第一話 出会い。砕かれた記憶と波動という奇跡
少年が目覚めた時、潮騒が遠くに聞こえた。
少年はそれが何故潮騒だと思えたのか疑問に思うが、とにもかくにも掛けられた布団を剥ぎ起き上がった。
見たこともない場所に少年はいた。
薄暗い室内に差し込む光。外の明かりに誘われ、開け放たれた窓から、目を細めながら顔を出し辺りを窺う。
窓の外に広がる風景。簡易な作りの家並みに、その間を縫うように走り回る子供達。数人の大人達が網を引き、嗄れた掛け声を上げている。どこにでもあるような風景。のどかと言う他ないその光景に、少年は言いようのない歯痒さを感じた。
「お目覚めですか」
背後から掛けられた声に振り返ると、一人の少女が立っていた。頭に布を巻き、黒い髪を片側で纏めている。印象として意志の弱い、だが優しさを秘めた瞳。微笑みを湛えながらも気遣うような表情に、少年は若干緊張した身体を弛緩させる。
「ここは私の家です。あなた、波打ち際で倒れていましたが、覚えていますか?」
少年は首を静かに振る。少女はベッド横にある椅子に腰掛け、コップを少年に手渡した。少年は差し出されたコップをおずおずと受け取り、それが一体なんなのか考えた。中身は飲み物で、この容器が飲み物を入れる道具だと思い出すのにひどく時間がかかりもどかしい思う。
「体が冷え切っているでしょうから、熱いうちに飲んでください」
少女は熱さに戸惑っているのだろうと解釈した。少年が一口飲むとなるほど、確かに体が冷え切っていたのだろう、体が芯から暖かくなるのを感じた。言葉もなく少年は無心に飲み続ける。
「しばらくこのお部屋でお休みください。好きに使ってもらって構いません」
少女の言葉を受け部屋を見渡す。少年の寝ているベッドの隣にも同じ大きさのベッドが並んでおり、ここが容易に寝室だということがわかる。
……ベッド……コップ……寝室。
少年は若干の頭痛を覚え俯いた。普通の人間が思い出す事さえ必要のない名前と意味を、彼はやっとのことで捻り出す。
「何かあったら声を掛けてください。私は階段を降りて、一階にいますから」
少女が立ち上がる。その際にも少年は階段、一階、と時間を掛けてその意味を思い出していた。
「待っ……て」
初めて少年が言葉を口にする。その聞き慣れない……少年にとって少女の声も聞き慣れないわけだが……自分の声に違和感を覚えながら、少女を呼び止めた。
少女は微笑みを浮かべながら振り返り少年を見る。少年は、何かに戸惑ったかのようなそんな素振りを見せた。
そしてゆっくりと、噛み締めるように、言葉を口にした。
「自分が、何者か、思い出せない」
少年は記憶喪失だった。
※※※
アイと名乗った少女は、献身的に沢山の物事を少年に伝えた。少年の記憶が失われたとは言え、思い出すことはできるようで、徐々に生活に必要な記憶を取り戻してゆく。
もどかしいながらも努力し続ける少年を、アイは暖かく見守った。
しかしアイの思いとは裏腹に、少年は歯痒さで一杯だった。
どんな事でも、知ってはいる。知ってはいるが、正確に覚えていない。
記憶に霞がかかるとはこのこと、と考えることすら出来ない。自分の気持ちすら表現することがままならないのだ、恐怖を超えて苛立ちを覚えていた。
「焦らなくていいと思います」
アイが優しい微笑みを少年に向ける。
「ゆっくり時間を掛けて思い出せばいいと思いますから」
笑顔が少年には眩しかった。優しさが嬉しかった。そしてそれを伝える術がわからなくて塞ぎ込んでしまう……そんな毎日の繰り返しだった。
少年が目覚めて数日が過ぎた。今では生活に戸惑う事がない位に記憶を取り戻しており、アイの仕事も積極的に手伝った。
アイに両親はなく、漁村で一人生活を営んでいた。もともと手先の器用だったアイは漁師達の使う網を直したり、新しい網を編んだり、生活に必要な布を扱う仕事を生業にしていた。母親が亡くなるまでこなしていた仕事のようで、それを引き継ぐような形で続けている。
アイは言う。
「お母さんを、いつまでも忘れないように。そのために続けている」
と。少年は押し黙った。
「でも好きで仕事していますから。これで結構楽しんでいますよ」
笑顔で作業を続けるアイ。その顔に悲壮感は微塵も感じられない。
少年はアイに感謝した。一人の生活も大変だろうに、どこの馬の骨とも分からない自分を拾い、甲斐甲斐しく面倒まで見て、その上生活まで共にしてくれている。言葉では言い表せないほどの感謝の気持ち。もちろん少年の語彙が少ない事は否めない、だが例え語彙が多くても、この気持ち全てを伝えることは難しいだろうと、少年はそう思った。
しかし、それほどの感謝の気持ちを持ちながら、少年は疑問に思うことがあった。頑丈な網を足で抑えながらも、丁寧に編みつつ尋ねた。
「アイの両親は、なんでいないの?」
途端アイの顔が曇った。聞くべきではなかったと後悔してももう遅い。
アイは窓から外を見た。釣られて、少年も外を眺める。
「あなたはこの村の、おかしなところに気づきませんか?」
子供達が大きな声を上げて駆け回っている。窓から入ってきた風になびく髪を抑え、アイは眼を細めた。
「大人が、少ない」
はしゃぎ回り、大声を上げ……そして当たり前の如く大人達の手伝いに加わる子供達。少年と子供達は数日間で仲良くなった。村の誰もが少年を受け入れ、優しさを持って接してくれる。だが村には何か足りないものがあるとも考えていた。それは異常に少ない大人の存在だ。子供達は十人もいない。それに対し、親と呼べる年齢の大人が一人もいないのだ。多くは壮齢を過ぎた、ともすれば高齢と言っても過言ではない者達ばかりが集まっている。
