第20話 とびきりの変化は、同居
目を開けると見知らぬ天井が見えた。
そしていつもの場所にスマホがない。
手探りで布団の上を探して、部屋の匂いが違うことに気づいた。
そうだ、ここは・・
障子で仕切られた4.5畳の和室。
その向こうにあるはずのリビングは真っ暗だ。
祥香はゆっくりと布団から出て、L字型に設置されている障子を開けた。
物音ひとつ聞こえない。
平良はまだ眠っているようだ。
あれから最低限の荷物を纏めた祥香を連れて帰った平良は、リビングにあるこの和室に案内してくれた。
廊下沿いにある6畳間が平良の部屋で、その隣が荷物置きの納戸、向かいには以前話に聞いていたドラム式洗濯機が鎮座する脱衣所があって、リビングの手前がトイレ。
一通り説明をした後で、平良は早々に部屋に引き上げてしまった。
風呂に入るように勧められたので、有難くファミリータイプの浴槽にお湯を張って、ほっとひと息ついて、脱衣所を出たらもう日付が変わっていた。
平良は朝起きてからシャワーを浴びると言っていたので、そのまま声を掛けずに和室に引き取って、何も考えずに眠りについた。
翌朝起きるとすでに平良は出勤した後で、夜も飲み会に参加して帰ったのは終点間際だったらしい。
その次の金曜日は、データの切り戻し作業が入ったとかで夕方に出勤して、土曜日の明け方まで勤務予定になっていた。
俺のことは気にしないでいいから、自分の家と思ってゆっくりしてくれていいよ、と言われて、平良がいない部屋で二日間を過ごした。
平良が祥香を気遣って、わざとシフト勤務に変更して貰った事は後で知った。
入浴とか、洗濯物とか、色々と祥香が気を回さなくていいように敢えて職場で過ごす時間を増やしたのだ。
「起きなきゃ・・」
部屋の隅に畳んで置いてあるデニムとニットに着替えた。
勢いで飛び込んだものの、冷静になればなるほどこの状況に頭を抱えたくなる。
夜更かし出来ない祥香は、23時には布団に潜り込んでしまうので、平良が戻って来た後の事はわからなかった。
平良とはあれ以来仕事場でも綺麗にすれ違ったまま週末になった。
自分の部屋じゃないから、パジャマ姿でウロウロなんて出来ない。
いつになく寝起きもよくて、緊張からかこの二日間は二度寝する事もなかった。
足音を立てないように脱衣所で顔を洗ってリビングに戻ると、キッチンでお湯を沸かす。
料理はしないと言っていた平良のキッチンには、使える調理器具はやかんと片手鍋だけだった。
勝手にあれこれ触るのも気が引けて、好きにしていいと言われたけれど、マグカップを借りて、帰り道に買った紅茶を入れる位しかしていない。
先日のあれやこれやは全部夢だったんじゃないかと何度も思ったけれど、その度借りている合鍵を見ては現実だと確かめた。
木曜日の朝、リビングのテーブルに置かれていた鍵。
てっきり平良のものだと思って、職場に着くと同時に返しに行ったら、持ってていいよ、と言われたものだ。
今は祥香の部屋の鍵と一緒にキーホルダーにぶら下がっている。
義理の兄が独身時代に暮らしていた部屋を借りているという平良のマンションは、独り暮らしには十分過ぎる広さだった。
時折家族が泊まりに来るから、布団もあるよと平良が話していた通り、客用布団が二組押し入れに入っていた。
ドアを開けてもタバコの匂いがしないことに驚いて平良を見上げれば、部屋では吸わないよ、と言われた。
居候の癖に、タバコの匂いが付かないことにホッとした祥香を見下ろして、平良が仕事落ち着いたら禁煙するよ、と答えた。
そんな事して貰う筋合いがないです!と言いかけて、やめた。
もう、関係ない人じゃ、ない。
平良さんは私を・・好きで、私は・・
言えない!この状況で言ってしまえばまるで居候の言い訳みたいに聞こえる。
それでは駄目なのだ。
食器棚に申し訳程度に入っていた皿やコップはどれも不揃いだった。
女の人の痕跡が何処にも見当たらない部屋。
女性用のシャンプーも、基礎化粧品も、鏡も。
ここに何人も来たはずなのに・・
尋ねる権利はあるような気がするけれど、尋ねる勇気がなくて、意識しないことにした。
