「ならいいよ。朝ご飯したら、必要な荷物取りに戻ろう。これからも、一人で部屋に戻らないようにね。何かあったら困るから」


「平良さん!」


なんでそんなに簡単に、いつも通りの口調でこの生活を延長させてしまえるのか、祥香には全く分からない。


「んー?」


「私の事、ひと月も置いておいていいんですか?」


あの部屋で引っ越しまでの間ビクビクしながら過ごすのは怖いし、不安だらけだ。


でも、この状況は平良の生活を考えれば決してベストとはいえないはずだ。


平良の好意は嬉しいしけれど、出会ってまだひと月ちょっとの自分の何を信じて、内側に入れてくれたんだろう、と疑問に思ってしまう。


「いいもなにも、俺がこの状況作ったんだよ?好きなだけ居てくれていいよ。ねえ、今井ちゃん、ほんとに俺の言いたい事分かってる?」


もう一度伸びて来た手が、祥香の頭をくしゃりと撫でた。


恋愛ほぼ未経験の祥香でもわかる。


今のは、しょうがないな、という声が聞こえてきそうな触り方だった。


平良が甘やかしたいと思っている事は、その手つきで伝わって来る。


けれど、それを素直に受け入れて、自分を預けるだけの覚悟も勇気も今はない。


「分かってます、こんなに優しくして貰って、ほんとに・・有難いです。でも、私の事、そ、そんなに信用していいんですか?」


彼の信頼に足る何かをしてきたとは到底思えない。


粉砂糖のようにサラサラ降って来る甘い言葉は誘惑の香り。


頷けばきっと最高に幸せなお姫様になれるはずだ。


愛される自信と、彼の愛情を繋ぎ止めるだけの術があれば。


偽物だったけれど、一瞬だけガラスの靴を履いたと思えたあの感覚。


綺麗に割れて粉々になったそれは、祥香の身体に小さな傷を沢山残した。


あれは教訓だ。


身の程を知れって事だったのよ。


頑張って繕った張りぼてのドレスじゃ、本物の王子様を見つけられる訳がない。


この手にあるもの全部、本物だと思ってしまった浅はかな自分の淡い過去は、もう濁って深くに沈んでいる。


平良さんは、こんな私の何に、価値があると思っているんだろう?


「ちゃんと見てれば今井ちゃんがどんな子かはすぐに分かるよ。むしろ信用しない理由がないよ。で、そういう今井ちゃんは、俺の事少しは信用できそう?」


無邪気に目を細めて魅力的な笑みを浮かべる平良に、こくこくと頷き返す。


「勿論です、めちゃくちゃ信用してます」


「・・・うん、じゃあ俺はその信用に120%の気合で応えないとね」


「今でも十分です、あの、本当に・・」


何度も繰り返すと、逆に嘘くさくなるかと思ったけれど、彼に寄せる信用に関しては、是が非でも伝えたかった。


この人なら大丈夫、と、思えた。


芽生えたばかりの恋には、ちょっと刺激の強い距離感だけれど。


こんなに心配してくれる平良の事を振り切って、自宅に戻るなんて考えられない。


「私に気を遣って、二日間家に居ないようにしてたんですよね?すみません・・・平良さん、全然休めなかったですよね。あの、私もちょっとは、その居候としての心構えとか、色々、考えたので・・これからは、平良さんのお邪魔にならないように、過ごさせて貰えたらと思います」


「邪魔なんかじゃないよ。俺も、強引に連れてきちゃったから、色々とね・・えーっと気を揉んでね。一緒にいると、余計緊張させちゃうかと思ったから、ずらしてたんだけど」


「それは、あの、もう、やめてください。私も申し訳ない気持ちになっちゃうので」


「うん、そうだね。俺も、ちゃんと、うん、出来ると思う」


「はい?」


「ううん、いいの、何でもない・・・はー・・よかった」


大きく息を吐いた平良が、ごろんとカーペットの上に横になった。


物凄い脱力感だ。


「えっと、それで、これから私、台所お借りしても大丈夫ですか?家の冷蔵庫に置きっぱなしの食材使いたいし、調理器具も持ってきたいんですけど・・お弁当入れていきたいし」


