第19話 とびきりの変化は、衝撃

クリーニング屋の横を抜けて、慣れた道を我が家へと歩く。


一歩歩くごとに疑問が浮かぶ。


さっきのは夢?現実?


酔っているせいか、さっきの平良の告白のせいなのか、酷く足元が覚束ない。


でも、不思議と気分は悪くない。


あの時もこんな気分だった。


私はほろ酔いで、だから木下くんの問いかけにこくんとひとつ頷いた。


思えば彼は付き合おうとは言わなかった。


“今井さんて、よく俺のこと見てるよね?俺のこと好きなの?“


誰にでも優しくて、アシスタントの中でも目立つ方では無かった祥香にも、よく話し掛けてくれる彼のことを、いつからか目で追うようになっていた。


部署の中でもかなり人気の彼だから、あり得ないからこそ楽しい片思いだった。


それなのに、あの日頷いた私に、彼は困るでもなくふんわり笑ってお礼を述べた。


それからあの曖昧な関係が始まったのだ。


学生じゃないし、大人だし、付き合おう、なんて言わないものかと納得した。


本当は問いかけて違うと言われるのが怖かったのだ。


一気に魔法が解ける気がして。


今度もそうかもしれない。駄目だ、駄目だ、考えるな。


祥香は胸を押さえて深呼吸する。


暫く歩くとハイツが見えてきた。


約束したから、ちゃんと電話しなきゃ。


祥香は取り出したスマホの画面をスクロールさせて、平良の名前を呼び出した。


息を吸って、発信を選ぶ。


「もしもし?」


ワンコール鳴り終わらないうちに平良の声が聞こえた。


「で、出るの早いですよ」


「だって画面ずっと見てたから。家着いた?」 


勢いで飛び出した祥香の事を心底心配している声音に、涙腺が緩みそうになる。


やだ、ほんとに酔ってる。


ほんの少しだけ逃げるように車を降りたことを後悔した。


大抵朝は駆け下りる階段をゆっくりゆっくり上る。


「はい、もうハイツの階段です、すぐに・・」


カバンから鍵を取り出して、部屋のある二階に辿り着く。


そこで祥香は立ち止まった。


無人の筈の通路に誰かが立っていた。


足音に気づいたその人物が振り向く。


誰かじゃ無かった。


「なんで・・」


「え?どうしたの、今井ちゃん?」


耳元で問いかけてくる平良の声が遠くなる。


スマホを持つ手がズルズル下がっていった。


一番会いたくない人物がそこに居た。


無意識に電話を切っていた。


すぐに手の中でスマホが震えた。平良だ。


「祥香、待ってたんだよ」


こちらに歩いてきた木下が、目を細めて視線を合わせてくる。


ほんのりと赤い目尻と彼からする匂いで酔っていると分かった。


「な・・何しに来たの・・」


「何って酷いなぁ、会いに来たんだろー。メールも着信もアプリも全部拒否なんて冷たくないか?」


「帰って下さい。私は会う理由なんてないから」


「俺にはあるよ、だから待ってたんだろ?早く開けてよ」


「嫌よ、私と木下くんは・・なんの関係もないでしょう?あの綺麗な彼女の所へ行けばいいじゃない」


有名ジュエリーショップから仲睦まじげに手を繋いで出て来た二人を見たときの記憶が蘇る。


あの時と違って、不思議と胸は痛まなかった。


立ち止まった私を一瞬見て、まるで何もなかったように視線を隣の恋人に向けた、それが、彼の答えだと思った。


どう考えても二人の方がお似合いだった。


目の前で彼に掴みかかって詰るとか、泣き喚くとか、そんな事考えもしなかった。


ただただ、自分が惨めで情けなくて、消えてしまいたいと思った。


「いいから、鍵開けてよ」


「もしかしてフラれたの?」


連絡を絶って、現実から逃げるように会社を辞めてから一度も会っていない彼が、ここに来る理由が他に思い浮かばない。


疑問を口にした瞬間、空気が一変した。


「中入れろって言ってんだよ!」


木下が苛立たしげに祥香の部屋のドアを蹴った。


「!?」


身体が竦んだ。


こんな状態の男を部屋に上げたらどうなるかなんてすぐに想像がつく。


首を振った祥香は、手にしたままの鍵を握りしめる。


それだけはしちゃだめ。


鍵を上着のポケットに入れようとした手首を、木下が強引に掴んだ。


「痛っ!離して!」


さっき触れた平良の手は引き留める時ですら優しかった。


ギリギリと引き締める木下の手を全力で振り払って背中を向ける。


逃げなきゃ、とにかく逃げなきゃ!


