第32話 大人編~帰さない~

無事にアンコールを弾き終えて、拍手の鳴り止まない中、通路を通って控え室へ向かう。


今日の会場はホールサイズの中では比較的大ぶりな方で、古い造りの為控え室からステージまで結構な距離があった。


用無しの蝶ネクタイは外してしまって、早々に上着も脱ぎ捨てる。


身軽になって控え室のドアを開ければ、さっき舞台を降りる直前まで確かに客席に居た彼女の姿すでにあった。


パッと振り向いた彼女が笑顔である事をまず確認して、今日の演奏も良かったようだと安堵する。


選曲も良かったし客受けも良かったと自負していたが、やっぱり目の前の彼女の反応が一番気になってしまう。


「お疲れ様!」


「早いなぁ」


「幕が下りてすぐに走って来たのよ」


まどかはすでに修の常駐スタッフの間では顔パスだ。


どこでも通れるし、当人不在の控え室だって我が物顔で居座る事を許されている。


彼女から強請られたわけでは無くて、こちらからそうさせて欲しいとお願いしたうえで、だが。


「そんなに俺に会いたかったん?嬉しいなぁ」


目を細めて目の前の華奢な体を遠慮なしの力加減でぎゅうぎゅう抱きしめる。


苦しい、と悲鳴が上がったが無視した。


演奏の後は大抵いつもこんな感じだ。


高揚感と達成感でアドレナリンが出まくっているので、上手く加減が効かない。


柔らかい首筋に頬ずりをして、この前のデートで買ってやったワンピースの襟ぐりにキスを一つ。


背中のリボンが可愛くて一目惚れしたまどかに、似合う似合うと太鼓判を押してさっさとカードで支払いを済ませた時に、次に会う時には着ておいでと伝えてあった。


ちゃんと覚えておいてくれた事が嬉しい。


まとめ髪の項でひらひらと揺れるシフォンのリボンはなんとも扇情的で、一仕事終えたこちらを全力で誘惑してくるのだが。


柔らかい皮膚を唇を辿っていると、まどかの手が修の肩をぺしりと叩いた。


ピアニストに気易く手を上げられる女性は彼女位のものだ。


可愛らしい力加減にニヤニヤしながら、反対の首筋にもキスを落とす。


「泊っていけるん?」


ピアニストになって精力的に活動を続けている修を追いかけるように、バイオリニストになったまどかは、コンサートの数こそ修より少ないけれど、それなりに名の知られた存在だ。


相変わらず遠距離恋愛を続けている二人にとって、互いのスケジュール調整が一番のネックである。


「帰る」


「嘘やん!」


「だから、大急ぎで来たのよ。顔も見ずに帰ったら怒ると思って」


学生の頃とは違い、テレビ電話がすっかり浸透した世の中ではあるが、やっぱり直接会って話すほうが楽しい。


会えばこうして抱き合う事も、唇を寄せることも出来る。


だから、修のプライベートはほぼまどかの追っかけ状態だ。


マネージャーである詩音から横流しして貰った彼女のスケジュールを完璧に把握して、時間を見つけてはコンサート会場へ押しかけている。


ちなみに、詩音含めて、まどかの常駐スタッフにも修は顔パスだが、それはまどかでは無くて、修が強請ってそうしたことだった。


新たに男性スタッフが加わると必ずチェックしに行く入念ぶりに、詩音も菫哉も辟易しているのだが、知った事かと放置している。


まだ暫くこの生活が続くことになるので、出来る限りまどかの事は細部まで知っておきたいのが本音だ。


お嬢様育ち故か、バイオリンを弾く事以外は以外とあれこれお留守になりがちな彼女なので、気が抜けない修である。


「そら怒るよ。なんで?移動明日の朝やろ?」


把握済みのまどかのスケジュールは、明日の朝の新幹線移動だったはずだ。


「だって荷物家だし、しーちゃん迎えに来るし」


「しーちゃんに言うて荷物持って現地集合にしてよ」


「いやよ。着替えとか準備出来てないの」


「・・なんで」


修ほどではないが、全国行脚にも慣れてきたはずのまどかである。


宿泊荷物の準備位朝飯前の筈だ。


納得出来ずに不貞腐れた顔になった修を見上げて、まどかが膨れっ面になった。


ヒールの高さの分だけ近づいた視線と、唇の位置を目測で計って、彼女が唇を開く前に軽く啄む。


濡れた感触は彼女の唇を彩るアプリコットピンクだ。


まどかは修の唇に色が移るのを嫌がるが、今日だけは赦して貰うことにする。


二週間ぶりの柔らかい唇は、一度で離れる事なんて出来そうにもない。


俯きそうになった彼女の項を掬い上げて、深く唇を吸えば、まどかが素直に唇を解いた。


「ええ子」


上唇をなぞりながら呟けば、ぎゅっとドレスシャツの袖を握られる。


やわこいとしか言いようのない弱い力は、了承なのか、抵抗なのか。


どっちにしても、飲み込んでもらうことになるけれど。


ゆるりと狭い口内に舌を潜り込ませれば、あえかな声を漏らしてまどかが震えた。


耳を擽る吐息交じりの甘ったるい声に溺れるように、遠慮なく舌を絡ませる。


さっきから震えるように耳たぶで揺れているぶら下がりのダイヤのピアスは、修からの成人式のお祝いだった。


これを贈ってからもう随分と経つ。


「・・・あ、たし・・・の・・・予定・・・知ってるでしょ」


キスの合間に恨めし気にまどかが零した。


そりゃあもう綺麗に把握してるけどな。


「昨日は四国やったやろ」


「う・・・ちあげ・・・遅かったの!」


今日の修のコンサート会場は静岡なので、まどかは一端実家に戻って今朝の新幹線でここに来た。


これから移動しますとメッセージが届いていたので間違いない。


「荷物・・全部放り出してここに来たのよ!!!」


「ああ・・・なるほど」


彼女の膨れっ面の理由が漸くわかった。


「今日は俺に会うのを第一優先にしてくれてんな」


「分かってるなら。あたしが帰る理由も分かるわよね!?」


今日中に帰宅して、明日の朝からの移動に備えなくてはならないという彼女の言い分は尤もだ。


が、修としても久しぶりの逢瀬をこれだけでお終いにするのは物凄く惜しい。


「分かるけど・・・分かりたないなぁ・・・」


「あのねぇ・・」


「明日の朝、俺も早起きするからさ、駅まで送るわ」


「だから・・あたし手ぶらなの!」


「まどか、最近はコンビニになんでも売ってるねんで。お前がこないだ置いて帰った化粧品はちゃんと保管してある」


「・・・寝坊したら許さないからね」


「念のためしーちゃんに連絡しとこ」


これで二週間ぶりに同じベッドで眠れそうだとほっとした修は、早速敏腕マネージャーに連絡をするべくテーブルの上のスマホに手を伸ばした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スローダンス  ~15マーブル アンダンテ スピンオフ~ 宇月朋花 @tomokauduki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