第2話 Love Affirmation 驚愕

「菜々海、昼すぎのバグ修正こっちでやっといたから」


「え!ほんとですかぁ!姉さんさすが、仕事早っ!ありがとうございます!」


「連絡は自分で入れてね」


「了解でッス!それにしてもバグ報告あったのよく覚えてましたね」


「内線でつないだのあたしだから。覚えてるでしょ普通」


「そこでほっとかないのが姉さんですよねぇ。優しい」


助かりました、と間宮が可愛らしく微笑む。


今日は販売部関係の依頼が多く、間宮が対応に追われていたので、代わりに修正処理を行ったのだ。


ほんのちょっとしたことでも、こうして上手にお礼を口にできる間宮の素直さが、物凄く羨ましい。


特殊な趣味を持っていても、こういう子は敵を作らないタイプだ。


初っ端から”菜々海って呼んでください!”と来た時には正直ドン引きしたが、こうして一緒に仕事をしていると、彼女の性格の良さが良く分かる。


気配り目配りの出来る女子だ。


「おかげで、今日はノー残業デーに出来そうなんですけどぉ。お茶とか行きたくないですかぁ?」


時々こうして間宮からお茶の誘いを受ける。


決まって食事が摂れていない頃に。


いつもなら、行こうか、と頷くところだが今日は違った。


「行きたいけど今日は無理」


「ええーまじで?ご予定が?」


「ちょっとね。定時ダッシュするから、よろしく」


言うが早いかデスク周りを綺麗に片付け始める。


元から物の少ない机だ。


システムを終了させて、マニュアル関係を元通り並べ終えるとはい、おしまい。


机の引き出しに入れてあるデート印を明日の日付に変更させると同時にチャイムが鳴った。


「今日は無理だけど、明日行こう、どう?」


カバンを取り出しながら、間宮の膨らんだ頬を突く。


途端、にへらと笑顔になった。


「だいじょうぶでーす」


こういう現金なところも可愛い。


釣られて微笑みながら、美青は頷いた。


それを斜め後ろの席から凝視する宗方の視線には気づかない。


「じゃあ、明日ね」


美青が立ち上がると同時に、室長が声を上げた。


「専務・・」


フロアの入り口に志堂専務が立っていたのだ。


重役の彼がシステム室に来るのは珍しい。


何か緊急の用事かと慌てて立ち上がった室長、課長に笑顔を向けて、軽く首を振る。


「仕事じゃないよ、ただのお迎えです」


柔らかい笑みはそのままで、視線をゆっくりと移動させる。


ばっちり視線の合った美青が、慌てて志堂に駆け寄った。


「来て貰わなくても良かったのに!」


「もうちょっと遅くなるかと思っていたから。美青ちゃんが仕事してるところ見られるかなと思って」


「待たせるようなことしません」


子供みたいな顰め面をした美青に、茶化すような視線を向けて、それは残念と志堂が肩を竦める。


それから、美青の様子をじっくりと窺って頷いた。


「桜ちゃんの言ったとおりだ」


きょとんと首を傾げて美青が怪訝な顔をする。


「何がですか?」


「夕飯のメニューは食べやすいものを」


食欲がないことを見抜かれて、美青が慌てて志堂の背中を押した。


これ以上ここで無謀なやりとりはしたくない。


「・・・何でも食べますよ!早く早く」


急かす様に志堂を押してフロアを出て行こうとする美青。


気安すぎるやり取りにぎょっとなる室長と課長。


志堂本人は穏やかな笑みを浮かべたまま、ぐいぐいとフロアの外へ追いやられていく。


「それならいいけど・・デザート付だよ?」


「どんと来いですってば」


細すぎる腕で必死に志堂を押しだして、美青はざわつくフロアを振り返った。


「それじゃあ、お先に失礼します」


軽く頭を下げて、壁際で待つ志堂と並んでエレベーターホールへと歩き出す。


これはもう明日は質問攻め決定だな・・・


堪え切れずに溜息を漏らしたら、隣を歩く志堂が薄く笑った。


「ごめんね」


「いいですけど・・・誰の差し金ですか」


次期社長でもある専務がふらりと会いに来たりしたら、様々な憶測が飛び交うに決まっているのに。


社内きっての愛妻家と有名な彼だから、妙な噂にはならないだろうが、間違いなく美青は注目される、嫌というほど。


「桜ちゃんがね、ストレスの無い職場か見てきてくれって言うから」


「・・大丈夫ですよ」


「しんどいようなら、どこか別の部署に」


「一鷹さん、あたし今の部署気に入ってるんです」


煩わしい人間関係のない居心地の良い職場だ。


約一名、口煩いのはいるが。


「それならいいけど、桜ちゃんの命令は絶対だから」


俺もね、頭上がらないんだよ、と志堂がぼやく。


「桜先輩には、この後しっかり話をしますから」


余計な心配をしないように。


拳を握る美青に、志堂がまずはしっかり食べてね、と念押しした。


環境の変化や、ストレス、疲れなんかから食べられなくなるのは昔からだった。


食事に全く拘りがないので、あれが食べたい、これが食べたい、という願望もほとんどない。


”ほんのちょっとの食事でも結構動けるんですよ、燃費いいんで”


