第44話 Love Affirmation   primary

恋人の甘やかし方が分からない。


過去の恋愛経験を紐解いてみても、こんな所で躓くような事はなかった。


いたって一般的な恋愛をしてきた自覚がある宗方にとって、何をしても言っても引っかからない、むしろ突っかかって来るような女は初めてだった。


相手がアレだと、恋愛偏差値が一気に低くなっている気がする。


もう少し俺は余裕のある男だった筈だ。


誰にともなく言い訳して、机に広げた図面に視線を落とす。


”客相新フロア”と書かれたフロア図に書かれたケーブル配線を確かめながら、もう一枚の、備品設置図と照らし合わせをしていく地味な作業。


商品への問い合わせ、クレームなどを対応するお客様相談室のフロア移転の話が出たのは2週間前。


電話機並びにPC周辺機器の担当責任者を命じられた宗方は、抱えている別案件も対応しながら、移転対応を行う専門業者との打ち合わせ、関係各所への事前準備の根回しに追われていた。


ある程度は木村と平良に捌いて貰っているが、確認事項が上がる度窓口になるのは宗方だ。


社内用携帯は常に鳴りっぱなしで、片時も休む暇がない。


週明けに役職連中を集めての移転説明会が行われるので、その資料作成をしなくてはならないのだが、図面確認が終わらない限り取り掛かれそうにもない。


これは間違いなく午前様だ。


システム部門に従事する人間は、緊急対応で夜中に呼びつけられる事も多々あるので、深夜作業には慣れている。


けれど、連日続いた会議と捌かなくてはならない案件の多さに、さすがの宗方も疲労感が拭えない。


タバコで空腹を誤魔化していたが、キリキリと胃が痛み始めた。


頬杖を突いて、紙面を睨んでいると、いつの間にか溜息が零れていた。


「お疲れだねー。その眉間の皺は、帰るまでに消しとかないと橘がビビるよー?」


自席で作業中の平良が軽口を挟んで来る。


いつもならとっくに帰宅しているはずのこの男が、シフト勤務でもないのに22時を前にフロアに残っているのは珍しい。


誘われればどこへでも飲みに行くフットワークの軽さが売りだったこの男が、最近は仕事が終わると寄り道もせず真っすぐに帰宅している。


「美青は俺のこういう顔見慣れてる。今日は今井さんはどうした?」


「金曜だから、友達の家に泊まりに行ってるよ。寂しい俺は独り寝の虚しさを紛らせる為に、一泊デートに向かう木村の代わりに残業を買って出たってわけー」


「ふーん」


”夜に祥香を一人にしたくなくて”と溺愛ぶりを披露する平良は、祥香と真っ当なお付き合いを初めてから、軽さが消えた。


愛想の良さは相変わらずだが、猫なで声を出して近づいて来る女子は綺麗に避けるようになった。


「何か家に帰ってもどうやって時間潰せばいいか分かんなくなっちゃってさー・・構い過ぎた反動がこんなとこに出て来てるよ」


ついでのように付け加えられた一言に、さっきの悩みが蘇って来た。


女性にはまんべんなく優しく穏やかに接する事の出来る平良が、ダダ漏れの愛情を一心に注ぐ相手は、どう歪曲して見ても真っ当で、きちんと育てられた良識のあるお嬢さんだ。


暇を見つけては祥香の側に行って構いたがる平良に困惑顔を向けながらも、恋人として上手く向き合っている彼女の度量と器量には感服せざるを得ない。


他意なく初心なイメージを抱かせる彼女の、生真面目な姿勢が崩れる所は想像できないが、見るからに円満そのものの二人の空気感は、同じく社内恋愛中の宗方にとっては羨ましすぎる。


「今井さんって、甘えて来ることあるのか?」


「あんまり無いよー。親元離れて長いし基本何でも自分でやっちゃうしね」


「それで、お前はどうしてるんだ?」


「どうって・・・甘えて貰えるように仕向けてるよ。あの子の生活に中に、俺がいる事が当たり前になれば無意識にそうしてくれるかなって期待もしてるけど・・何、橘もやっぱり甘えベタなの?」


「・・・俺は、ああいうタイプの女と付き合った事が無いから、突っぱねられた後の対処に困るんだよ。踏み込んでいいのか、下がればいいのか、全く分からん」


彼女の気持ちを汲み取りながらの匙加減が酷く難しい。


「その割には嬉しそうだけど?」


「だから、微妙な加減で上手く落ちて来た時の満足感ったらねぇんだよ」


「あのさ、これは俺の持論だけど、突っぱねるのは甘えたいからだよ?どこまで引っかいても許されるのか、橘は試してるんじゃないの?思いっきり引っ叩かれる覚悟で、ちょっと強引になればいいのに」


