第五話 波動の国の女騎士

「さて、早速だけど!」


 一刻ほど街道を戻り一息ついたところで、女騎士が気さくな声色で馬上越しに話しかけてきた。微塵も警戒している様子はない。

 少年とアイが答えないでいると、女騎士は特に気にする様子もなく兜を外し素顔を晒した。月の光に艶やかに映える黒髪と兜越しにも見えた白い肌が印象的な、美しい女性だ。

 流浪の民だったアイにとっては見たことのない程の美貌であり、思わず見とれてしまうのも無理はない。そんなアイと目があった女騎士は、愛嬌のある笑顔を向ける。


「私はツェル波動騎士団所属、ヘザー・ラッセン。君を保護、護衛をするために遣わされたものだよ、アイ・メルティナさん!」


 惚けていたアイの表情が瞬時に凍りつく。

 その名を呼ぶということは、アイの素性を知っているということ。

 人懐っこい笑顔のせいか、ヘザーは何を考えているか分からない。

 いつでも逃げ出せるよう、少年は手綱を持つ手に力が込めた。

 微妙な空気を感じとったヘザーは、顔の前で手を振り大声で笑い出した。


「いや、ほら! さっき言ったでしょ? 味方だって。ツェルはあなたを……今は二人だから、あなた達になるのかな? まぁとにかく匿うために来たんだよ」

「匿う……保護?」

「そう保護。ジッカリムはあなた……アイって呼んでいいよね? アイを波動の悪魔、戦争の仕掛け人の娘として処刑するつもりらしいんだけど、元々あいつらが小競り合いを起こしてきたわけじゃん? 波動を使って神を生み出したグレン・メルティナを悪く言うなんて筋違いにも程があると、波動教会は考えているわけよ」


 さも面倒そうに言葉を続けるヘザーに面食らったのか、当のアイは困惑気味である。


「波動教会?」


 少年は敵意なしと見なし、自ら馬をヘザーに寄せ話を促す。


「ツェルの実質の権力中枢だよ、少年。ところで君は誰かな? 私達の予定じゃ、アイだけを助けるはずだったんだけど?」


 若干の刺のある言い回し。

 人懐っこい性格と笑顔の裏に、機微の聡さを窺わせるそんな印象の言葉だ。

 ヘザーの表情が少しだけ硬くなり、左手が手綱を握りなおすのをアイは見逃さなかった。


「アイに命を救ってもらったんだ」

「記憶喪失で、村の浜に倒れていたんです」

「記憶喪失? 浜で?」

「ええ」

「なにそれ、出来すぎ」


 声は笑っているが笑顔はない。ヘザーの冷たい視線が少年に刺さる。


「本当の事いってごらん? おねえさん怒らないから」


 いよいよ会話の雲行きが怪しくなってきた。ヘザーは左手を鞘に添え、いつでも抜刀できるよう身構えている。またいつの間にやら馬と馬の距離が離れておりヘザーの剣の間合いになっている。何気ない動作一つが彼女が所属する波動騎士団の実力を如実に表していた。