駆け出そうとした祥香の肩を木下の手が押さえつける。


「何処行くんだよ、鍵貸せって、俺が開ける」


「嫌!離して!私っあんたの事なんて何とも思ってない!す、好きな人がいるの!だから帰って!もう来ないで!」


「何適当な事言ってんだよ!」


「離してっ!本当のことよ!」


一瞬浮かんだ平良の顔。


こんな人と一瞬でも重ね合わせて本当に、本当にごめんなさい。


好きな人がいると言えば彼が引き下がるかと思ったけれど甘かった。


祥香の腕を引っ張って消火栓の設置された壁に押さえつけた木下が、もう一度ドアを蹴った。


響く大きな音に身体が震える。


怖い、でも、絶対鍵だけは渡しちゃいけない。


こんな男に自分を差し出すような事は絶対にしない。


恐怖で涙がこみ上げてくる。


泣いたら駄目、駄目。


「帰って・・帰ってぇ!!!」


全身の力を振り絞って大声で叫んだ。


その直後に何処かの部屋のドアが開く音がした。


怯んだ木下の腕の力が一瞬緩む。


同じ階の角部屋の男性が細いドアの隙間から顔を出した。


「っ!」


木下の手をもう一度振り払うのと、舌打ちした彼が祥香から離れるのが同時だった。


そのまま踵を返して、木下が反対の階段から降りていく。


冷や汗が背中を流れ落ちた。


崩れ落ちそうになる身体を、壁に手をついて支える。


今になって足が震えて来た。


身体の何処にも力が入らない。


「あのー大丈夫ですか?」


ドアが大きく開いて、さっきの男性が通路に出て来た。


「っは、・・い」


平気だと言わなくてはならないと思うのに、唇が動かない。


胸が苦しい、頭が痛い、なんで、なんで、今更。


どうしよう、また来るかもしれない、どうしよう。


あんな人じゃ無かった。


私が知ってる木下くんはもっと柔らかくて、女の子にこんな風にする人じゃ無かった。


本当に?


私は彼の何を見てたの?


彼が見せていた部分だけを全てだと信じていただけじゃないの?


わかんない、何が本当なの?


