第31話 大人編~弾けない~
何とも耳障りな音の羅列で目覚めたら、部屋はすっかり夕日に染まっていた。
カーテンを引くことも忘れて、ピアノの前に陣取っているのは詩音だ。
調律師という仕事を選んでからも、詩音は変わらず菫哉にピアノを弾いてくれとせがんだ。
菫哉がピアニストであろうと、無かろうと、詩音にとって、菫哉のピアノはこの世で唯一のピアノ。
絶対無二の存在だったのだ。
付き合い始めた当初は、素直すぎる愛情を向けられて、戸惑う事もしばしばだったが、今では慣れたものだ。
詩音がどんなにひねくれても、菫哉に向けられる真っ直ぐな愛の色は変わらない。
詩音にとって、菫哉のピアノが絶対であるように、菫哉にとっても、詩音は、無色の世界で、そこだけが鮮やかに彩られて見える。
だから、大抵の我儘(むちゃくちゃなリクエスト)にも応えてしまう。
それが、詩音を増長させることになっていると分かっていても、自分に向けられる我儘すら愛しいのだから仕方ない。
が、さすがにこの音は酷過ぎた。
次のまどかの仕事まで、数日時間が出来たので、久しぶりに二人きりの時間を過ごせることになった。
詩音の願い通り、流行のJーPOPから洋楽の古いナンバー、ジャズに王道の讃美歌まで。
様々な曲を弾きこなして、遊んだ。
それから、念願叶って発売が決まったまどかの初デビューアルバムを二人で聴いて、最近のまどかと弓削の遠距離恋愛の報告を受けた。
いつも通りのオフだ。
途中でまどかが、懐かしい映画が見たいと言い出して、DVDの山をかぎ分け始めた。
どうやらそこで、眠気に襲われたらしい。
この様子だと、映画を観終わって、その曲が聴きたくなって、楽譜を探したけれど、鍵盤を前にしたら、難しすぎて弾けなかった、というところか。
熟睡中の菫哉を起こそうか迷って、自分で挑戦している真っ最中らしい。
多分、何の曲?と訊けば、思い切り怒られる。
何とかメロディーを掴もうとしている右手には敬意を表するが、如何せん詩音には音楽の才能が皆無だ。
マネージャー業には向いているが、逆立ちしたって演奏家には慣れない。
もともと、せっかちで、いらちな性格だ。
思うように動かない両手の指で鍵盤をたたくのには限界がある。
「しー?」
怒りだす前に助け舟を出そうと、菫哉はソファから起き上がった。
親の敵のように楽譜を睨み付けて、鍵盤に指を落とす詩音。
そっと後ろから楽譜を見つめる。
ああ、その曲か。
子供の頃に繰り返し見た映画の有名な挿入歌だった。
となると、詩音が弾きたいメロディーはすぐに分かる。
「肩に力入り過ぎ」
ぽんと肩を叩いて、詩音の後ろから手を伸ばす。
寝起きでも鍵盤を叩く指は滑らかだ。
「起きたの?っていうか、起こしたのね」
振り返った詩音が、苦笑いする。
「後姿が戦ってたよ」
「・・・ピアノって難しいね」
「今さら?」
上目使いに見つめてくる詩音の額にキスをして笑う。
「何年僕のピアノ聴いたっけ?」
ピアノに焦がれて、伸び悩んで、挫折して、嫌いになって、でも、諦めきれずに、縋りついた。
その過程を全部見てきた人が、何を言っているんだか。
「菫哉の心を掴むんだから、簡単なわけないよね」
「・・・そういう所が、凄いよ、詩音は」
時々この恋人の思考に驚かされる。
菫哉が1日悩んで答えが出せないものを、詩音はものの1分で解いてしまう。
それも、菫哉が考えもよらなかったような答えで。
額にしただけでは物足りなくて、席を譲ろうとする詩音を閉じ込める様に、ピアノと自分の体で挟んで、キスをする。
覗き込む様に合わせた視線は、明らかに熱っぽく潤んでいて、いつもの、まどかのマネージャーの詩音はどこかに隠れてしまっていた。
目の前にいるのは、菫哉の恋人の詩音。
ピアノを聞きたがる、少し我儘な愛しい恋人。
「ん・・・っ・・・っ・・・っふ・・・」
俯こうとした詩音の顎を指で掬って、深く口づける。
さっき飲んだ甘ったるいミルクティーの味が舌先に移った。
「ん・・・いつも思うけど・・・甘すぎない?」
唇に残った、焼けつくような甘さ。
菫哉が鍵盤を叩きながら呟く。
詩音が甘える様に菫哉の背中に抱きついた。
「あたしとのキスは、いつも甘いの、いいでしょ?」
「・・・どこで覚えてきたの、そんな小悪魔みたいなセリフ」
溜息交じりに言って、菫哉が詩音の髪に頬を寄せる。
「あなたの優秀な妹姫よ」
茶化す様に詩音が言った。
途端、菫哉が思い切り顔を顰める。
「まどか、っていうか、それ絶対弓削だろ」
「はいはい、怒んないで、お兄ちゃん」
まどかが宥める様に菫哉の頬にキスをして、甘く囁いた。
「それより、弾いて?」
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