第38話 Love Affirmation  暫定的告白

「ばな・・・美青」


肩に手を置かれると同時に呼ばれた名前。


霞がかっていた脳と視界が一気に開けた。


「っ!!」


息を飲んで姿勢を正す。


それから、すっかり耳に馴染んでしまった声の持ち主を睨み付ける。


「なんで名前で呼ぶのよ!会社ではやめてって言ってんでしょ!」


必死に声を落として非難したのは、ここが社外で、取引先だからだ。


システム導入を依頼している会社の担当である丹羽と、午後イチで打ち合わせが入っていた。


いつもは丹羽が訪問してくれていたのに、今回に限って出向く事になった理由はさだかではない。


丹羽から訪問要請があったとだけ聞かされている。


人生初告白もどき(本人未承諾)以降、おおっぴらに彼女扱いが始まった。


居心地が悪いかと訊かれれば、残念ながら悪くはない。


でも、心臓には悪い。


こうも当たり前のように”美青”と名前で呼ばれてしまうと、自分の立ち位置が分からなくなって、動揺してしまう。


あの時、一瞬でも宗方を取られたくないと思ってしまった自分に後悔はないけれど、いかんせん”恋愛”はゲームの中でしか体験したことがないので、反応に困る。


可愛さのかけらもない口調で噛みついた美青に、宗方が不服そうな表情で顔を寄せた。


こうやって自然と距離を詰められるのも困るのに、ふたりがけのソファは、逃げ場がない。


「なんでだよ、間宮には呼ばせてるだろ。


後輩は良くて彼氏は駄目なんて法律あるかバカ。


俺が呼んじゃいけない理由がない」


確かに呼び方に法律なんて無いけれど、受ける精神的ダメージが半端ないのだ。


「理由ならある!」


「なんだよ」


「緊張するからよ!」


会社を出て、ふたりきりというならまだどうにか受け入れられる。


足元から崩れ落ちようが、真っ赤になって黙り込もうがそこはもうプライベートだ。


けれど、会社となれば違う。


こなすべき仕事は山積みで、システム室の橘美青として立っていなくてはいけない。


そこに宗方が”恋人”として割り込んで来ると、今の自分がどっち側にいるのか分からなくなるのだ。


みんなどうやって恋愛しながら仕事してんだろう。


平日の5日間は社会人、休日の2日間は恋に恋する女の・・


いやいやいや!!


どんだけ脳内お花畑だ!!


あやうくドンブラコと流されかけた思考回路を引き戻す。


”女の子”なんて自分を客観的に見た事なんて無かったのに。


女の子ってなんだ、女の子って。


隙を見せれば降り積もる疑問や不安や戸惑いを振り切って、隣の宗方に視線を向ける。


すぐさま美青は視線を戻した。


見るんじゃなかった。


激しく後悔する。


今までになくにやけきった表情で、宗方がこちらを見つめていたからだ。


良からぬことを考えているのは一瞬で見て取れた。


「へーそうかー、緊張すんのか」


「なに勝ち誇った顔してんのよ!」


「べーつに、何でもねぇよ、美青」


言うんじゃなかった。


実に楽しそうに、悔しい位愛しげに名前を呼んだ宗方を、渾身の力で睨み付ける。


弱点を晒してどーする!?