彼が答えをせがまないのをいいことに、何も言わずに好意に甘えるだけの自分に、嫉妬する資格なんてない。
そもそも、私が告白したとして、あんな格好よくてハイスペックな彼を、手に負えるのかしら・・
街を歩けば道行く女性がこぞって振り返る容姿と、抜群のコミュニケーション能力を持っていて、且つ仕事も出来て人望も厚い。
どう考えても無理な気がする・・
セイロンティーに、昨日買って帰った牛乳を入れてミルクティーにする。
出来上がったミルクティーに息を吹きかけていたら、リビングのドアが開いた。
「起きてたんだ」
「おはようございます。お湯沸かしちゃいました」
「うん、好きにしていいよー。もっとゆっくり寝ててもよかったのに。二日間ほったらかしでごめんね、困ったことなかった?」
寝間着のスウェット姿の平良は、眠たそうな目を擦りながらキッチンに入って行った。
「はい、大丈夫です、あの、コーヒー入れましょうか?」
「ありがとう、大丈夫だよー。のんびりしてて。今井ちゃんも起きてるなら、これ飲んだら朝ご飯食べに行こっか」
リクエストあるー?と尋ねてきた平良に、祥香がマグカップを下ろして向き直る。
考える時間だけは沢山あった。
「あの、平良さん、私あの部屋出ようと思います」
自分の中で出した結論を告げる。
平良がコーヒーを啜ってうんうん頷いた。
「今井ちゃんにしては早い決断だね。うん、それはもう大賛成、えっと、じゃあ」
こちらを見つめる平良の視線がどこか甘い。
寝起きだから?
キッチンを出てきた平良がふんわり微笑んだ。
「次の部屋は、もう少し駅近くで探します、家賃と相談ですけど」
安心安全に勝るものなんてない。
費用的にもさすがにすぐの引っ越しは無理だけど、賃貸情報は早めに集めないといけない。
いつまでも厄介になるわけにはいかないし、平良には平良の生活リズムがある。
生活と恋愛は別物だ。
瞬きした平良が、祥香の顔をまじまじと見つめる。
おかしな事は言っていないはずだ。
無謀な事はひとつもない。
現実的に自分のこれからを考えて出した答え。
数秒間視線を合わせた平良が、天井を仰いだ。
「・・うーーーん、そっちに行ったか」
そっち?そっちって?
「どっち?」
疑問系で返した祥香に首を振って、コーヒーを一口飲んだ平良が、ソファに座る祥香の前に胡座をかいた。
「ううん、いいよ、分かった。とりあえず、目の前の事から片づけよ。引っ越すったって、今日明日は無理だよね。部屋だって探さなきゃ駄目だし。それなりに金もかかるよ」
一人だけソファの上にいるのも憚られて、祥香も平良の前に座り込む。
目線の高さが合うと、違和感は少しだけ薄れた。
けれど、その分近くなった距離に、今度は緊張が走る。
今は忘れておきたい恋心が疼き出す。
寝起きの癖になんでそんな様になってるの?
こちとら着替えてはいるものの、ノーメイクのどすっぴんで、ただでさえ薄い顔がさらに劣化しているというのに、平良はスウェット姿でも、普段となんら遜色ない魅力を放っている。
むしろ普段よりさらに雰囲気が砕けて柔らかいから困る。
ここは完全に平良の領域で、祥香は偶然入り込んだ異物に他ならない。
「それも、考えてます」
とは言っても、通帳とにらめっこして、来月のお給料と相談するしかないのだけれど。
社会人として自立している以上、実家には頼れないし、頼りたくない。
自分の面倒は自分で見なきゃいけない。
「うん、じゃあ、来月末までここに居ること。 結論出たからあの部屋に戻ろうとか、無謀な事考えてないよね?」
「え、えっと、でも・・」
思いっきり考えてました。
今日明日のうちにはお暇しなきゃと思ってました。
だってここは祥香にとっては一時しのぎの避難所だ。
優しくされてそれに甘えて甘え切ってしまったあとの自分を想像して怖くなる。
慣れてはいけない。
これは不運な自分に偶然訪れたほんの束の間の奇跡なんだから。
彼の好意と厚意に縋っているだけだから。
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