第六話 踊る場所は彼の手の上
「ギシンは!! まだかぁッ!」
波動の悪魔の血族を逃したと言う報は、ファルアザードを烈火の如く怒り狂わせた。こめかみに浮かび上がった血管が今にもはち切れそうだ。
ファルアザードが波動の悪魔、つまりアイの父グレンに固執するのには理由がある。
彼は物心つく頃には既に跡目争いの渦中にあり、親兄弟関係なく疑い合う中で育った。当然彼自身も誰も信じず、利用できるものは利用し、裏切り、権謀術数を張り巡らせ、後ろ暗取引も何ら引け目なく行うようになる。
その余りある才気と度胸、そして野心を駆使し彼は足を引っ張り合う候補者の中で王位を勝ち取り、最高の能力を持つ稀代の王としてジッカリムに君臨した。彼に怖いものなどなかった。
グレン・メルティナに出会うまでは。
厄災の英雄、波動の悪魔。
グレンの二つ名を世界で知らぬ者はいない。
彼が残した功績は、波動から人造の神を取り出したことも然ることながら、戦火を駆け、ツェルにとっては輝かしい功績を、ジッカリムにとっては大きな痛手を残したことにある。
物量に頼るジッカリムは、全ての戦争において圧倒的物量で勝利を収めていた。
がしかし、ツェルとの戦争となれば一筋縄ではいかない。
なにせかの国には一騎当千の勇者達が多数所属し、神の奇跡たる波動を扱えるものがいる。どんなに戦況が優勢で推移していたとしても波動の行使一回で簡単に覆ってしまう、それも波動存在のおまけ付きで、だ。驚異以外の何ものでもない。
その中でも特に恐れられたのが、グレンである。波動を扱えるものは優秀なものが多いが、グレンは中でもずば抜けて能力の高い持ち主で、身体性、精神性共に英雄としての素質を持っていた。
ジッカリムには、数々の戦争経験により歴戦の猛将となった者達が多数在籍していた……いたのだが。
グレンはその猛将知将、古くから国を支えていた豪傑達をまるで狙うかの如く墜としていったのだ。東の荒野に並び立つ者なしと呼ばれた無双の者が、海戦において無敗神話を築いた生ける伝説が、一人、また一人と戦火に散ってゆく。それがなんと軍ではなく、一人の男によるものだというのだ。
戦慄、という他ない。物量に頼れば時間はかかれど国を落とすことはできる。
だが、その際に兵達の信頼を勝ち取っている猛将達が落されてしまっては、今後のジッカリムの方針さえ危ぶまれる。
ファルアザードは初めて功績に焦り、自ら戦地に赴いた。
そして出会ってしまった。
血飛沫舞う戦乱の中、何百という兵達に囲まれてなお、ものの数にしない悪鬼に。
あとにも先にもファルアザードが恐れたのはこの時をおいて他ない。
ファルアザードが生き残れたのは、奇跡としか言い様がない。
五体満足に戦地から生還し、戦争の引き金を作ったグレンを討った、とジッカリムではもはや救世主扱いだった。
だが彼は何も覚えていない。
グレンと対峙した瞬間から、ジッカリムに戻るまでの間、何も覚えていないのだ。
民は王の輝かしい功績を敬い持て囃した。当の本人は、何も覚えていないというのに。彼が持ってきた首が果たして、グレンのものかもわからないというのに。
それからだ。ファルアザードがグレンの血族を滅ぼすことに囚われたのは。
その様子はまるで亡霊にでも取り憑かれたかの如く、執拗に、残忍に、彼らを追い詰めた。
そうして最後に残ったのが、グレン直系の娘、アイという訳だ。
現在。せっかく捕らえたアイを逃がしたという報がファルアザードの耳に届き、彼は激昂している。知らせを届けた兵はその場で首を刎ねられ、絶命した。
玉座の間に集められた臣下達は誰も声を上げなかった。下手に意見をして、ただでさえ怒り狂っている王の逆鱗に触れれば、自分はおろか家族の身も危ない。そう保身に走っているためだ。
「王よ、あまりお怒りなさりまするな。体の毒ですぞ」
その中にて唯一王に歩み寄り言葉を綴るのは、ファルアザードが先程から呼んでいる人物、あの老人ギシンである。
「ギシン貴様っ! この結果がどういう結末になるかわかっているのか!?」
ギシンが来たからといってファルアザードの怒りが収まるわけもないが、彼を抑えることのできる人材は他に揃ってはいない。大臣たちは老人ギシンにファルアザードを託すしかないのだ。
「ええ、聞き及んでおりますとも、アイとかいう娘の話も、騎兵隊の全滅の話も」
臣下達は内心気が気ではない。
もし王の逆鱗に触れ、ギシンが死んでしまったら?