「なにを言っても信じてもらえないだろうけど、一ついい?」

「一つと言わず、いくらでも言い訳を並べてみて? 楽しめるなら大歓迎よ」


 ヘザーの手綱を握っていた右手が柄にかかる。

 こうなってしまえばどんなに言葉を尽くしてもこの事態は好転しない。

 短い間に二度も同じようなことで落ち込むことになろうとは……自分の無力さが歯痒いアイ。


「ありがとう」


 少年はあっけらかんと言い放った。

 アイも、抜刀しかかっていたヘザーも意外な言葉に呆気にとられ、何も言えずにいる。当の少年は首をかしげ、不思議そうな顔をした。


「恩義を感じたらありがとうと言うのですよってアイに教わったけど、間違っていた?」

「いや、合っているけど……少年はなにに恩義を感じたの? 私はまだ君達に何もしていないよ?」


 アイも微かに頷く。

 それを見たヘザーが少しだけ笑った。


「だって、安全な道に案内してくれたし、それに」

「それに、なんですか?」

「ヘザーが残っていた騎馬兵を全員倒してくれたから僕らは逃げ切れた」


 穏やかな風が吹いた。

 夜の、あまり明るくもない月光の下。柔らかで穏やかな頬を撫でる優しい風。

 アイもヘザーも声を出せずにいた。

 風に揺らぐ自らの髪も抑えずに、少年を見ていた。

 耐え切れなくなったのか、ヘザーがついに噴き大腿を叩いて笑いだす。


「あーっはっはっはっは、こいつは傑作だね! 自分が疑われている状況でよくお礼なんて言えるもんだ! その度胸気に入ったよ少年!」


 ヘザーの警戒心がここにきてようやく解けたことにアイは気付いた。

 出会ってから一度も、ヘザーは警戒心を緩めてはいなかったのだろう、大笑いを皮切りに気付きもしなかった息苦しさが霧散し、ほっと深い溜息が漏れた。  

 剣に添えられていた両手を離し、ヘザーは篭手を外して少年に握手を求めていた。 

 握手を知らない少年は、その手に対しどうしたらよいか分からず困惑する。

 そんな少年の手を強引に掴み、握手を交わすヘザー。


「疑うような真似してごめんね、君も知っての通り……あ、いや知らないのか、アイには敵が多いからさ」

「知ってる。さっき聞いた。警戒するには越したことないと思う、僕だってそうする」

「そう? じゃあまあよろしく少年、それとアイ」


 握手をアイにも求めるヘザー。アイが手を出せずにいると、


「君ら二人して奥ゆかしいなぁ! はい、握手握手!」

「どうして、そこまでして私を?」


 確かにヘザーは強いのだろう。

 いくら統制が取れていなかった騎兵達が相手とは言え人数が人数。それらを相手にほぼ無傷で立ち回るなんて、よっぽどの実力差がない限り無理な話だ。

 だからこそ、アイにはわからなくなった。

 自分はそこまでして守る価値のある人間なのかと。生き延びる意味はあるのかと。

 そんなアイの心中を察したのか、ヘザーは握った手に力を入れもう片方の手も重ねた。

 アイがヘザーの顔を見ると、そこには明るく前向きな笑顔ではなく、優しく慈愛に満ちた微笑みがあった。


「気にすることないよ。確かに君がグレンの娘だから助けようって話だけど、無辜の民を助けるのは波動騎士団にとって当たり前のことだから」

「でも私は!」


 首を振るヘザー。いつの間にか流れたアイの涙を、ヘザーが指で拭う。


「アイ。君は父親の罪と無縁に暮らすべきだ。実の娘だからって気に病むことは一つもない。ツェルはそんなアイを守りたいんだ。あそこならアイがアイのままで生きていられる、逃げ隠れしなくてもいい生活が待っている。でもそのための旅はめちゃくちゃ過酷だよ。ジッカリムの追っ手はこれからますます苛烈になるだろうし、逃げきれる保証は正直ない」


 少年を見つめるヘザー。涙で頬を濡らし、振り返るアイ。

 少年はそんな二人を不思議そうに見返した。


「ツェルについてやっぱり外に行きたいと思うならそれでもいい。ただ今はツェルに来てくれないかな。君のため、ひいては少年のためにもなると思うんだ。だからその道中私に君たちを守らせて欲しい」


 ヘザーの優しい言葉がアイの胸に響く。

 アイは涙を拭い、その言葉を反芻した。そして力強く頷く。


「わかりました」

「あと、これは個人的な理由なんだけどさ」


 何故か照れくさそうに顔を逸らすヘザー。

 少年もアイも何事かと近寄るがその度に離れてしまう。


「どうしたの、ヘザー。なにかあったの?」

「いやーはは。なんでもないんだけどさ。こういう台詞って、言うの照れくさくて」


 などと言いつつ頭を掻く。端正な顔立ちで、高貴な雰囲気すら漂わせるヘザーにはあまりにも似合わない動作で、アイは堪らず噴き出した。


「もう! ひどいなぁアイは! もういい、それなら言わないもんね!」


 頬を膨らませ、そっぽを向く。子供のような行動に、少年も笑いだす。


「何ですか、言いかけたのなら、最後まで言うべきです」


 すぐに追いかけヘザーに声を掛ける。

 アイはその時ふと思った。

 同年代であろう女の子に、こうして話をするのは何年ぶりのことだろうと。

 そしてそれはヘザーもアイと同じである。

 小さい頃から騎士として育てられ、同性と話す機会の少なかった彼女にとっても、久しい感情であった。


「……騎士団の中でも女って珍しくてね。友達って呼べる人全然いないんだよね。アイと友達になりたいからってのは、理由としては不純でしょ?」


 ヘザーの困った顔が、アイの心をくすぐる。


「ううん。……そんなことないです」


 アイは村にいるときはどこか遠慮した印象を与え、あまり積極的に村人達に関わろうとしなかった。詳しい事情を知ればその態度も納得いくものだったが、それにしても大人しすぎるきらいがあった。今は、年相応の笑顔を浮かべ、楽しそうにおどけている。

 少年は今来たばかりの道を振り返り今日一日で沢山の出来事を思い出した。

 村を追われ、馬車からの逃亡、ヘザーとの出会い。

 目まぐるしい一日ではあったが、それでも前に進むことができた。

 自分はもちろんのことアイはもっと世界に触れるべきなのだ。

 人と繋がり、色んなことを知らなければならない。人との繋がりは自分自身を成長させ、知識は繋がりを守り、身を守ることに役立つ……それが大事なのだ、と。

 少年の心は軽やかだった。まだまだ世界は知らない事だらけで、楽しい事が沢山あると。これからどんな人物に出会い、どんな物に巡り合うのか。

 まだ見ぬ出会いに少年は心躍らせた。




 ――少年は知らない。この世界には知らなくていい真実もあると。

 ファルアザードにアイ脱走の報が届いたのは、翌々日の朝だった。

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