椅子に凭れて天井を仰いだ平良が、身体を起こして続ける。


「あ、でも、宗方の強引ってちょっと色々やばそうな気配がするから、ちゃんと手加減はしろよ」


まるで肉食獣に対する物言いだ。


「俺の事どんな風に見てんだよお前は・・」


「ええー・・そうだな。拾った猫を前に、齧り付こうか、じゃれつこうか、どっちか迷ってるケダモノ」


「せめて人間にしろ!」


「あんなほっそい手で叩かれたって、痛くも痒くもないでしょうに。引っ叩いた事に動揺してる橘の事、抱きしめちゃえばいいんだよ」


何でも無い事のように言って、平良がマウスを操作する。


「恋に悩める同僚の為に、心優しい俺が月曜の資料纏めておいたからねー。微修正はよろしく」


ディスプレイに表示されたメール着信をクリックすると、パワーポイントで作成された資料が添付されていた。


開くと、フロア移転の説明事項が図式入りで分かりやすく記載されている。


ケダモノ扱いされた苛立ちが綺麗に霧散する程度には、完璧な出来だった。


「助かる。修正箇所はなさそうだ」


「なら良かった」


「ついでに月曜の会議お前も出ろよ。客相は女性社員が多いからお前が来た方が話が早い」


「ええー・・それはちょっと、あそこのお姉さま方しつこいんだよ」


「この間、美青を連れて行った有機野菜のレストランの場所教えてやる。今井さん、そういうの好きだろ?」


「ここで祥香を引き合いに出すかなぁ・・いいよ分かった」


「よし・・ん?」


ひとつ懸案事項が減ったと安堵した宗方の机で、スマホが着信を告げた。


ディスプレイに表示された名前を見て、迷わずスマホを取り上げる。


「もしもし?美青?どうした」


残業中と知っていて連絡をして来るなんて珍しい。


美青はとっくに帰宅している時間帯だ。


自宅で具合が悪くなったのかと、尋ねる声が険しくなる。


『あ、ごめん。まだ仕事中、だよね?』


「ああ、ちょうど帰る目途が付いた所だ」


『そうなの?じゃあ、あの・・一緒に帰らない?』


”一緒に帰らない?”


そんな風に誘われたのは初めてで、一瞬何の事か分からなくなる。


けれどすぐに、言葉の意味を理解して新たな疑問が生まれた。


「え?お前今外なのか?」


『うん。さっきまで近くで菜々海と飲んでたの。あの子はバスで帰ったんだけど・・ここからなら歩いて会社まですぐだし、まだ残ってるなら、と、思って・・あ、でも、忙しいなら別に!』


尻すぼみになる声から、美青の緊張が伝わって来る。


彼女自身、酔った勢いで電話をして来たのかもしれない。


それでも、こうして自分を気に掛けてくれている事実がどうしようもなく嬉しい。


「いや、もう帰る。美青、どこを歩いてるんだ?大通り沿いならいいけど、裏道は通るなよ。街灯も少ないし」


『分かってる、コンビニの前歩いてるから!急がなくてもいいし、明日は休みだし終わるまで待ってても・・』


「会議資料は平良が準備してくれたし、大丈夫だ。戸締りも、してくれるよな?」


『え、平良さんまだ残ってるの?』


美青の言葉を聞きながら、立ち上がって平良に視線を向ける。


その間に片手でファイルを閉じていき、パソコンを落とす。


「いいよー。幸せカップルを見送るよ」


鷹揚に頷いてくれた平良に、サンキュと伝えて引き出しの中にファイルを突っ込んだ。


「今日は今井さん不在だから、仕事に打ち込むんだと。


それより、一緒に帰ろうってのは嬉しいけど、今日は金曜だぞ?


もっと別の誘い文句があるんじゃないのか?」


『火曜日も泊まった!』


珍しく大きな声が返って来た。


これは完全に酔っている。


尚更一人にしておけないと、宗方はカバンを手に平良に片手を上げて、足早にフロアを後にする。


「も、ってなんだよ、も、って。


火曜日来たから、今日は来ない理由なんかないだろ?


そこで訳のわからん遠慮すんなよ」


『遠慮じゃないから!』


「遠慮じゃないならなんなんだ?着替えも化粧品も一式買ってやっただろ?」


買ってやったというよりは押し付けた方が正しい。


それを理由に帰れないように囲い込んでしまった。


『・・・すっごく眠たいの。歩いたら少しマシになったけど、家に帰ったら絶対にすぐに寝ちゃうと思う』


「なんだ、そんな事か。いいよ、別に」


そっち目的だけで部屋に連れ込んだわけではない。


下心が無いとは、勿論言わないけれど。


宗方の言葉に、美青がほっとしたように声をやわらげた。


『お風呂も・・・一人で入るから』


「わかったわかった。好きにしろよ。どうせ土日もあるしな」


ここで機嫌を損ねるのはよろしくない。


あっさり頷いた宗方の最後の一言に、美青が敏感に反応した。


『明日以降の事は、明日の朝考えるから』


「おっまえ酔ってんのにその辺ぶれないよな」


『っさい』


可愛げもなく吐き捨てた美青に、電話は切るなと念を押して、到着したエレベーターに乗り込む。


いつの間にか眉間の皺は消えていた。





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