としれっと答えた美青に、それじゃあ駄目、と面と向かって初めて叱ってくれた人。


それが京極桜だった。


両親の薦めで、入りたくもない名門女子高に入れられたことへの反発と、周りの女子生徒たちに少しも馴染めない自分への葛藤。


苛立ちと不安が常に体に付きまとい、気づけば貧血で倒れる事が増えていた。


クラスメイトと顔を合わせなくていいことにホッとしつつ、お馴染となった保健室のベッドで横になる。


彼女は、同じ頃保健室の常連だったのだ。


美青とは別の理由で。


授業中に時々フラッシュバックのように襲ってくる頭痛。


そのたびに彼女は保健室に連れられてきた。


交通事故に遭い、両親を亡くした事は知っていた。


悲惨な事故で、桜が助かった事が奇跡だったとみんなが噂していたからだ。


その後の彼女の境遇も、話題の材料となった。


後見人となった人物が、経営陣の親戚筋の人間だったのだ。


いつも彼女を迎えに来るのは不愛想なスーツの男。


桜以外には目もくれず、保健室の外でいつも彼女を待っていた。


志堂は、そんな彼の代わりに時折保健室に顔を見せていた。


彼は来るたび保健医や、起きている時には美青にも丁寧に挨拶をした。


そして、何くれとなく桜の世話を焼きたがった。


対照的な二人だが、見目の良さだけは同じで、来訪の度保健医は上機嫌になっていた。


お互い保健室の常連だと気づいて、挨拶を交わす様になったある日、桜がポツリと言った。


「浅海さんと、橘さんって似てるの」


「浅海さんって?」


「いつもあたしを迎えに来てくれる人」


「・・ああ・・あの・・」


愛想ナシの方か、と喉元まで出かかったセリフを飲み込む。


確かに否定できないけれど、どうせなら、もう一人の穏和な人のほうに似たかった。


「余計な事何にも言わないで居てくれるから、呼吸しやすくなる」


それは、彼女が先生不在の時に頭痛を訴えた際、無言で枕元の水と薬を手渡した事を指しているのだろうか。


「言わなかったっていうか・・言えなかっただけです」


彼女の傷みも苦しみも何もわからない自分が、気安く大丈夫?とか、辛いね?なんて言えるわけがない。


ましてや寄り添ってやることなんて。


「うん、だから、それが助かったんだよ。志堂さんはね、みゆ姉と同じで、痛いもの全部に自分を重ねようとするから・・・」


自分に向けられたセリフではない。


独り言のようなそれを、美青は黙って聞いた。


”少しだけ、苦手”彼女の無言のメッセージは、同じ様に弱っている自分に、ダイレクトに響いた。


理解したい、分かち合いたい、と思える自分でありたい。


けれど、心は否定する。


誰にもわかりっこない、変わってなんてもらえない。


寄り添って抱きしめようとする姿勢はとてもきれいで、遠すぎてただ憧れることしかできない。


今はただ扉を閉めていたい自分としては、遥かに彼方の存在だ。


桜も同じ気持ちだったんだろうか。


向かいのベッドにゴロンと足を投げ出して、行儀悪く寝ころぶと、枕を抱き寄せて顔を埋めた。


「だから、落ち着くまで時間をちょうだいって思ってるの」


内緒ね、と付け加えられた一言。


美青は素直に頷いて、自分も反対のベッドに横になった。


内緒もなにも、話す相手なんていない。


他人の動向に興味を持てるほど自分に余裕はない。


誰かを否定できるほど、何かを持っているわけでもない。


だから、自分を否定するしかないのだ。


大きく息を吐いたら、桜が少しだけ顔をこちらに向けた。


「でもね、先輩からひとつだけ忠告」


「・・・はい」


「籠ってもいいけど、食べなきゃ駄目。絶対よ。投げ出すのは、自分じゃなくて、気持ちだけなんだから」


美青の状態が不安定になってから、家族も教師も腫れ物に触る様に接してきた。


明確な否定はせず、彼女の様子を遠巻きに伺うばかりで。


はっきりと言葉にしたのは、桜が初めてだった。


「・・・っ・・・は・・い」


言われたのは物凄く当たり前の事。


けれど、誰も教えてくれなかった事。


貰った言葉は何より重くて、美青は入学してから初めて大声で泣いた。


さんざん泣きじゃくる美青を抱きしめて、桜はひとつの道を示した。


「籠るのに飽きたら、あたしのところに来てね。これでもやる事山積みなんだから」


約束、と絡められた指。


絢花より華奢な指初めて見たわ、と花が綻ぶように笑った桜。


それだけが、当時の美青の小さな光だった。




★★★★★★




「そりゃあ荒れますよねぇ・・まあ飲んで、飲んで」


カウンターが6席と、テーブル席が4つの小さな居酒屋の片隅で、間宮は届いたばかりのビール瓶を傾けた。


グラスの持ち主は仏頂面のままで注がれる琥珀の液体を睨み付ける。


「荒れてねぇよ」


「まあ怖い」


「間宮も、あんまり茶化さないで、わかるけど」


「分かるなよ!」


「だって、お前の態度があからさますぎてさ・・・気づかない橘が異常なんだよ」


宗方と同期の芹沢が、俺にも入れてとグラスを向ける。


はいなと答えた間宮が、ビールを注ぎながら、鈍感女子ーと鼻歌のように歌った。


「まーみーやー」


「そう怒んないでくださいってば。きっと今日は志堂専務が美味しいご飯食べさせてるでしょうし。明日は、指令通り私ががっつり糖分摂らせて来ますから。目指せふっくらぷりぷり女子!」