違う、本当なんてひとつも無かった。


一緒にいた時間に、本物は何にもなかった。


震える祥香を前に、住人の男性が質問を投げる前に、ハイツの前にタクシーが滑り込んできた。


男性が視線を向けると同時に、降りてきた平良が、祥香の事を呼んだ。


「今井ちゃん!?」


そこで漸く、反対の手で握りしめたままのスマホがずっと震えていたことに気づいた。


慣れ親しむ程聞いていた訳じゃないのに、平良の声を聞いた途端、堪えていた涙が零れた。


階段を駆け上ってきた平良が、祥香の姿を見つけてもう一度名前を呼ぶ。


「今井ちゃん、なにが・・!?」


私が信じたいと思った人だ。


顔を見たら引き寄せられるように足が前に進んだ。


壁についていた手を離して、祥香は平良の胸に飛び込んだ。


何も考えられなかった。


通路のど真ん中で祥香を抱き留めた平良が、震えている祥香に気づいて表情を険しくした。


優しく背中を撫でながら、平良が隣で突っ立っている男性に鋭い視線を送る。


「もう大丈夫だよ、大丈夫・・・・何があったんですか?」


スウェット姿の男性が、祥香と平良を交互に眺めてから、口を開いた。


「なんか、物音と、その子の叫び声がして・・男に腕、掴まれてたみたいですけど・・警察とか呼びます?」


警察という単語に、祥香の肩がびくりと反応した。


伺う視線を向けてくる平良に首を振る。


祥香の反応を見た平良が、背中を撫でる手はそのままで、男性に返事をする。


「いえ、大丈夫です。後はこちらで。ご迷惑お掛けしてすみません。ありがとうございました」


男性が訝しげな表情のまま部屋の中に消えた後で、平良が腕の中で震えたままの祥香に優しく呼びかけた。


「怖かったね、いい子いい子。もう大丈夫、大丈夫だよ。やっぱり家まで送ればよかったな・・一人にしてごめんね」


平良が責任を感じる必要は全くない、なのにこんな言い方をする彼の優しさに、余計に涙が止まらなくなる。


小さい子を慰めるように背中を何度も上下する掌は、ただただ思いやりに溢れていた。


恐いことはもう無くなった、平良さんがいるから、大丈夫。


「っ・・ドア・・前に・・木下くんが・・鍵開けてって・・酔ってて・・帰ってって・・もう、好きじゃないって・・ったのに・・」


自分でも何を言っているのか分からない。


つっかえながら祥香が吐き出した言葉を、平良は背中を撫でながら黙って聞いてくれた。


暫くそのまま祥香を抱きしめた平良が、少しだけ身体を離して、祥香が握りしめていた拳を包んだ。


白くなるまで握りしめていたせいで強張ってしまった指をそっと解いていく。


「偉かったね、鍵渡さなかったんだ」


「だって・・も・・好きじゃない」


「うん・・痕付いてる・・痛かったろ。可哀想に。鍵、開けていい?」


静かに問いかけられて、こくんと頷く。


さっきから身体に力が入っていない事を平良はちゃんと見抜いていた。


祥香を支えて中に入った平良は、手探りでスイッチを探して玄関の灯りをつける。


ゆっくりとドアが締まる。


ほっと息を吐いた祥香は、頬を付けていた平良の身体から顔を離して、目の前にある彼の肩に現実を知った。


背中に回されたままの掌を急に意識した。


「あ、あのっ!」


たたらを踏んで後ろに下がった祥香の身体を、平良がもう一度支える。


「大丈夫だから、ゆっくりゆっくり。うん、立てる?」


「はい・・」


さっきよりは確かな声が出た。


鳴り続けていた電話、そして、平良がここに居ること。


やっと自分の中の時間軸が噛み合った気がする。


「電話、途中で・・ごめんなさい・・戻って来てくれたんですね」


「俺のことはいいよ。こんな時まで気を遣わなくていいの。さっきの人の話だけど・・本当に警察呼ばなくて平気?」


躊躇いがちな問いかけに、祥香は小さく、けれどはっきりと頷いた。


「・・はい。彼は前の会社の・・営業さんで・・私の・・好きだった人で・・曖昧な時期があった人で・・でも、もう関わりたくないです」 


これ以上彼に患わされたくない、過去を振り返りたくもない。


掴まれた腕や肩の痛みは、時間が経てば消える、それでいい。


この記憶もひっくるめて忘れてしまいたい。


「こんな事されて黙っとくなんて、俺的には凄く納得出来ないけど、今井ちゃんがそう言うなら、いいよ」


平良が背中に回していた掌を祥香の肩に置いた。


「すみません・・もう大丈夫です」


嵐は去った、去ったと思いたい。


下げた視線を追いかけて、平良が少し屈んだ。


「大丈夫なんて嘘だよね?まだ震えてるのに。俺はこの部屋に今井ちゃんを一人で置いとくなんて出来ない。だから、うちにおいで、一緒に帰ろう」


飛び出した提案があまりに唐突過ぎて、驚き過ぎて震えが収まった。


平良さんの家に帰る?あり得ない!


「無理です!これ以上迷惑かけられません!」


「あのね、このまま今井ちゃんがこの部屋で暮らすことの方が、俺にとったら迷惑だよ。好きな子が危ない目に合うかもしれないの分かってて放置なんか出来ないよ。心配で寝れなくなる。そもそもここ、駅から遠いしセキュリティも無いし、女の子の独り暮らしに向いてるとは思えないよ」


「それ・・は、追々考えます、でも・・」


あんな事があった後でこの部屋で一人で眠れる自信はない。


でも、彼は会社の同僚で、異性で、さっき祥香に告白まがいの事をした相手なのだ。


自覚したばかりの恋心を抱えたまま、彼の元に身を寄せる勇気もない。


「今井ちゃんが色々不安になるのもわかるよ。けど、こういう時は一人でいない方がいい。俺のこと、ちょっとも信用出来ない?」


「そ、そんな事は・・でも、やっぱりお世話になるわけには」


「俺は今井ちゃんを泣かせたりしないし、傷付けたりもしないよ。俺が、今一番怖いのはきみだから。絶対嫌われたくないから、怖い思いもさせないし、嫌な思いもさせない、約束する。だから、安心してうちにおいで、ね?」


差し出された小指。


指切りなんていつ以来だろう。


子供みたいな仕草で、真面目な事を言う平良の顔はいつになく真剣だ。


「き、嫌う理由なんか・・ひとつもないです」


やだ。なんで今自覚するの。


なんでそんな優しいの。


平良さんはいつもずっと優しかった。


絡めた指が熱い。


収まった涙がまたこみ上げてくる。


その手でもう一度抱きしめて、なんて、怖くて言えない。


指を解いた平良が、スマホをスーツのポケットからスマホを取り出した。


「えっと、じゃあ決まり、とりあえず二泊三日位の荷物まとめておいで。俺はここで待ってるから。タクシー呼んどくね」


「はい、わかりました・・って、え?駄目です、平良さん上がって下さい。あんまり片付いてないですけど」


靴を脱いだ祥香が慌てて平良を振り返る。


けれど、祥香がどれだけ促しても、平良は部屋に上がろうとはしなかった。


思えば、彼はドアの鍵も掛けていない。


それが彼の意思表示に思えた。


「ありがとう、でも大丈夫だよ。俺の事は気にしないで。あ、うちトリートメントもリンスもないよ。ドライヤーはあるからね」


「はい・・でも!」


「あのね、俺いまもう一人の自分と戦ってるから、そっとしといて」


「へ?」


「いいから、荷物持っといで、ね」


それだけ言って、平良がスマホを耳に当てながらドアを開けた。


祥香の返事を待たずにタクシー会社に電話をかけ始める。


そのまま外に出て、一人取り残されてしまうのかも思ったけれど、平良は腕でドアを開けたまま通話を続けた。


こちらを向いた視線に促されて、今度こそ着替えを取りに向かう。


普段の自分なら絶対にしない選択をしてしまった。


クローゼットの隅に隠れているワンピースが誘うようにヒラヒラと揺れた。

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