後に残る彼らがその後任に就かねばならないのだ。断固としてお断りしたいところではあるが、当の本人は飄々と王と言葉を交わす。ともすれば、怒りを買うような言葉でさえ、平気で言い放つ。もっと命を大事にしてもらいたいと、王とギシン以外の人間の心は統一されていた。
「この失態、どう責任を取るつもりか!」
「失態? なんのことですかな?」
「波動の悪魔の血族を逃がしたのだぞ? 貴様の首一つで済むと思っているのか!」
「早まりますな、王よ。これで問題ないのです」
「……なに?」
王の怒りが疑問に変わる。
同時に、玉座の間に居合わせた全員がどういうことだと首を捻った。
次のギシンの言葉を聞くまでは。
「小娘は逃げ、騎兵隊は全滅。放った騎兵隊は優秀だったのにも関わらず、全滅ですぞ? ――これは何者かが手引きしたと考えても、おかしくありますまい?」
「……なるほど、な。裏切り者のいぶりだし、ということか」
「ま、まってくだされ、王よ! そのような理由で我らを疑うなど、冗談にしても笑えませぬぞ!」
「そ、そうです。大体、こんな素性の知れぬおいぼれの言う事を信じるなど、それが一番信じがたいですぞ!」
玉座の間に響く罵声。その全てがギシンに向けられたものだ。先ほどまで我関せずを貫いていた臣下達は自分の身が危ういと感じるとすぐに行動に出た。
ギシンはさも嬉しそうにほくそ笑む。
「先程まで一切発言しなかった者達が、自分の身の事となると血相を変えてわめき散らすとは、滑稽ですな」
「ギシン、無礼であるぞ!」
「どこの骨とも分からぬ者に、これ以上好き勝手させるものか!」
そうだそうだと上がる声。ギシンは益々笑い出す。
「ならばあなた達は何をした? ここ数年、何もせず王の機嫌を窺うばかり。さらに
悪いことに、儂の手の者によればこの中に数人。ツェルと繋がりのある者がいるようですが、どうですか右大臣? 身に覚えは……ございませぬか?」
指名された右大臣は凍りついた。まるで声の出し方をわすれてしまったかの如く、腕を振り上げた状態で。
獰猛な笑みで、ギシンは居並ぶ列席者達の顔を覗き込む。
「左大臣も、戦略担当大臣も、そちらにおいでの豪族衆も……おっとこれではまる
で、ここに集まる皆の者が裏切り者のようですな」
「黙れ下郎! 王、このような戯言に耳を貸してはなりませ――!」
右大臣が王に駆け寄った刹那。首が宙を舞った。
遅れて、辺りを紅く染める鮮血。
「並べ」
剣を前方に突き出し、次、と催促する王。
なんの催促か? その場にいるギシンを除いた者達は理解したくなかった。
「これで掃除は終わったか」
王が真っ赤に染まった玉座に座る。剣についた血脂を丁寧に拭き取り、鞘に収める。ギシンはそのすぐ傍に寄り、しわくちゃの顔をさらに歪ませ、頷いた。
「これで戦争に行った折、後ろから刺されることもありますまい」
「しかし全員殺す必要はあったのか? わしにくだらぬ演技までさせて」
「この中の何人かは確実に裏でツェルと繋がっておりまする。疑わしきは全て切り伏せれば、なにも心配はございませぬ」
「ふん、まぁいい。どうせいつかは下した判断だ。それにしても」
部屋中に飛び散る鮮血を意にも介さず話を続ける二人。
その姿は気でも違ったようにも見える。
「娘が逃げたのなら、なぜすぐに追わぬ。儂がその一点において激怒しているのは間違いないぞ」
クッと喉で笑うギシン。
「娘は逃げて、いずれツェルの庇護下に入るでしょう。それまで、我らの同志が何人、犠牲になることやら」
ふむ、と髭を弄る王。
そしてなるほどと得心したかのように、手を叩く。
「それを理由に戦争を仕掛ける、と?」
「そうです。大罪人の擁護、並びに我ら同志の殺害。理由がこれだけあれば問題ありますまい」
「ならば、捕虜を使おう。死んだところで我が国の痛手にはなるまい」
いい案ですな、とギシン。
彼らの話は決して明るい話題ではない。
だが彼らは、年頃の女が色恋沙汰に花咲かせるように、老齢な男が酒場で武勇伝を語るように、楽しげで軽快だ。
「街道は既に抑えましたので、娘はこれからヨヌにもう一度入り、海路を往くしかありますまい。適度に襲撃し、泳がせ、疲弊させ……案内してもらいましょう、国の最奥、波動の在り処へ」
「ならば、一度くらい揺さぶりを掛けても文句はあるまい」
「というと?」
「聞けば、ツェルの者は相当の手練と聞く。ならばそやつを砕き、如何に強大な敵に背を向けたか、思い知らせてやろう……精神的にも追い詰めるのだ」
王が衛兵を呼ぶ。扉から入ってきた衛兵が部屋の惨状に表情を崩しかけるが、すぐに気を取り直して、王の命令を待つ。
「部屋を片付けておけ、それとトーンを呼べ、海路に入る前に、奴に一度叩かせる」
「はっ!」
駆け出す衛兵。
「トーン万人将ですか、それならば安心ですな、巷では波動の悪魔と並び称させる我らが英雄。王の信頼を一身に勝ち取っている男ですからな」
「儂は誰も信用などしておらぬ」
「ご冗談を」
ややあって侍女姿の女が数人部屋内に入り、無感情な顔で部屋を片付け始めた。片付けをする次女のエプロンが血に染まるのをニヤニヤと眺めながら、
「では、これにて。御用があればお呼びください」
とギシンは玉座の間を後にした。
嫌な音を立てて閉まった扉を無言で睨んだ後、王は立ち上がり、吐き捨てるように呟く。
「もちろん貴様を一番信用していないぞ、ギシン」
その言葉は扉に届くことなく、血溜りに溶けて散った。
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