「了解。いいよー、キッチンは今井ちゃんに預けるよ、好きに何でも持っといで」


「ありがとうございます。平良さんも、私が作ったので嫌じゃなければ、お家で食べれる日は、ご飯、一緒にしませんか?」


「いいの?」


「勿論です。お洗濯も、別々に洗うの勿体ないし、私にやらせてください。住まわせて貰う間は、平良さんのお部屋以外は、お掃除もさせて貰います」


「有り難い・・けど、俺、おさんどんさん欲しくて、呼んだわけじゃないよ?新婚さんごっこは、楽しいと思うけど」


「ち、違います!お、お世話になるからそれ位は」


「お世話じゃないって言ったろ。俺が好きで連れて来たの。それに、俺の部屋にも入っていいよ、見られて困るもの無いし」


「あ・・はい」


「それより、洗濯物ほんとに任せて平気?」


「はい、大丈夫ですよ。アイロンも持って来るんで、ワイシャツもアイロンかけますし」


「ワイシャツはスーツと一緒にクリーニング出してるからいいよー、面倒だろ」


「クリーニングはスーツだけにしましょう!勿体ないですよ。お父さんのアイロンかけ以来してないから、あんまり自信はないですけど、練習しますし・・・あ」


「ん?なにー?」


「もしかして、お洗濯とかお掃除に拘りとかありますか?」


「ないよー、何にも。自分が楽したいからプロに任せてただけ」


「じゃあ、大丈夫ですね」



自分にもこの家で出来る仕事が見つかってホッとした。


ひと月ちょっとお世話になるのに、延々お客様を続けるわけには行かない。


こういう状況になって、初めて気づいた。


どこかで対等だと思えないと、私は恋に身を寄せられない女だ。


気兼ねせずにうちで過ごせばいいよ、とどれだけ優しく囁かれても、素直にはい、と頷けない。


何も返せるものがないのに、無限の愛情を受け取る資格なんて、私にはないのだ。


多分、こういうのを世間では可愛げのない女だというんだろう。


でも、そういう性質なんだから仕方ない。


生まれてから今日まで、俗にいう愛されキャラとは無縁の人生を送って来たのだから、いきなりそんな砂糖漬けの生活を目の前にぶら下げられて飛びつけるわけがない。


自分の足で立って、歩く事。


自分の生活は自分で何とかする事。


最低限の自立が叶って初めて、それ以外の事に意識を向けられる。


物凄く面倒で、不器用な女だったんだと、この年になって自覚した。


ごろんと寝転んだまま、下から祥香を見上げた平良が、じーっと顔を見つめてきた。


髪は手櫛で梳いて、纏めただけだから、寝癖でもついていただろうか?と不安になって髪に手をやると、平良が答えを見つけたように軽く首を傾げた。


「今井ちゃん、すっぴん?」


「え、あ、はい」


普段家にいる時は、休日なら昼過ぎまでパジャマでゴロゴロする事もままある。


明日は掃除して買い物行くぞ、と決めれば起きられるが、それ以外は結構ぐうたらだ。


当然、平良の前でそんなだらしない恰好は出来ないから、起きてすぐ着替えて髪を纏めることまではしたけれど、化粧まで気が回らなかった。


指摘されると、じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる。


あと15分、平良が起きて来るのが遅ければ鏡を見て眉毛を書いてリップを塗る位はしたかもしれない。


化粧水を叩いただけの肌は、毛穴とかそばかすとか色々と気になる。


「あ、あんまり見ないでください。普段はちゃんとしてるんですっ・・・今日は、お休みだし・・平良さん、起きて来るの早いし・・」



これからは起きたら着替えて先に化粧しよう、絶対ノーメイクはやめよう、と心に決める。


それを読んだかのように、平良の指が頬をつついた。


「休みの日ぐらいゴロゴロしたらいいよ。あんまり変わんないねー・・でも、ちょっと幼いかな」


「・・・け、化粧映えしない顔なんです・・っ」


元が良ければ盛ればかなり華やかになるだろうが、生憎そんな素敵な造形をしていない。


寝起きでも浮腫みのない綺麗な顔の平良には、きっとこの気持ちは一生分からないだろう。


ぷいと横を向いて、頬に触れていた指を払う。


離れた指がそのまま祥香の手首を捕まえた。


やんわりと包み込む平良の体温に、抱きしめられた日の事を思い出す。


無我夢中だったとはいえ、自分から彼の胸に飛び込んだなんて、信じられない。


背中に回された腕に安堵を覚えてしまったから、もう、引き返せないと思った。


祥香に触れる平良の手は、いつも極上に優しい。


大切に扱われていると感じられる触れ方をする。


軽く袖を捲って、目の前に手首を翳した平良が、息を吐いた。


木下に捕まれたほうの手だ。


「痕は残ってないけど、もう痛くないの?」


「はい、大丈夫です。」


「うん、綺麗に直ってよかった。今井ちゃんて、やっぱり色白だね」


「白くないです、普通です、橘さんみたいな人を色白って言うんですよ」


「橘はもう規格外だからね、日光に当たってないから、あれは。日焼けしない様にしてるの?」


「一応・・日傘差しますよ」


「ふーん・・・柔らかい肌」


親指が血管の上をするすると滑った。


落ち着いた仕草なのに、どこか艶っぽくて心拍数が上がる。


伏し目がちに浮かび上がった血管を眺める平良の無表情が、余計に落ち着かない気分にさせる。


木下に捕まれた時は痛みと恐怖しかなかったのに、平良の指先は甘くて心地よい。


触れられたところから熱が生まれて身体が暖かくなる。


触られても嫌じゃない。


それどころか、むしろそのままでいて欲しいと思ってしまって、祥香は慌てた。


私が告白したら、彼はどんな顔するんだろう。


せめてその時は、勢いじゃなくて、自分の意思でこの腕に飛び込みたい。


愛され続けてみせると、思いたい。


思えますように・・・


不確定な未来でも、希望を抱くのは自由だ。


私がいいと、選んでくれた彼の好意に、心だけは縋りたい。


何か言えば、平良が指を解いて離れてしまいそうで、祥香は黙ったまま、腕の上を彼が辿る指の軌跡を目で追った。

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