「え、なに指令って」


「・・・」


「心配性の宗方兄さんから、ご飯食べてなさそうなら誘ってやってって頼まれてるんですー」


「わー・・」


芹沢が生ぬるい視線を宗方に向ける。


「うるせぇよ」


遠慮なく繰り出した拳で芹沢の肩を小突いて、宗方がビールを煽る。


もう一人の同期である平良が不在なのは有難いが、いまは芹沢一人でも鬱陶しいのに、さらに鬱陶しいことこの上ない後輩が一人いて、げんなりする。


こんなにマズイ酒は久しぶりだ。


「いや、一言しか言ってないからな」


「視線がうるさい」


「・・・八つ当たり」


「っせ」


「自分で誘えばいいのに。うちの部署で一番仲良いのお前だろ?」


至極真っ当なツッコミに、宗方が出来るならとっくにやってる、とぼやいた。


美青は宗方には遠慮しない。


だから”メシ食いに行こう””いやだ、絶対行きたくない”と全否定が返ってくるのだ。


気を使われるよりましだと思いたいが、それでも面と向かって拒否られるとさすがに堪える。


そうして考え抜いた苦肉の策が間宮だ。


彼女の誘いなら、美青は無下に断らない。


可愛い後輩が誘ってくれたのだからと無理を押してでも食事に行く。


出来るなら自分が連れて歩きたいが、それが叶わないなら、せめて食事だけでも摂らせたいという、宗方の涙ぐましい努力に、芹沢が憐みの視線を向ける。


気安くはあっても、仲が良いわけではない。


美青が自分に抱いている感情はせいぜい”部署内の口煩い先輩”くらいのものだ。


しかも、口煩いのは”義務感”からであって”好意”からだとは絶対に思っていない。


それがあからさまに見えるから、動けないのだ。


「まー・・確かに、告白してフラれたら同じ部署キツイよな」


「それはねぇ・・宗方さんの事だから、未練がましくあれこれ世話焼きたがるでしょうしねぇ」


「それをまた橘が嫌がって喧嘩になるよな」


「なりますよねぇ」


「・・おい、マイナス妄想やめろ、そこの2人」


「いや。だって、一番あり得る未来だろコレ」


「悲しいかな現実とはそんなもんなんですよねぇ」


二人揃って盛大に溜息を吐かれて、宗方は泣きたくなる。


「鬼か?鬼なのか」


慰めて欲しいとは思っていないが、せめて励ましてくれてもいいのではないか。


「しっかし、橘可愛かったなー」


「ねー・・専務相手にすっかり打ち解けてましたもんねー」


「あんな顔するんだなー」


「完全に警戒心ゼロでしたからー」


「お前、専務と知り合いって訊いてたの?」


「・・・いいや」


「姉さんのマンション事情も知らない位ですもんねー。間宮一歩リードですな、はっはあ!」


「ほんとお前は時々眼鏡割ってやりたくなるな」


「乱暴はやめて!」


大げさに自分の身体を抱きしめる間宮のグラスに、ビールを並々注ぎながら、芹沢がそれにしてもさ、と脱線しかけた話題を引っ張り戻した。


「美青ちゃん、だってさ」


「姉さん、私にはちゃんづけ駄目って言ったのにぃ」


「・・・既婚者だから、油断してるだけだろ」


「既婚者でも、あの志堂専務だよ?愛妻家で有名な彼が、社内の女性社員を名前で呼ぶなんて。結構なスキャンダルだってコレ」


「昔の男とかー!?」


「橘そういうの完全に切りそうだけどな。あーあ、ここに平良居ないのがほんっと惜しい。後で電話してやろ」


「名古屋で淋しがってますよきっと。ちなみに姉さん写真も手紙も抹消するタイプですね」


「番号換えるタイプだよな」


うんうんと芹沢と間宮が頷きあう。


宗方に向ける視線の数倍柔らかい視線。


はにかむように微笑んだ表情は、今まで見たどの顔よりも穏やかで可愛かった。


可愛い・・・


思い出せば思い出すだけ胸騒ぎが増す。


何もないとは思うものの、複雑な感情は消えない。


どうしたら、あの視線をこちらに引き戻せるのだろう。


悶々と沈み込む宗方の肩を気軽に叩いて、芹沢が笑う。


「気を許してる相手には、ああいう顔するんだよ、がんばれ」


「がんばれー!!目指せ!社内恋愛!!」


本日初めての励ましに、宗方はやけくそになって残りのビールを飲み干した。



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