「最近まで……戦争があったんです」
歯切れ悪く語り始める。
少年は話を促すこともできず、次の言葉を待った。
「子供か高齢か、もしくは体が弱くなければ……男も女も関係なく、徴兵されていきました」
ずきりと心が痛む。アイの両親がどうなったか、少年は察してしまったからだ。
そんな思いが顔に出ていたのだろう、アイは小さく頭を振って微笑み掛けた。
「母は、幸い体が弱く戦争には徴兵されずにすみました。数年前に病を拗らせ他界するまで、私とともに暮らしていましたよ。父は徴兵というより、自ら志願していきました。早くこの戦争を終わらせて、お前達が平和に過ごせる世界にするんだって、英雄にでもなったかのような無邪気な顔で」
馬鹿馬鹿しいですよね。そう言い切ったアイの顔はどこか誇らしげに見えた。
「戦争は、なぜ始まったの?」
少年は話を続ける。徴兵を行うほどの大規模な戦なら、記憶の引っ掛かるかもしれない、そう考えたからだ。アイもその意図を理解して、止まっていた手を動かしながら答える。
「元々は二柱の神の争いだったそうです」
「神?」
強い風が吹き込み家が大きく揺れる。
「あなたは“波動”と聞いて、なにか思い出す事がありますか?」
アイは作業の手を止め、風が入らないよう窓の庇を下ろした。
空は晴天だが海が荒れている。風が強くなったのはその所為だろう。
「思い出せない」
波動とはなにか? いくら考えても何も思いつかない。少年は動揺した。今まで言葉の意味や使い方が完全に思い出せなくても、どちらかは記憶の中から浮かび上がってきていた。
それが“波動”という言葉にはない、まるっきり空白なのだ。それは少年にとって今までなかった経験で、数日程度の記憶といえど心乱れても無理はないことだろう。
「波動は神がもたらした奇跡と言われています」
アイは少年の動揺に気付かず話を進める。
「神話では、この世界に神は存在しません。皆いなくなりました。ですが神なき後の世界を憂いた最後の神が、人類に創造の力を残したと言われています。これが波動という奇跡です」
「どういうもの、なの?」
「人間の願いを際限なく叶えます」
「際限なく?」
「言葉通り物質、現象、事象、全てを叶えてくれます」
はっきりと断言するアイ。際限なく願いを叶えるとは、神様も大きく出たものだ。言葉を無くす少年に対し、アイはなおも続ける。
「ですが誰しもが願いを叶えられるわけではありませんし、波動を使うにあたり相応の危険も覚悟しなければなりません」
「というと?」
話に熱が入りすぎているのだろう、もはや作業の手は完全に止まっていた。昔話を子供に聴かせるように、ゆっくりと語るアイに聞き入る少年。
「まず、波動が知覚できる。これが唯一の条件であり、ほとんどの人間が知覚することはおろか、存在に気付きもしません。そして波動の危険とは”反動存在”があるのです。叶えた願いの”波動存在”とは全く反対の性質を持つ何かが、世界に産まれ堕ちてしまうのです」
一度言葉を切り、蝋燭に火を灯すアイ。気づけば辺りは暗くなっていた。それほどまでに話に夢中になっていたのだろう、少年は立ち上がり、玄関布を下ろした。
「それのどこが危険なの?」
「平和を望み、波動に触れたら、どうなると思いますか?」
「平和になる願いが叶う」
「そしてそこに反動が産まれ堕ちる」
「……戦争が起こるって言うの?」
こともなげに頷くアイ。
「それが波動という奇跡……もしくは呪いなんです。際限なく願いを叶え、その願いと同等の厄災をもたらす」
「そんな無茶苦茶な」
口をついて出た言葉は少年の率直な気持ちだった。いくらなんでも節操がなさすぎる。神が人類のために齎したというには、あまりにお粗末で欠陥だらけの現象だ。
馬鹿げていると頭を振りつつ、しかしアイの真摯な態度に冗談ではないのだと理解する少年。そしてその真剣な表情を見ているうちに恐ろしい考えが脳裏を過ぎった。だがそれはあまりにも荒唐無稽な考えであるため、振り払おうとするが思考にこびり付いて離れない。
有り得ない、こんなことは有り得ないはずだ。しかし――
頭で否定しつつ少年は考えを口にした。
「……さっき神話では神がいないと言ったけど、戦争の原因は二柱の神の戦いと言ったよね?」
「はい」
「ということはその二柱の神は、波動から取り出された……いわば人造の神ってことなの?」
「その通りです」
さも当然のように恐ろしい現実を肯定するアイ。その表情からはなんの感情も読み取れない。暗いだけが理由ではないと少年は思う。
「ある男が願ったのです。神なき世界に平和と創造の神を遣わせてくれ、と」
そしてその願いは叶えられ、神は”波動存在”として顕現したのだろう。”反動存在”である戦乱と破壊の神と共に。
「程なく両者は争いを始めました。性質の不一致も然ることながら、反動存在の第一目標は波動存在の破壊です。そうして想像の神は不本意に、破壊の神は本位的に戦火を世界に撒き散らし、各地で戦争に至ったわけです」
「今も、続いているの?」
「いえ、今はもう。人同士の小さな紛争は絶えませんが、大きな戦は起きていません。先の大戦以降二柱とも目撃されたという情報はありません」
万感の思いでアイは話を締めくくった。
「世の中を平和にするために遣わされた神が、戦乱を招く元凶になるなんて……神もさぞ落胆したでしょうね」
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