これじゃあ宗方を喜ばせただけだ。


宗方の一言で美青が右往左往しているのが堪らなく楽しいのだ。


否定しようも無い位バクバク暴れる心臓を必死に押さえつける。


薄い胸のせいで、掌に伝わる心音がやけに大きく感じられて、余計に苛立つ。


「っ!だから!呼ぶなっつって」


思わず身を乗り出した途端、ノックの音が響いた。


慌てて座り直して表情を引き締める。


こういう時は、小野寺みたいに無駄に愛想笑いが出来ない性格で良かった。


間違いなく、笑おうとすればするほど微妙な顔になるから。


丹羽がやって来たのかと思いきや、違った。


お盆に紙コップを2つ載せた女子社員が、笑顔で失礼しますと頭を下げる。


「申し訳ございません。丹羽の来客対応が長引いておりまして」


「いえ、こちらこそ、早めについてしまってすみません」


宗方がそつなく応える。


1時半からのアポイントだったので、ついでに外でランチを食べようと提案して、そのまま来てしまったのだ。


約束の時間より10分程早く到着したこちらも悪い。


「とんでもないです。急な来客でして、終わり次第参りますので、もう暫くお待ちください」


丁寧に受け答えした女子社員が部屋を出ると、美青はぐったりと背もたれに身体を預けた。


物凄く疲れた。


さっき一瞬だけ消え去った睡魔が再び押し寄せてくる。


色々考えて眠れない日が続いていた。


いきなり変わった環境のせいだ。


自分でまいた種とはいえ、対応能力の乏しい美青にとっては、毎日が緊張の連続だった。


恋愛なんて軽々しくするもんじゃない。


本気で命がけだ。


「当分放置されるようだから、眠っていいぞ」


同じ様に背もたれに身体を預けた宗方が、美青の色素の薄い前髪を指でなぞる。


指の先が額に触れただけで、息が止まりそうになった。


どうしてこの人はこんな簡単に触れるんだろう。


「はいどうぞって言われて寝れるわけないでしょうが。


家じゃないんだし」


「べつにいいだろ。さっきまで舟漕ぎしてたヤツが何言ってんだよ」


「・・・誰かさんがあれも食え、これも食えって言うから!」


炊きたてご飯にお味噌汁、甘めの豚のしょうが焼きと、もやしの炒め物、キャベツとツナのサラダに大豆の煮物。


サラリーマン御用達の古い定食屋は、早くて安くて美味い。


食欲をそそる肉の匂いに、いつもより箸も進んだ。


有無を言わさず”奢られろ”と押し付けられたメニューだが、他人の金で食べさせて貰っていると思うと、頑張って食べなくてはという気になる。


宗方は美青の扱い方をよく理解していた。


「どうせ家帰ったら何も食わねぇんだろ?


俺と一緒の時位、栄養補給しとけ。それ以上抱き心地悪くなんな」


「だ・・だき・・何言ってんのよ!」


自分で言うのもなんだが、スレンダーというよりは貧相な身体だと思う。


菜々海のように健康的なふわふわもちもちの柔らかさに憧れてはみるものの、体質的にもきっと一生近づくことは無いだろう。


祐凪いわく”心許ない”抱き心地なのは認めるので、健康の為にもどうにか肉をつけなくてはと思っていたが、相手が宗方となれば話は別だ。


「何って、大事だろ、抱き心地。なんかお前抱きつぶしそうで怖いんだよ」


しれっと言って、肩に回された腕。


薄い肩を包み込んだ宗方が、美青の背中を簡単に攫う。


「持ち運び便利っつっても限度があるぞ」


「・・人をスマホか何かみたいに言わないでくれる!?」


ここを何処だと思ってるのか。


抱き寄せられた腕の中で必死に暴れながら、美青は宗方を睨み返した。


「なんだよ暴れるなって」


「暴れるわよ!丹羽さん来たらどーすんのよ!」


「いきなり入ってくるかよ。ノックの音で分かる」


「そういう問題じゃないからっ」


「お前が悪いんだぞ。俺とふたりきりになると、すぐ逃げるから」


「逃げてません。距離を測ってるんです」


2人にとって的確な、いや、正確には心臓に悪くない距離を。


「お前ほんっと理系だな。簡単に流されねぇ」


「面倒臭そうにいうのやめてくれる!?」


「面倒くさいよ」


「じゃあほっといてよ!」


「面倒くさいけど、手放したくないんだよ。


だから、お前ももうちょっとこの距離に慣れろよ」


「・・・」


「そこで困った顔すんなって」


だって本当に困っているのだ。


間宮の貸してくれた恋愛ゲームにこんなシーンは出てこなかった。


「どうせ、難しい事色々考えて、眠れなくなってんだろ?」


「・・・」


「悪かったよ」


「謝るの!?」


「原因俺だろ?」


「・・それ・・もあるけど・・・殆どがあたしの問題っていうか」


「あのな、そうやってなんでも一人で考えるのそろそろやめろ。


何の為に俺がいるのか分かんないだろ」


「何の為・・?」


「だから・・もうちょっと甘えろって言ってんんだよ」


飛んできた宗方の言葉が意外すぎて、美青は大きく目を見開いた。


「わーびっくりって顔するなよ・・まあ、そうなると思ったけど。


とにかく、こういう時は俺のいう事素直に聞いとけって、悪いようにはしねぇから」


「信用しきれないんだけど」


「そこは信じろ」


きっぱり言い切った宗方が、美青の顔を覗き込む。


「で、肩と膝、どっちにする?」


「へ!?」


「へ、じゃねぇよ。ちょっと寝ろっつったろ」


「で・・」


「異論はナシだ。この後の打ち合わせにも響くだろ。とっとと決めろ」


突きつけられた二択。


これ以上何か言おうものなら、とんでもない目にあわされそうで、美青はハードルが若干低い方をすぐさま選んだ。


「じゃあ・・肩で」


「ん、ほらこっちこい。力抜けって、もっと凭れていいから」


背中から回した手が、美青の頭を抱き寄せる。


少しずつ力を緩めるけれど、宗方の腕はびくともしなかった。


「重たく・・」


「ねぇよ。足んない位だ。もっと太れ」


頭上で聞こえた声が、甘くて柔らかくて、不覚にもほっとしてしまう。


「じゃあ、ほんのちょっとだけ、ね」


「ちゃんと起こしてやるから、心配すんな」


宗方の声に今度は素直に頷く。


”甘える”という行為には全然慣れないけれど、それでもこうして支えてくれる腕を愛しいと思うから。


美青はゆっくり息を吐いて、そっと重たい瞼を下ろした。


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